2016年10月12日
律令国家の税制度‐全国組織の国家体制とは‐(日本史概説リポート)
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律令制度の真実に迫る
律令国家の税制度‐全国組織の国家体制とは‐(日本史概説リポート)
律令国家の農民の負担について考えると、一番の負担は、祖庸調を中心とした税が考えられる。
その他、蝦夷や唐、新羅との戦い、防衛、それに伴う徴兵制の実施などが農民の負担と考えられる。
初めに、農民の負担となった、律令国家成立の前提を説明すると、当時の日本は、豪族の力が強く、中央集権ではなった。
このような状況だったので、新羅と唐に対抗するために天皇を中心とした、中央集権国家成立が必要とされた。
これらや遣隋使、遣唐使の影響などが律令国家成立の前提と考えられる。
では、祖庸調を中心とした税について説明すると、税を課すためには、まず、人々のことを把握しなければならないので、その手段として、全国の耕地を国家の所有とし、大部分の国民に与えた。
各人に与えられた田を口分田と言う。
政府は6年ごとに戸籍を作り6歳以上の男子には田を2反、女子にはその3分の2の口分田を与えた。
これを班田収受法と言う。これを対象に租庸調及び雑徭の税をかけた。
まず、租は収穫の百分の三を納める。
庸とは一年に十日使役されるか、布を納めるかである。調とは織物等の物産を納めるものである。
雑徭とは国司が最長六十日まで青年男子を使役する。
これらのことから農民の負担を考えていく。
祖は田に直接かかる税で、低率である。
当時は、収穫率が非常に悪く、最低限の生活を確保するためには、これ以上の祖の徴収はむずかしかった。
この祖は、収穫の一部を神に捧げる初穂を起源とするものと考えられている。
徴収された祖は利稲の一部や、備荒用として倉に収められ、飢饉などの時には困った人々に支給された。
しかし、この祖はあらぬ方向に流用されはじめ、蝦夷討伐の軍糧などの軍事費に充てられ、一部の貴族や官僚たちの給与として祖を直接支給する制度が確立されていった。
農民からみれば、飢饉のために先祖代々からためてきた祖を、おろかな戦争や何をやっているかも分からないような貴族官人のために使われるのだから、相当な負担だったと言えるだろう。
つぎに、調は、貢ぎ物の意味を持っている。
律令制以前の社会では、人々は物を貢ぎ物として、国造などの有力者に捧げ、そして、国造から大王に貢物が捧げられた。
これが調の起源とされる。律令体制では、直接一般の人々から都に調として納められた。
調の使い道としては、官僚の人件費などの中央政府のあらゆる支出にあてられ、また、一部は神々への幣料にもてられた。
そして、地方での調庸の納期は八、九月であるが、ちょうどそのころは端境期にあたり、人々にとっては最も苦しい時期であるため納入はすごく農民に負担となった。
そのため、経済的に余裕のあるものが、そういった苦しい人々の代わりに調庸を納期に間にあうように代納し、秋の収穫のあとに高額の代価を要求するというシステムもできた。
また、仏教の流行などにより、昔からの地域の神々の影響力が弱まったことにより、神への貢ぎ物という観念も薄れていった。
そうなると、ただ調庸を取られるだけという意識に農民達は変わり、精神的にも負担は増えたと言うことになる。
庸に関しては、律令体制以前の服属儀礼の流れを汲む宮仕えのための仕送りのシステムを拡大して成立し、同じようなことは雑徭に関しても言える。
庸に関しての事柄も調の場合と同じような事がいえるだろう。
そして、徴兵制があり青年男子三人に一人の割合で指定された。
兵士は各地の軍団に属し六十歳までのあいだに一年間は上京して衛士となった。
また一部は三年間九州に下って西海防衛の防人をつとめることもあった。
兵士は庸、雑徭などを免除されたが、勤務地に行くための費用や食料、武器や防具などの装備品の一部は自己負担であった。
またこの時代、無謀とも言える唐、新羅の連合軍と戦った白村江の戦いや、東北の蝦夷との戦い、それに壬申の乱などの内乱があり、戦死者も多数発生した。
このように農民達の負担はかなり大きかった。
以上のように律令税制下では、様々な税があり、その結果、農民の負担は増え、中には、口分田を貰えなくても、租庸調を出すよりはましと考え、口分田を捨て浮浪、逃亡する農民達が多数でてきた。
これが律令制崩壊の一つの原因になったと言えるだろう。
最後に強力な国家、国土の拡張、新しい文化の発展、仏教の浸透。
これらはこの時代の表の顔であり、この陰には農民の負担が有ることを忘れてはならない。
そして、この時代から古きよき神話の時代は終わりをつげ、新しい秩序の世の中が生まれる、数ある時代の一つの変換期で有ったとも言える。
多数の農民達はついていけず苦しい生活から逃げ出す者も数多く現れた。
それは、中央集権の強い日本を作る為の犠牲で、この後数々の弊害が出て結局は、律令体制は崩壊する。
やはり農民達の犠牲の上のシステムは長くはつづかないようである。
でも、この時代にこれだけの新しい考え方や中央集権的な強力なシステムが実行されていたということは歴史的にみてすごいことである。
(参考文献・律令国家の転換と日本 坂上康俊 講談社)
日本の歴史(05) |
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