2020年12月10日
私按一、日向の名義
日向の名に關する故事
日向の名義の由來日本紀に見ゆ。
景行天皇の十七年、天皇熊襲を親征して此の國に到り給ひ、子湯縣(こゆのあがた)に幸して、丹裳小野(にものをの)に遊び、東方を望(み)そなはして、左右に謂って宣り給はく、「此の國は直ちに日の出づる方に向へり」と。
故に其の國を號して日向といふなりとあり。
丹裳小野の地、今之を明かに指定するを得ざれども、蓋し児湯郡の海岸に近き高臺なるべく、日向の名稱の起れる、以て其の位置の察すべし。
釋日本紀所引日向風土記には、上文の「日の出づる方に向ふ」とあるを、「扶桑に向ふ」に作れり。
藤原濱成の天書亦然り。
扶桑は古代の漢人によりて、東海中に在る國として信ぜられたりし所にして、亦東に向ふの義なり。
古人の解せし所以て見るべし。
日向はもと「ヒムカ」と訓めり。
推古天皇の御製(ぎょせい)に「馬ならば辟武加(ひむか)の駒」の句あるは、以て證となすべし。
和名抄に之を「比宇加(ひうか)」と訓ずるは、音便によれるなり。
ヒムカの名義果して文字の示す如く、單に天日に向ふの意か。
若し然らんには、或は是をヒムカヒ、若くはヒムキと訓むべく、其の名もむしろ南面の地勢に適するものなるべく解せらる。
而も其の地勢は東に向ふ。
此れ日本紀に、特に「日出づる方に向ふ」と云ひ、風土記及び天書に、「扶桑に向ふ」とある理由なるべからんも、東に向ふことをのみ殊更に日向といふは、到底妥當ならざるの感あり。
果して然らばヒムカの本義、或は他に存するにはあらざるか。
邦語東方をヒガシ或はヒムガシと言ふ。
日向或は九州にありて東方(ひむがし)の國なりとの義か。解するもの或はいふ、東方をヒムガシといふも、亦「日向(ひむかひ)」の義なるべしと。
果して其の然るや否やを詳にせず。
一説に日向の名は、高千穂の地の「朝日の直(ただ)さす國夕日の日照國なり」とある形に負へるものにして、為に日向の高千穂の名あり、其の名つひに其の國に及べるものならんと。
そはともかくも、既にヒムカなる國名存したらんには、之に附會して地名傳説の生ずるは普通の例なり。
日向の名神代紀にしばしば繰り返さる。
必ずしも景行天皇の西征を俟って始まれるにはあらざるべし。
附記して參考に供す。
日向の名義の由來日本紀に見ゆ。
景行天皇の十七年、天皇熊襲を親征して此の國に到り給ひ、子湯縣(こゆのあがた)に幸して、丹裳小野(にものをの)に遊び、東方を望(み)そなはして、左右に謂って宣り給はく、「此の國は直ちに日の出づる方に向へり」と。
故に其の國を號して日向といふなりとあり。
丹裳小野の地、今之を明かに指定するを得ざれども、蓋し児湯郡の海岸に近き高臺なるべく、日向の名稱の起れる、以て其の位置の察すべし。
釋日本紀所引日向風土記には、上文の「日の出づる方に向ふ」とあるを、「扶桑に向ふ」に作れり。
藤原濱成の天書亦然り。
扶桑は古代の漢人によりて、東海中に在る國として信ぜられたりし所にして、亦東に向ふの義なり。
古人の解せし所以て見るべし。
日向はもと「ヒムカ」と訓めり。
推古天皇の御製(ぎょせい)に「馬ならば辟武加(ひむか)の駒」の句あるは、以て證となすべし。
和名抄に之を「比宇加(ひうか)」と訓ずるは、音便によれるなり。
ヒムカの名義果して文字の示す如く、單に天日に向ふの意か。
若し然らんには、或は是をヒムカヒ、若くはヒムキと訓むべく、其の名もむしろ南面の地勢に適するものなるべく解せらる。
而も其の地勢は東に向ふ。
此れ日本紀に、特に「日出づる方に向ふ」と云ひ、風土記及び天書に、「扶桑に向ふ」とある理由なるべからんも、東に向ふことをのみ殊更に日向といふは、到底妥當ならざるの感あり。
果して然らばヒムカの本義、或は他に存するにはあらざるか。
邦語東方をヒガシ或はヒムガシと言ふ。
日向或は九州にありて東方(ひむがし)の國なりとの義か。解するもの或はいふ、東方をヒムガシといふも、亦「日向(ひむかひ)」の義なるべしと。
果して其の然るや否やを詳にせず。
一説に日向の名は、高千穂の地の「朝日の直(ただ)さす國夕日の日照國なり」とある形に負へるものにして、為に日向の高千穂の名あり、其の名つひに其の國に及べるものならんと。
そはともかくも、既にヒムカなる國名存したらんには、之に附會して地名傳説の生ずるは普通の例なり。
日向の名神代紀にしばしば繰り返さる。
必ずしも景行天皇の西征を俟って始まれるにはあらざるべし。
附記して參考に供す。
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