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2016年10月11日

承久の乱‐貴族から武士へ(日本史概説リポート)


サイト管理者「真田まさお」著書、大東亜戦争(太平洋戦争)を市民の立場から歴史を研究、本土空襲体験者の生の声から、真実の戦場の姿を語ります。


後鳥羽上皇VS北条家

その戦いの結果



承久の乱‐貴族から武士へ(日本史概説リポート)

 承久の乱について、まず、簡単に説明すると1221年(承久3年)後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒の兵乱。

北条政子は御家人の結束を説き、執権北条義時は泰時・時房に軍を授けて京都を攻撃し上皇方を破った。

その結果、後鳥羽上皇ら3上皇の配流、後堀河天皇の擁立、所領の没収など、朝廷の勢力が失墜し、幕府が朝廷よりも優位になる体制が確立した。

また今まで地頭の置かれなかった西国の公領、荘園にも新しく御家人が地頭に任命されるなど幕府の西国支配が強化された。

これが承久の乱の簡単な説明である。


 この時代の時代背景を説明すると、以前は貴族が日本の中心となり国を治めていた。

だが武士が台頭し、日本の国は武士と貴族の二つの勢力ができた。両者の対決は歴史の流れといえるだろう。


 武士勢力である鎌倉幕府が力を付けた理由を考えると、守護と地頭の設置であげられる。

頼朝は平家滅亡後、頼朝に反抗した義経らを捕らえるという口実で、朝廷の許しを得て、諸国に守護を、公領と荘園に地頭をおいた。

守護には、御家人を指揮して大番役の催促と警備、謀反、殺害人の取りし締まりを任じた。

大番役というのは、費用自弁で上京し、6ヶ月又は3ヶ月の間皇居の警備にあたる諸国の武士の役目をいう。

地頭は租税の徴収や土地の管理、治安の維持に当たり、一反あたり五弁の兵糧米を取る権利、その他の得分を与えられた。

この守護、地頭の設置によって、幕府は広い地域にわたり、軍事、警察の権限を握ることになった。

この権力増大は乱発生の一つの原因と考えられる。

 
 つぎにもう一つ乱の原因となった、鎌倉幕府のシステムは将軍が武士の上にあり、武士達は将軍の御家人(鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士)となり、将軍は御家人の領地を安堵し、その恩恵に対し御家人は将軍に奉公をするという相互関係である。

そして、この領地の安堵は多少の過ちがあってもこれを没収されない。

大きな過ちがあって、没収されるときは、その領地は近親の者に与えられることになっていた。

その代わり戦がある時は、御家人は将軍のために忠誠を尽くすというものである。

これを御家人制度と言い鎌倉幕府の基本となる制度だった。

そして幕府は常に、断固として、御家人の権益を守らねばならない立場にあったので、朝廷の不興を呼ぶこともさけられない事もあった。

また、鎌倉幕府の力の増大もあり、すべてを意のままにしている後鳥羽上皇としては、思い通りにならない鎌倉幕府の存在が邪魔になり、不満が溜まり、承久の乱へと発達していった。


 ではここで、どのように乱が実行されたか説明していく。

後鳥羽上皇は、後白川上皇の死後院政を掌握し、莫大な皇室領を掌中にいれ、権力を増大させ朝廷側の第一権力者となっていた。

後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対して戦の準備をする。

北面、西面の武士は後鳥羽上皇の手兵だが、数がすくなかった。そこで在京の鎌倉御家人を手なずけ、つぎに北条氏に反感を持っている人たちを手なずけて、兵力を整えていった。

そして、源氏の正統が断絶したのを機に政権の回復をはかり、全国に北条義時追討がくだされ、承久の乱が始まる。


 これに対し、幕府の北条義時は、御家人を集め北条政子が御家人を結束させ、京に向けて進軍を開始した。


 戦いは幕府軍の進軍に対して、朝廷軍は尾張の木曽川の線で防衛ラインを張ったがあっさりと破られることとなった。

幕府軍は京都まで進軍し京都攻防戦が繰り広げられる。

幕府軍は最初少し苦戦したが、最後は京都に乱入し、圧倒的勝利をおさめた。

 
 幕府圧勝の原因は、動員兵力の差である。

これは、幕府側は源氏の正統が途絶えたにもかかわらず、朝廷側が考えている以上に御家人の結束が固かったことが要因である。

また、最初に乱をしかけた朝廷だったがその後の対応は遅れ、いたずらに時を過ごした。

これに対して幕府は対応が早く、朝廷よりも先に進軍を開始する事ができ、その進軍を見て、まだどちらにつくか考えていた御家人達はこぞって幕府軍の進軍に参加した。

このことも原因の一つと考えられる。


 戦後、後鳥羽上皇は隠岐に、そして、順徳上皇は佐渡にながされた。

承久の乱の後、武家の政権は安定し、幕府は京都に六波羅探題をおき、常に北条の一族をこれに任命して朝廷の監視と西国の司法、行政事務にあたらせた。

また討幕の企てに参加した公郷や武士の所領300余ヶ所を没収して戦功のあった御家人に分配し、多くの御家人が新たに地頭として送り込まれた。

この乱にあたり、恩賞として地頭に任命されたものは、荘園の全面積の11分の1を給田としてあたえられ、一反ごとに五升の加徴米を徴収する権利をもち、以前より、はるかに強力な権利を荘園のなかに行使し得た。

ここに幕府は全国政権としの道を踏み出したのである。


 最後にまとめると、世の中が貴族から武士へと変わる時代の流れを変えるために、後鳥羽上皇は承久の乱を起こした。

しかし、後鳥羽上皇の力を持ってしても変える事ができず、結果的にはこの乱が武士の世の中になる事を決定的にしてしまった。

少し皮肉なものである。

承久の乱はこれから江戸時代まで長くつづく武士の世の事実上の始まりとなった。

この乱は日本史の中でとても重要な事件だったと言えるだろう。


(尼将軍政子 青木重繁 新人物往来社 参照)

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