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2020年12月13日

私按二、日向國と熊襲國 その7

舊事本紀の價値
元來舊事本記は僞書として、従來多くの學者の排斥する所なれども、そは本書を以て聖徳太子御撰の書なりと稱するが為にして、其の記事の内容、必ずしも悉く捨つべきもののみにあらず。
本書はもと日本紀、古事記、其の他の古書の章句を抄録して、編を成せるものなれば、中には重複もあり、矛盾もあり、一編の著書として整備せるものにはあらず。
随って其の記事が抄録せられたる原書以上に、史料としての價値なきは勿論なれども、而も編次は少なくも平安朝當時にして、恐らくは延喜以前にありきと認めらるるほどの古書なれば、中には其の抄録せられたる原本の、全く後世に失はれてもはや見るべからざるもの少なからず。
又其の存するものと雖、本書によりて後に傳冩の失より生じたる魯魚焉馬の誤謬を訂正すべきものなきにあらず。
而して此の熊襲國の記事の如き、亦實に其の一例とすべきに似たり。
即ち當初の古事記は、舊事本紀之を轉載するが如く、漠然九州東南部の地方を日向の域とし、筑紫筑前筑後、豊豊前豊後、肥肥前肥後、の三國とともに之を筑紫四國と數へ、別に熊襲島を其の次に置きしものにして、所謂大八洲中にはもと佐渡を脱せしものにてはあらざりしか。
されど日本紀編纂せられて、此の書世間に流布し、景行天皇西征の際の熊襲の位置が、日向の南部に當るが如く世人に解せらるるに至りてより、後には日向を以て熊襲國と同一視し、遂に此の誤謬を生ずるに至りしにてもあるべし。
今古事記の諸本を取りて之を閲するに、本居宣長古訓古事記に於て、筑紫四面に日向國を除くの説を採りてより、世人多く是に見慣れたれども、寛永の版本、渡會延佳の〇頭古事記を始めとして、元々集所引古事記等、皆日向を四面の一に數へ、其の説もと一般に行はれたりしを知る。
然るに古事記傳には、
此ノ處舊印本及延佳本、又一本などには、肥國謂二速日別一、日向國謂二豊久士比泥別一と作(あ)り。
されど如此(かく)ては、上に有二面四一云々とある數に合はざれば、日向ノ國の無き方ぞ古本なるべき。
然るに右の如く日向ノ國の加はりたる本は、舊事紀に依って後人のさかしらに改めたるものとこそ思はれる。
           
と云ひて、上の「面四つ」といふことに重きを置き、又舊事本紀の記事を引きて、
舊事紀に右の如くあるなり。
其は此の記を取って記すとて、日向のなきを疑ひて、彼の日向日とある亦ノ名を其(それ)として、下の日ノ字をを國に改め、其の下に謂ノ字を補ひて、豊久士比泥別を其の日向ノ國の亦ノ名とし、又然為(しかす)る時は、肥ノ國の亦ノ名建一字になりて足(たら)ざる故に、次の熊襲の國の亦ノ名に效(なら)ひて、日別ケの二字を加へ、又さては熊襲のと全ク同じき故に、建を速に改めつるものなり。
凡て彼の書はかくさまのさかしらいと多し。
されど上の有二面四一とあるには心づかで、其(それ)をば改めずて、偽りの顕はれたるぞをかしき。
然るを後ノ人此ノ舊事紀のさかしらなる事を得曉らで、日向ノ國の有(ある)を宜(うべ)なりとして、遂に此ノ記をさへに然(しか)改めつる、其の本の世には流布れるなりけり。
 
とて、甚しき臆説をさへ加へたり。
されど熊襲を舊事紀の如く筑紫四面の外に置かんには、面四つといふに何等の支障を生ずべからず。
況や肥の國の別名を建日向日豊久士比泥別としては、此の名のみ特に長くて、他と權衡を失するのみならず、一方には日向の名を東方に向ふの義と解しながら、主として西海に面する肥の國の別名に、日向日の語あることも如何と思はれ、又西肥の域より九州脊梁山脈を越えて、遠く東海岸にまで渉り、之を通じて肥國として、筑紫四面の一に置かんこと、地理上到底首肯すべからざるあるをや。
本居氏の説蓋し千慮の一失なるべし。
posted by うさぎ at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊襲国
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