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2020年12月14日
私按二、日向國と熊襲國 その8
熊襲國の位置に關する思想
熊襲のことは後に詳説すべきも、もと是れ或る民族の名稱にして、定まりたる一國の名にあらず。
又日本紀の傳ふる所によるも、其の域必ずしも日向、大隅、薩摩の地方と一致すべきにあらざるなり。
仲哀天皇朝の熊襲征討が、筑前香椎宮を根據として行はれ、其の陣中賊矢に當り給へりと言はるる同天皇が、痛身(いたづき)の翌日香椎宮にて崩じ給ひきと傳へらるるが如き、又其の後神功皇后神教のままに、吉備臣の祖鴨別を遣して討たしめ給ひし熊襲國が、浹辰(しばらく)を経ずして自ら服せりと稱せらるるが如き、又皇后自ら兵を用ひ給ひし範圍が、筑前、筑後の外に出でたりとは見えざるが如き、偶々(たまたま)以て古への熊襲の國が、筑前香椎を距る甚だしく遠からざりし地方にも存したりと信ぜられたりし證とすべし。
されば日隅薩地方と熊襲とを一國とし、之を以て筑紫四面の一とせんは、之を孰れの方面より論ずるも到底容るべきにあらざるなり。
古事記に所謂熊襲國は、實は古傳説に存する異族熊襲占據の國を、漠然と然か呼稱せるものにして、天孫降臨三代神都の地と信ぜられたる日向國と同視すべきにあらざるなり。
後に隼人の國として認められたる薩、隅二國が、行政上漠然日向の域内に編入せられたりしは當時の地方に於ける異民族が多く夙に邦人に同化し、是と融合して其の蹟を邦人中に没せし後の事にして、なほ平安朝に於て本州北端の蝦夷の國が、漠然陸奥、出羽の中なりと認められたりしと同一の現象なりとすべし。
されば此の形勢を以て、必ずしも太古の傳説を律すべきにあらず。
奥羽の南部も嘗ては蝦夷の國たり。更に遡りては關東地方も、又其の西の地方も、同じく蝦夷の國たりし時代のありしことを考へ合すべきなり。
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