2019年06月20日
世界1周の旅:ヨーロッパ前編L 一生に一度は訪れるべき街、バルセロナ
A voyage round the world : Europa Edition 1st part L Barcelona ―― The city you should visit at least once in your life【March 2011】
「イタリアから、スペインのバルセロナへ
From Italy to Barcelona in Spain」
驚くべきことに私は当初、このバルセロナというマドリッドに次ぐ大都市にさほど興味を持っていなかった。
ただ、列車でスペイン入りするための玄関口にあたる都市だったからひとまずそこに入ったにすぎない。
バルセロナといえばガウディのサグラダ・ファミリア!
もともと犯罪大国、頻発するテロ、というような危険なイメージが大きかったスペインだからかなりの警戒心を持っていたし、イタリアで暗く沈んだ2週間を過ごした後遺症で、バルセロナ入りした3月22日の私の心は重かった。
楽しみにしていたトリノ〜バルセロナ間の夜行列車エリプソス号は、二人席の窓側だったが、隣りのオジサンが車輛中で一番巨大な鼾をかいてくれたおかげで(怒)、ほとんど眠れないままのバルセロナ入りとなった。
そんなイタリアでの暗さだけでなく、夜行列車の疲れという重い甲冑に体を覆われたようなどよんとした私の心を、バルセロナは一日もかけずにほぐしてくれた。
滞在中毎日晴れていたことも大きな要因かもしれない。が、この街の醸し出す「普通」を強要しないおらかさに私は惹かれた。
22日、9時42分定刻にバルセロナへ到着した後、フランサ駅前に位置する一つ星ホテル(ホステル)の部屋にはすぐに入れてもらえたので、チェックイン終了直後ベッドへ倒れこむようにして眠った。
夕方のそのそと起き出して、カテドラル目指して大通りを散歩してみる。観光客の溢れかえる極めてカトリック的な重々しいカテドラル周辺をぶらついた後、カフェに入ってみた。イタリアと違い、お姉さんが笑顔で「オラ!Hola!」と迎えてくれたので、とても入りやすかった。
そこでカフェラテとワッフルをお腹に入れて満足した後、再びキョロキョロと独特の建築物を眺めながらフランサ駅前まで戻ると、その日は夕飯と翌朝の朝食用にピザをテイクアウトして部屋へ。
バルセロナといえばサグラダ・ファミリアばかりがフォーカスされるが、バルセロナ大司教座がおかれたカトリックで最も格式の高いカテドラルは、旧市街ゴシック地区にある広場の前に鎮座するこのサンタ・エウラリア大聖堂。
地中海に面しているとはいえ、3月のバルセロナもまだやはり寒い。ボロいデスクの下にちょこんと、まるで隠すように置いてあったヒーターは昼間動かなかったのだが、夜の冷え込みに震えて祈りながらコンセントを入れなおすと、奇跡のように動き始めてくれたのでなんとか凍えずに済んだ。そんな時も目に見えないものの助力を感じてしまうのがその頃の常だった。
若いバックパッカーと違い、一人旅をする妙齢の日本人女性にとって、スタバやマック、経済的な日本料理屋が多いというのは、それだけでありがたいものである。私がイタリアを好きになれなかったのは、スタバが1軒もなかったというのが、最大の原因だと本気で思っているくらいだ。薄くてもアメリカン万歳、イタリアン・エスプレッソなどくそくらえ!(あら、失礼)
「バルセロナ 街全体が美術館
Barcelona, The whole city is a museum」
次の2日間は、両日とも旅行会社の半日ツアーを申し込んだ。割高なのは仕方ないが、バルセロナという初めてのスペインでの大都市で、治安にビビッていたことと、日本語ガイドの重要性を感じていたことによる。
フィレンツェでウフィツィ美術館へ行ったとき、英語の説明プレートだけでは私の理解力に問題があり、せっかくの美術品や傑作を前に詳細がわからないという歯がゆい思いをしたからだ。
確かに芸術は感じるもので、知識など必要ないのかもしれない。しかし、その建築物なり作品なりが、誰の手によっていつ頃作られ、どんな隠された物語がそこに存在したのか…、そんな背景を知ったうえで見れば感じることの内容も違ってくるはずである。
1日目はガウディの建築を巡る半日ツアーで、バルセロナ市内の各所に散らばるガウディ作品をマイクロバスで移動しながら見て回った。全て外観のみだったが、自力では行きにくい場所なども含まれていたため、効率を考えるとそんなに無駄金を使ったという気はしない。
左:ガウディ代表建築のひとつカサ・ミラ 右:バルセロナが舞台の映画でもよく登場するグエル公園
2日目の市内半日ツアーはバルセロナの観光名所をギュッと詰め込んだツアーで、最後は聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の内部で自由解散。長蛇の列に並ばずに内部に入れるのはツアーならではの特典。更に理解を深めたうえでのサグラダ・ファミリア見学は日本語ガイドによる詳細な説明があったおかげである。バルセロナという都市を愛するガイドさんからは様々な話を聞くことができて楽しかった。
バルセロナの人々は、自分たちをスペイン人だとは思っていないという。
カタルーニャ地方の州都であるバルセロナは、けしてスペイン第二の都市ではなく、マドリッドと並び立つ大都市であり、スペインとは一線を画した独自の文化を育むカタルーニャ人の都市なのだと彼らは胸を張る。
だから、カタルーニャ発祥ではないものに対する排除運動が高まっており。バルセロナでは闘牛場やフラメンコを見せるバルなどスペイン的なものが近年姿を消しつつあるという。
マドリッドに対する敵対心も強く、レアル・マドリッドとFCバルセロナファンの仲の悪さは有名である。そんなバルセロナだから、自分が自分であることを保ちたい人間に対しては懐が深いのかもしれない。
イタリアと比べてバルセロナの人々はホテルでもカフェでも笑顔で「オラ!」と挨拶してくれたし、少なくとも一人で旅するアジアン・リトル・ガールを無視することはなかった。友人からも「バルセロナは日本人が住みやすい街」と聞いていたのも納得の、親しみやすい雰囲気がそこにはあった。
オリンピックのメイン会場だったモンジュイックの丘から港を見下ろす。大都会バルセロナはヨーロッパ有数の港湾都市でもあるので、ウォーターフロントは再開発され、新しくて便利なショッピング・モール(無料のきれいなトイレがある!)などもできて、トレンドなエリアになりつつあるという。
つまり、始めに抱いていた印象に反して、バルセロナは私の肌に合ったのである。
なんといってもその建築。ガウディを筆頭とするアール・ヌーボーの旗手たちが生み出したバルセロナの街並みは、どこを見ても奇抜かつ美しい装飾に溢れた建物で埋め尽くされ、アール・ヌーボー好きの私などは常に口を開けた状態で上を見ながら歩いていて、防犯に気を遣うのが大変であった。
観光名所をいくつも訪れるという旅のスタイルにどんなに猜疑心や反発を抱いている者であっても、サグラダ・ファミリアやグエル公園を見ずしてバルセロナを立ち去ることは不可能に近い。
この街を一歩でも歩いた人ならば、それらの世界遺産を見ずして帰国することがどんな愚挙かに思い至るからだ。
テレビの画面からは伝わらない荘厳さが、サグラダ・ファミリアにはあった。細部まで見るならどれだけ時間をかけても飽きないであろう神秘の空間を内に隠し持つサグラダ・ファミリアは、一生に一度は訪れることを自信を持ってお勧めできる数少ない人類の至宝だと言える。
サグラダ・ファミリアの正面玄関
※サグラダ・ファミリアの驚くべき内部とその他のガウディ建築、そしてバルセロナの観光名所に関する詳細記事はもうひとつのBlog「フィンドホーン・ライフ」へ。
※バルセロナを舞台にした映画「それでも恋するバルセロナ」の記事はこちらへ。
そんな街全体が美術館のようなバルセロナだが、なんと日本人旅行者の3割が何らかのトラブルでパスポート再発行のため日本大使館のお世話になるのだという。3割!10人中3人がスリや恐喝の被害に遭っている?!
みゅうの半日ツアーガイドさんにもスペイン都市部での犯罪率の高さを教えられ、気を付けるようにと念を押されていたので最初は眉間に皺を寄せ、怒ったような顔で歩いていたのだが、町を歩くうちにイタリアでは感じられなかった開放的で幸せな気分になってきて、わりと無防備に歩いていた気がする。
地下鉄に乗る機会もあり、怯えながらも利用してみたのだが、ガイドさんたちに脅されたほど危険な感じはしなかった。
グラシア大通りから地中海を背にした明るく開けた港が見えた時には、この街で暮らしてみたいと思ったほどだ。
犯罪率が高いということは警備もそれだけ厳しいということで、鉄道駅でも空港並みのセキュリティ・チェックが行われていた。バルセロナには東に古い突端式のフランサ駅、西に近代的なサンツ駅と、二つの主要駅が存在する。
「巡礼直前にフランスへ Go to France just before the pilgrimage」
バルセロナに3泊した後、巡礼を前に私はまずフランスのニースへ向かった。東日本大震災のショックから冷めやらないままイタリアで虚ろな日々を過ごしたため、厳しい巡礼に向かう前に身体を休めておきたかったのだ。
元々は巡礼前に、ユーレイルパスを使ってスペインをくまなく旅するつもりでいたのだが、巡礼後に行く予定だったパリへ先に行ってしまうことにした。その理由は、巡礼開始の予定を前倒しにして巡礼にかける時間を増やしたかったこと、犯罪率の高いスペインを移動して旅をするだけの体力と精神力が3月末時点で残っていなかったこと、そしてユーレイルパスの元を取るため。パリの前にニース行きを選んだのは、単純に暖かい場所に行きたかったからだ。
こういう旅をすると、本当にヨーロッパは狭いと感じる。列車旅は確かに飛行機よりも時間がかかるけれど、地図上で見ると、バルセロナ→ニース→パリは、さほど離れているようには感じない。それとも、私の旅に対する感覚がおかしくなっていたのだろうか…?
新しいサンツ駅では、プラットフォームに辿り着くまでにいくつもの有人のゲートを通らねばならず、時間に余裕を見て駅に行かなくては国際列車に乗り遅れる可能性もある。オリンピックの開催に伴い整備されたことと、高速長距離鉄道AVEの躍進により、スペインの鉄道事情はイタリアはもちろんフランス、イギリスを超えているかもしれない。駅だけでなくRENFE(スペイン鉄道)の近郊線はきれいな車輛で、イタリアのような薄汚れた感じはしなかった。
左が旧式のフランサ駅、右が真新しいサンツ駅とその前のバスターミナル。
かくして私は困難が予想される巡礼前の束の間の静養のつもりで、ニースそしてパリへと向かった。
★『ヨーロッパ前編Mニースとパリ』はこちらへ。
イタリアから入った時は、古いレンガ造りのフランサ駅に着いたのでその駅前に宿を取ったのだが、バルセロナからフランス方面へ向かう国際列車は真新しく近代的な高層ビル内のサンツ駅発着だったので、約1週間後にパリから戻った時はサンツ駅前の四つ星ホテルに泊まった。1泊135ユーロと、ヨーロッパ旅行中最も高額の宿だった。巡礼直前、最期の贅沢としての四つ星ホテル、すこぶる快適な2泊だった…。
「罪を重ねる Repeating sins」
バルセロナで巡礼開始が迫った3月23日、私は唐突に思い出した。
約1か月前の2月27日、イギリスでワイト島に渡った後、アラレと豪雨に襲われた意味に、ようやく思い当たったのである。(その記事はこちら。)
あの日は、母の命日だったのだ。
なのに私は祈るどころか、それから約1か月間、その事実を思い出しもしなかった。母の命日を忘れるなんて、毎年の命日はもちろん月命日にも墓参りを欠かさなかった父が怒るはずだ。もしくは母が拗ねたのか…、その両方かもしれない。
あの時、これから過ごすイギリス南岸旅行に浮かれていた私は、なんと愚かだったのだろう。母の死からたった5年しか経っていないのに。
どんな理由を付けようと、この半年の旅は、自分のためでしかないのだ。どんなに厳しい巡礼をしようと、それは自己満足にすぎない。たとえ禊の旅のつもりであっても、観光をしている以上、自分の楽しみを追っているにすぎない。生産的なことは何一つしていないのだ。勝手に自分は苦しい状態にいると、イタリアでプチ・ウツになっていただけだ。巡礼を完遂するまでは、快楽を追うべきではないと思った。
ただそれは、楽しんではいけないということとは違う。お金と時間をかけている以上、自分を律しながら有益なものにするべきだ、ということ。
自分の気持ちをコントロールすること。すぐに逃げ込める日本語と日本の友人という助けなしの世界で、苦しさや寂しさに負けずに強い気持ちを持つこと。それが大事なのだと思う。
巡礼を前にしたスペインの地で深く頭を垂れ、祈るような気持で両親に詫びた。
次々と罪を重ねる私をどうかお許しください、と。
そして4月1日、私はついに両親及び震災犠牲者への追悼を主な目的とした巡礼を始めるため、フランスとの国境に近い街、パンプローナへと向かった。
巡礼の記事につづく…
「イタリアから、スペインのバルセロナへ
From Italy to Barcelona in Spain」
驚くべきことに私は当初、このバルセロナというマドリッドに次ぐ大都市にさほど興味を持っていなかった。
ただ、列車でスペイン入りするための玄関口にあたる都市だったからひとまずそこに入ったにすぎない。
バルセロナといえばガウディのサグラダ・ファミリア!
もともと犯罪大国、頻発するテロ、というような危険なイメージが大きかったスペインだからかなりの警戒心を持っていたし、イタリアで暗く沈んだ2週間を過ごした後遺症で、バルセロナ入りした3月22日の私の心は重かった。
楽しみにしていたトリノ〜バルセロナ間の夜行列車エリプソス号は、二人席の窓側だったが、隣りのオジサンが車輛中で一番巨大な鼾をかいてくれたおかげで(怒)、ほとんど眠れないままのバルセロナ入りとなった。
そんなイタリアでの暗さだけでなく、夜行列車の疲れという重い甲冑に体を覆われたようなどよんとした私の心を、バルセロナは一日もかけずにほぐしてくれた。
滞在中毎日晴れていたことも大きな要因かもしれない。が、この街の醸し出す「普通」を強要しないおらかさに私は惹かれた。
22日、9時42分定刻にバルセロナへ到着した後、フランサ駅前に位置する一つ星ホテル(ホステル)の部屋にはすぐに入れてもらえたので、チェックイン終了直後ベッドへ倒れこむようにして眠った。
夕方のそのそと起き出して、カテドラル目指して大通りを散歩してみる。観光客の溢れかえる極めてカトリック的な重々しいカテドラル周辺をぶらついた後、カフェに入ってみた。イタリアと違い、お姉さんが笑顔で「オラ!Hola!」と迎えてくれたので、とても入りやすかった。
そこでカフェラテとワッフルをお腹に入れて満足した後、再びキョロキョロと独特の建築物を眺めながらフランサ駅前まで戻ると、その日は夕飯と翌朝の朝食用にピザをテイクアウトして部屋へ。
バルセロナといえばサグラダ・ファミリアばかりがフォーカスされるが、バルセロナ大司教座がおかれたカトリックで最も格式の高いカテドラルは、旧市街ゴシック地区にある広場の前に鎮座するこのサンタ・エウラリア大聖堂。
地中海に面しているとはいえ、3月のバルセロナもまだやはり寒い。ボロいデスクの下にちょこんと、まるで隠すように置いてあったヒーターは昼間動かなかったのだが、夜の冷え込みに震えて祈りながらコンセントを入れなおすと、奇跡のように動き始めてくれたのでなんとか凍えずに済んだ。そんな時も目に見えないものの助力を感じてしまうのがその頃の常だった。
若いバックパッカーと違い、一人旅をする妙齢の日本人女性にとって、スタバやマック、経済的な日本料理屋が多いというのは、それだけでありがたいものである。私がイタリアを好きになれなかったのは、スタバが1軒もなかったというのが、最大の原因だと本気で思っているくらいだ。薄くてもアメリカン万歳、イタリアン・エスプレッソなどくそくらえ!(あら、失礼)
翌日夕飯を食べた日本料理屋その名も「UDON」は、そんなヌードル・バーのひとつで麺つゆを日本から輸入しているらしく、味は確かに日本のそばそのものだった。 が、私がオーダーした「豆腐そば」なるものにはかけそばにわかめと豆腐がのせられ、ゴマがふりかけられた奇妙奇天烈なものだった…。 |
「バルセロナ 街全体が美術館
Barcelona, The whole city is a museum」
次の2日間は、両日とも旅行会社の半日ツアーを申し込んだ。割高なのは仕方ないが、バルセロナという初めてのスペインでの大都市で、治安にビビッていたことと、日本語ガイドの重要性を感じていたことによる。
フィレンツェでウフィツィ美術館へ行ったとき、英語の説明プレートだけでは私の理解力に問題があり、せっかくの美術品や傑作を前に詳細がわからないという歯がゆい思いをしたからだ。
確かに芸術は感じるもので、知識など必要ないのかもしれない。しかし、その建築物なり作品なりが、誰の手によっていつ頃作られ、どんな隠された物語がそこに存在したのか…、そんな背景を知ったうえで見れば感じることの内容も違ってくるはずである。
1日目はガウディの建築を巡る半日ツアーで、バルセロナ市内の各所に散らばるガウディ作品をマイクロバスで移動しながら見て回った。全て外観のみだったが、自力では行きにくい場所なども含まれていたため、効率を考えるとそんなに無駄金を使ったという気はしない。
2日目の市内半日ツアーはバルセロナの観光名所をギュッと詰め込んだツアーで、最後は聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の内部で自由解散。長蛇の列に並ばずに内部に入れるのはツアーならではの特典。更に理解を深めたうえでのサグラダ・ファミリア見学は日本語ガイドによる詳細な説明があったおかげである。バルセロナという都市を愛するガイドさんからは様々な話を聞くことができて楽しかった。
バルセロナの人々は、自分たちをスペイン人だとは思っていないという。
カタルーニャ地方の州都であるバルセロナは、けしてスペイン第二の都市ではなく、マドリッドと並び立つ大都市であり、スペインとは一線を画した独自の文化を育むカタルーニャ人の都市なのだと彼らは胸を張る。
だから、カタルーニャ発祥ではないものに対する排除運動が高まっており。バルセロナでは闘牛場やフラメンコを見せるバルなどスペイン的なものが近年姿を消しつつあるという。
マドリッドに対する敵対心も強く、レアル・マドリッドとFCバルセロナファンの仲の悪さは有名である。そんなバルセロナだから、自分が自分であることを保ちたい人間に対しては懐が深いのかもしれない。
イタリアと比べてバルセロナの人々はホテルでもカフェでも笑顔で「オラ!」と挨拶してくれたし、少なくとも一人で旅するアジアン・リトル・ガールを無視することはなかった。友人からも「バルセロナは日本人が住みやすい街」と聞いていたのも納得の、親しみやすい雰囲気がそこにはあった。
オリンピックのメイン会場だったモンジュイックの丘から港を見下ろす。大都会バルセロナはヨーロッパ有数の港湾都市でもあるので、ウォーターフロントは再開発され、新しくて便利なショッピング・モール(無料のきれいなトイレがある!)などもできて、トレンドなエリアになりつつあるという。
そこのショッピングモール内のお店で、私は巡礼用のクールなバックパックを購入した。それがコレ。ミリタリーっぽくてカッコいいし、ポケットもたくさんあって便利だったのだが、何せ重くて…。二度目の巡礼では軽いバックパックに変えました |
つまり、始めに抱いていた印象に反して、バルセロナは私の肌に合ったのである。
なんといってもその建築。ガウディを筆頭とするアール・ヌーボーの旗手たちが生み出したバルセロナの街並みは、どこを見ても奇抜かつ美しい装飾に溢れた建物で埋め尽くされ、アール・ヌーボー好きの私などは常に口を開けた状態で上を見ながら歩いていて、防犯に気を遣うのが大変であった。
観光名所をいくつも訪れるという旅のスタイルにどんなに猜疑心や反発を抱いている者であっても、サグラダ・ファミリアやグエル公園を見ずしてバルセロナを立ち去ることは不可能に近い。
この街を一歩でも歩いた人ならば、それらの世界遺産を見ずして帰国することがどんな愚挙かに思い至るからだ。
テレビの画面からは伝わらない荘厳さが、サグラダ・ファミリアにはあった。細部まで見るならどれだけ時間をかけても飽きないであろう神秘の空間を内に隠し持つサグラダ・ファミリアは、一生に一度は訪れることを自信を持ってお勧めできる数少ない人類の至宝だと言える。
サグラダ・ファミリアの正面玄関
※サグラダ・ファミリアの驚くべき内部とその他のガウディ建築、そしてバルセロナの観光名所に関する詳細記事はもうひとつのBlog「フィンドホーン・ライフ」へ。
※バルセロナを舞台にした映画「それでも恋するバルセロナ」の記事はこちらへ。
そんな街全体が美術館のようなバルセロナだが、なんと日本人旅行者の3割が何らかのトラブルでパスポート再発行のため日本大使館のお世話になるのだという。3割!10人中3人がスリや恐喝の被害に遭っている?!
みゅうの半日ツアーガイドさんにもスペイン都市部での犯罪率の高さを教えられ、気を付けるようにと念を押されていたので最初は眉間に皺を寄せ、怒ったような顔で歩いていたのだが、町を歩くうちにイタリアでは感じられなかった開放的で幸せな気分になってきて、わりと無防備に歩いていた気がする。
地下鉄に乗る機会もあり、怯えながらも利用してみたのだが、ガイドさんたちに脅されたほど危険な感じはしなかった。
グラシア大通りから地中海を背にした明るく開けた港が見えた時には、この街で暮らしてみたいと思ったほどだ。
犯罪率が高いということは警備もそれだけ厳しいということで、鉄道駅でも空港並みのセキュリティ・チェックが行われていた。バルセロナには東に古い突端式のフランサ駅、西に近代的なサンツ駅と、二つの主要駅が存在する。
「巡礼直前にフランスへ Go to France just before the pilgrimage」
バルセロナに3泊した後、巡礼を前に私はまずフランスのニースへ向かった。東日本大震災のショックから冷めやらないままイタリアで虚ろな日々を過ごしたため、厳しい巡礼に向かう前に身体を休めておきたかったのだ。
元々は巡礼前に、ユーレイルパスを使ってスペインをくまなく旅するつもりでいたのだが、巡礼後に行く予定だったパリへ先に行ってしまうことにした。その理由は、巡礼開始の予定を前倒しにして巡礼にかける時間を増やしたかったこと、犯罪率の高いスペインを移動して旅をするだけの体力と精神力が3月末時点で残っていなかったこと、そしてユーレイルパスの元を取るため。パリの前にニース行きを選んだのは、単純に暖かい場所に行きたかったからだ。
こういう旅をすると、本当にヨーロッパは狭いと感じる。列車旅は確かに飛行機よりも時間がかかるけれど、地図上で見ると、バルセロナ→ニース→パリは、さほど離れているようには感じない。それとも、私の旅に対する感覚がおかしくなっていたのだろうか…?
新しいサンツ駅では、プラットフォームに辿り着くまでにいくつもの有人のゲートを通らねばならず、時間に余裕を見て駅に行かなくては国際列車に乗り遅れる可能性もある。オリンピックの開催に伴い整備されたことと、高速長距離鉄道AVEの躍進により、スペインの鉄道事情はイタリアはもちろんフランス、イギリスを超えているかもしれない。駅だけでなくRENFE(スペイン鉄道)の近郊線はきれいな車輛で、イタリアのような薄汚れた感じはしなかった。
かくして私は困難が予想される巡礼前の束の間の静養のつもりで、ニースそしてパリへと向かった。
★『ヨーロッパ前編Mニースとパリ』はこちらへ。
イタリアから入った時は、古いレンガ造りのフランサ駅に着いたのでその駅前に宿を取ったのだが、バルセロナからフランス方面へ向かう国際列車は真新しく近代的な高層ビル内のサンツ駅発着だったので、約1週間後にパリから戻った時はサンツ駅前の四つ星ホテルに泊まった。1泊135ユーロと、ヨーロッパ旅行中最も高額の宿だった。巡礼直前、最期の贅沢としての四つ星ホテル、すこぶる快適な2泊だった…。
「罪を重ねる Repeating sins」
バルセロナで巡礼開始が迫った3月23日、私は唐突に思い出した。
約1か月前の2月27日、イギリスでワイト島に渡った後、アラレと豪雨に襲われた意味に、ようやく思い当たったのである。(その記事はこちら。)
あの日は、母の命日だったのだ。
なのに私は祈るどころか、それから約1か月間、その事実を思い出しもしなかった。母の命日を忘れるなんて、毎年の命日はもちろん月命日にも墓参りを欠かさなかった父が怒るはずだ。もしくは母が拗ねたのか…、その両方かもしれない。
あの時、これから過ごすイギリス南岸旅行に浮かれていた私は、なんと愚かだったのだろう。母の死からたった5年しか経っていないのに。
どんな理由を付けようと、この半年の旅は、自分のためでしかないのだ。どんなに厳しい巡礼をしようと、それは自己満足にすぎない。たとえ禊の旅のつもりであっても、観光をしている以上、自分の楽しみを追っているにすぎない。生産的なことは何一つしていないのだ。勝手に自分は苦しい状態にいると、イタリアでプチ・ウツになっていただけだ。巡礼を完遂するまでは、快楽を追うべきではないと思った。
左:フランサ駅近くにあるシウタデリャ公園は、広い芝生で市民が憩う庶民的な公園。放任主義の飼い主が読書に夢中になっている間、周囲の人のもとへ走り寄ってはちょっかいを出していた犬が、何もなかったような顔で主人の元へ戻って座っていたのが笑えた。 |
ただそれは、楽しんではいけないということとは違う。お金と時間をかけている以上、自分を律しながら有益なものにするべきだ、ということ。
自分の気持ちをコントロールすること。すぐに逃げ込める日本語と日本の友人という助けなしの世界で、苦しさや寂しさに負けずに強い気持ちを持つこと。それが大事なのだと思う。
巡礼を前にしたスペインの地で深く頭を垂れ、祈るような気持で両親に詫びた。
次々と罪を重ねる私をどうかお許しください、と。
そして4月1日、私はついに両親及び震災犠牲者への追悼を主な目的とした巡礼を始めるため、フランスとの国境に近い街、パンプローナへと向かった。
巡礼の記事につづく…
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