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2019年05月18日

反政府派に焼き殺されたベネズエラ人若者の母親の告白 ときどき自分の手で正義を実現したくなる

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イネス・エスパラゴサ、2017年にカラカスでの反政府派抗議運動のあいだに刺され、生きたまま火で焼かれた若者オルランド・フィゲラの母親

Cubadebate、2019年5月18日、Jairo Vargas記者

イネス・エスパラゴサにとって目を閉じることはつらいことだ。「かんたんではない。目を閉じるとすぐに息子のあの姿が浮かんでくるから」、と彼女はため息をついた。別の形で息子のことを覚えていたいし、つねにそれを求めているのに、まぶたに強く焼き付いて離れない2つの場面がある。ひとつは病院の集中治療室にいる息子の姿だ。「ドアを開けたら...なんてことだ、と思った。息子はそこに裸でいた。私に言ったの、ママ祝福を、と。キスしようとしたけど、どこにしたらいいかわからなかった。全身に殴られたあとがあり、顔はあざだらけではれあがっていて、体はやけどでいっぱいだった。」、とイネスは長い沈黙をはさみながら語る。泣き叫ぶのはこらえているが、やはり涙は流れる。

目を閉じるとうかんでくる2つ目の場面は、自らの44年間の人生のなかで起きた最悪のことだった「苦しみそのものの15日間のあと」の葬儀直後にテレビで見たものだった。「オルランド・フィゲラが死んだ」と2017年6月4日のニュース番組が伝え、自らに放火した群衆のなかを手探りで助けを求めながら、行くあてもなく、希望もなく、炎に包まれて走っている体の映像を流した。「あの映像を見たのはそのときが最初で最後だった。孫が知らせてきた。ほらオルランド叔父ちゃんがテレビに映ってるよ、と孫は言った」。沈黙のあと、また涙が流れる。

オルランド・フィゲラの名前はベネズエラ国外では何も意味しないかもしれない。ビクトル・サラサールの名前と同じかもしれない。しかし、後者の映像は、反チャベス派の抗議運動のなかで同じく炎に包まれているものだが、これをきっかけにして国際メディアは、2017年の反政府派運動に対するニコラス・マドゥーロ政権の「抑圧」を非難することで(よりいっそう)結束した。メキシコ在住のベネズエラ人カメラマン、ロナルド・シュミットが撮影したサラサールの映像は、AFP通信によって世界中に配信された。2018年の世界報道写真コンテストで大賞を受賞し、若き学生サラサールは政府の暴力による犠牲者ではなかったが、同国が直面している政治・社会的に不安定な状況の強力な象徴になった。サラサールは、自身を含むデモ参加者たちがあたかも戦利品であるかのように盗み破壊したベネズエラ国家警察のバイクを放火したあと、全身の70%をやけどを負った。

これに対して、フィゲラの場合は、ベネズエラ国内で記憶されているだけだ。彼のむごたらしい歴史は大西洋を越えてほとんど伝わっていない。カラカスのジャニートにあるドミノゴ・ルシアーニ病院で死んだとき彼は22歳だった。この病院には数週間後にサラサールも搬送されたが、そのあと民間病院に移されその命が救われた。フィゲラはそこを出ることができなかった。「私たちは貧乏人ではないが低所得者ではあります」、とフィゲラの母は自宅の玄関で嘆く。ミランダ州ロス・バジェス・デル・トゥイのクーア市近くの僻地にある、ひとつの住居集落の小さな家だ。ベネズエラがメディアの焦点の中心だったときに息子の苦難がなぜ世界に伝わらなかったのかイネスにはわからない。もしかしたらそれは、マドゥーロの暗殺を呼びかけているのと同じ反政府派がフィゲラを殺したからかもしれない、と母は思っている。

反チャべス派たちによる「グアリンバ」(街頭での暴力行動)の時代

すべては2017年5月20日に起きた。カラカスの東、チャカオ市にあるアルタミラ広場だった。記憶されているもっとも暴力的な反政府派による抗議の要衝となった。その年の4月から8月はじめまで、およそ130日あまりグアリンバスが横行した。覆面をした若者たちが、通りにバリケードを張り、火炎瓶を放った。社会福祉の最低限度を一変させた経済危機に対して本格的な都市ゲリラはよりいっそう組織化していた。これはチャベス派が議会での多数派から転落した時期でもあり、彼らは疑問視される制憲選挙を召集し新たな議会をたちあげたが、これに反政府派は出席すら望まなかった。

ベネズエラの覇権はかつてないほど危うい状態にあり、反政府派のより過激なグループは、- 2年以上の歳月と100人を超える死者を生んでいる - 現在でもまだ壊せていない投票所のロープの代わりに、街頭での緊張状態を作り出す決定をした。両派が促進した社会の二極化が引き返せない地点まで進んだときベネズエラ人は自分たちの最悪のバージョンを引き出していたかのようだった。

あの日、みなと同じように、フィゲラはカラカスのラス・メルセデスのマーケットで客の買い物袋を運んだり、駐車場を見つけるのを手伝ったりして生活費を稼ぐために、夜中に自宅を出発していた。彼は遅くなって、きょうは家に帰らないと母親に知らせた。カラカスから列車でほぼ2時間の行程で、彼はペタレ地区の叔父の家で過ごすことを好んだ。しかしそこにやってくることはなかった。母親が言うには、彼は途中で反チャべス派たちの憎悪に遭遇した。彼は赤ワイン色のシャツを着て、リュックを背負っていたと母親は回想する。アルタミラの高台で、フィゲラは暴徒に出会った。

「彼らは息子を刺し、リンチし、ガソリンをかけ、ろうそくを投げつけた。生きたまま火をつけられた。息子は黒人で、チャべス派だったからだ」、とイネスは話す。病院で会ったとき息子は弱弱しい声で母親にそう説明した。民主主義を求める覆面をした暴徒がこうして彼をリンチした翌日のことである。「おまえはチャベス派か?どっちだ?」、と暴徒のひとりが彼に訊いた。「ママ、どう返答しようと彼らは僕を殺そうとした。そうだ、と僕は言った。僕はチャべス派だ、それがどうした」、と母親の口を通じて息子は言う。その前にすでに彼は腹と足に複数の刺し傷を受けていた。「はじめに誰かが彼を泥棒だと非難し、数名が彼を殴り始めた。最初に尻を刺されたのを感じたとき彼は走り出した。そのあと暴徒たちは彼を囲み、そこにいた1人が彼にチャベス派かどうか尋ねた。彼は火をつけられて、助けを求めて走ったが、周りの人間たちは彼を侮辱し、身につけていた盾で殴り、からかうだけだったと言っていた。忌まわしい黒人だ、と彼らは言っていた」、とイネスは思い起こす。

しかしフィゲラはいかなる政党にも加入したことはなかった。「息子は、自分にできることで働いていた若者だった。前に進むためにつねに人生を歩んできた私と同じ」、と母親は明らかにする。「私たちはチャベス派に感謝している。多くのものを持たない人びとのために多くのことをした。たとえば、私は、成人向けの教育ミッションのおかげで卒業でき、そのおかげで私のような低所得者の人たちが住居申請や他の手続きをおこなう手伝いをする仕事を見つけられた」、と母親は主張する。

その他の憎悪犯罪

フィゲラの事件はベネズエラではもっとも騒がれたケースだったが、ベネズエラの近年の歴史上、政治・社会的対立が最悪の状況のなかで、間違った場所に通りかかった人たちに反政府派集団がリンチを加えることで結末を迎えた他党派への憎悪はこれが唯一のケースではない。ベネズエラ検察庁と政府は、チャベス派の烙印を押された人びとが負傷し、あるときには火をつけられた反政府派集団による暴力事件23件のほかに、公式文書化された同様の犯罪5件を指摘している。政府はつねに反政府派幹部たちに対して暴力事件の調査をするよう要求しており、憎悪犯罪に対して特化した法律を制定したが、イネスにとってまだ正義は実現しておらず、いつかそれを得られるという希望は多くはない。

「調査はあったが、十分ではなかったと思う。息子に対しておこなったことで捕まった人は誰もいない」、とイネスは嘆く。検察庁によると、このケースは調査が続いている。「加害者の一人の特定がなされ、この人物には公衆煽動と故意殺人とテロリズムの容疑で逮捕命令が発せられたが、コロンビアに逃げている」、と検察庁はプブリコ紙に回答した。

しかし、イネスはさらに深く追及する。「息子を攻撃したグアリンバには、反政府派の何人かの指導者たちがいた。彼らはオルランドのような死亡事件について政治的責任があると心から思う。抗議運動の死者を追悼する式典に招待されたときに行きたくなかったのはそのためだ」、と話すイネスは、あの痛ましい5月20日にアルタミラを通過した反政府派政治家たちの名前を指をあげて指摘する。マリア・コリーナ・マチャド、フリオ・ボルヘス、リリアン・ティントリ、ミゲル・ピサーロ。

あれ以来、イネスは精神科治療を受けており、その鬱状態のためにこれまで15年間連れ添ってきたパートナーと疎遠になり、何度も自殺を図った、と告白する。あらゆる陣営が一線をすでに大きく越えてしまっていると彼女は認識しており、チャベス派と反政府派とのあいだの対話を望んでいる。なぜなら、なによりも、平和が欲しいからだ。「国は多くの死者を生んだあとにこの教訓を学んだと思う。2つのベネズエラのあいだに和解はありうると思う」、とイネスは語った。その言葉が現実なのか、それとも単なる希望なのか知ることは難しいが、だからこそアルタミラにまた行くことはないだろうと明言する。「私には内心大きな怒りがあり、ときどき、頭のなかを悪い考えがうかび、自分の手で正義を実現したい気持ちになる」、とイネスは話す。イネスは自宅アパートにとどまることを好む。そこは息子の死後、政府から与えられた家だ。「オルランドはいつも私たちが住んでいた田舎の牧場から私を連れ出すんだと言っていた。あそこでは水道がなく、床はそのまま地面だった」、とイネスは回想する。その約束を果たすために彼が人生を投げ出さなければならないとは思わなかった、とイネスは嘆く。

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ベネズエラ人ロナルド・シュミットによる世界報道写真コンテスト大賞受賞の写真

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炎に包まれる若者オルランド・フィゲラ

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息子オルランド・フィゲラの殺害についての2017年の報道記事を示すイネス・エスパラゴサ

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オルランド・フィゲラの死後、その遺族にベネズエラ政府が提供したアパートのある社会住宅団地

( プブリコ紙より)

Testimonio de una madre venezolana: “A mi hijo lo quemaron vivo por ser chavista”
http://www.cubadebate.cu/especiales/2019/05/18/testimonio-de-una-madre-venezolana-a-mi-hijo-lo-quemaron-vivo-por-ser-chavista/#.XOBqMSAzbIU
posted by vivacuba at 05:30| Comment(0) | TrackBack(0) | venezuela
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