2016年10月10日
寛政の改革について‐(日本史概説リポート)
「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃え、日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。
松平定信の挑戦とは?
寛政の改革について‐日本史概説(リポート)
寛政の改革についてまず当時の時代背景などを調べ、そして、実際にどのような政策があったかを考え、それによってどのように時代が変わって行ったかを調べていきたい。
また、松平定信という人物像にも迫って行きたいと思う。
この時代、幕府や大部分の藩の財政はかなり苦しくなっていた。
そして、天明の飢饉と江戸をはじまとする全国的な打ち壊しや、関東農村からの流入民が江戸に大量に滞留し、かつ農村では人口減少という問題があった。
そして、田沼政権崩壊後、松平定信の登場となる。
人物像はまず、1758年に田安家初代徳川宗武の7男として生まれた。8代将軍吉宗の孫にあたり、1774年に、幕命のため余儀なく奥州白河藩主松平定邦の養子となっている。
松平定信は英明な才能の持ち主であったといわれ、学問、文芸にも通じた。
つぎに、寛政の改革の基本的な政策は享保の改革にならった。享保の改革を簡単に説明すると、8代将軍徳川吉宗による1716〜1745年の幕政改革。
将軍専制体制を確立し、倹約、新田開発、増税などによる財政の再建、都市商業資本の支配統制に努め、法制の整備などにも意を用いた。
つぎに寛政の改革の政策について説明しよう。
享保の改革のときに設置され、その後事実上廃止されていた目安箱を復活させた。
目安とは訴訟のことで、これにより、庶民や下級武士、町人からの意見を汲み上げようとした。
その他、株仲間(株仲間とは、商業を統制するため、問屋商人に株仲間の結成を願い出させ、独占的な営業を認めるもの)の解散に踏み切った。
松平定信はまた、倹約令の強化に努めた。倹約令とは、江戸幕府や大名が出した倹約を強制する法令のことである。
そして、松平定信が老中に就任した当初は米価高騰の渦中にあり、米価と諸物価を引き下げるための対策を打ち出す必要に迫られた。
幕府は江戸への米の廻送を促すとともに、1787年五月には大阪で米の他国売りを禁止して、江戸に廻米するために米を買い付けた。
そして7月には酒造高を三分の一に減らす旨の触れが全国で出された。江戸では米穀の販売を促すために、問屋以外の素人による米と雑穀の売買を自由とした。
1787年は米の作柄もよく、8月には新米も出回るようになって、次第に米価も安定していった。
ところが米価が下落したにもかかわらず、ほかの諸色物価はさがらなかった。
それは流通過程に問題がある為で、商人が自分の利益のために高値のままにしているからである。
その他棄捐令などがある。
棄捐令とは1789年、旗本、御家人救済のため、札差の借金を破棄させた法令。
6年以前の借金を破棄させ、以後のものは低利年賦返済とした。
これにより、借金が帳消しになったことは嬉しいが御家人、旗本には締め貸しとして、つけが跳ね返ってきた。
札差から借り入れで成り立っていた旗本、御家人にとっては、今後の不安は募るばかりであった。
その他、無宿人の取締まりがある。詳しく説明すると、江戸の町では18世紀の半ばから関東地方の農村から出てきた浮浪人が目立つようになり、天明の飢饉以降にも大量に流れ込んだ。
関東農村の下層農民が出稼ぎに江戸に出て武家や町家の奉公人となったが、中には無職の浮浪人や博徒となって市内を横行する者もあらわれた。
江戸の打ち壊しでは浮浪人は騒動の主体ではなかったが、騒ぎに乗じて盗みを働くなど、混乱と社会不安をいっそう大きくする働きをした。
出稼ぎ奉公人に関しては、農業人口の確保を目的として、1788年12月に出稼ぎ奉公制限令を出して、陸奥、常陸、下野の国からの出稼ぎ人に限って厳しく制限し、1790年11月に旧里帰農奨令を出して路用金や食料代、農具代を給付して帰農を勧めた。
そして、無宿人にたいしては、江戸の治安を維持するうえからも厳しく取り締まった。
人足寄場を設置し、それは社会復帰を目的としたもので大工、建具師などの職業を身につけさせるほか、仕事を与え、人夫としても使役させた。
その他、七分金積立がある。詳しく説明すると、江戸の町人用(町費)の節減による積立て制度。節減額の7割を江戸町会所に積立て、低利融資で増殖をはかり、利子は貧民救済に充てた。
つぎに、囲米(囲籾)というのがある。詳しく説明すると、備荒貯蓄、米価調節などのために籾米を貯蔵すること。
その他、柴野栗山等の学者を登用し、昌平坂学問所を官学とし、朱子学を正学とし、それ以外の儒学を異学として、昌平坂学問所で教えることを禁じた。
これを、寛政異学の禁という。
その他、風俗を乱す洒落本、好色本や政治批判、時事風刺を行った出版物を禁じた。
これを出版統制令という。
だいたいこんなものが寛政の改革である。
その後、松平定信は、商人の根強い反抗や大奥勢力との対立などがあり、けっきょくは、在籍7年で老中職を辞することとなった。
退職後、大御所様時代という文化の発達した時代を迎えた。
結局、松平定信という英雄の力を持ってしても幕府の立て直しはできず、時代の流れは幕府崩壊へと少しずつ進んでいる。
そんな時代だったと言えるだろう。
参考文献(日本の歴史、佐々木克、集英社)
松平定信の挑戦とは?
寛政の改革について‐日本史概説(リポート)
寛政の改革についてまず当時の時代背景などを調べ、そして、実際にどのような政策があったかを考え、それによってどのように時代が変わって行ったかを調べていきたい。
また、松平定信という人物像にも迫って行きたいと思う。
この時代、幕府や大部分の藩の財政はかなり苦しくなっていた。
そして、天明の飢饉と江戸をはじまとする全国的な打ち壊しや、関東農村からの流入民が江戸に大量に滞留し、かつ農村では人口減少という問題があった。
そして、田沼政権崩壊後、松平定信の登場となる。
人物像はまず、1758年に田安家初代徳川宗武の7男として生まれた。8代将軍吉宗の孫にあたり、1774年に、幕命のため余儀なく奥州白河藩主松平定邦の養子となっている。
松平定信は英明な才能の持ち主であったといわれ、学問、文芸にも通じた。
つぎに、寛政の改革の基本的な政策は享保の改革にならった。享保の改革を簡単に説明すると、8代将軍徳川吉宗による1716〜1745年の幕政改革。
将軍専制体制を確立し、倹約、新田開発、増税などによる財政の再建、都市商業資本の支配統制に努め、法制の整備などにも意を用いた。
つぎに寛政の改革の政策について説明しよう。
享保の改革のときに設置され、その後事実上廃止されていた目安箱を復活させた。
目安とは訴訟のことで、これにより、庶民や下級武士、町人からの意見を汲み上げようとした。
その他、株仲間(株仲間とは、商業を統制するため、問屋商人に株仲間の結成を願い出させ、独占的な営業を認めるもの)の解散に踏み切った。
松平定信はまた、倹約令の強化に努めた。倹約令とは、江戸幕府や大名が出した倹約を強制する法令のことである。
そして、松平定信が老中に就任した当初は米価高騰の渦中にあり、米価と諸物価を引き下げるための対策を打ち出す必要に迫られた。
幕府は江戸への米の廻送を促すとともに、1787年五月には大阪で米の他国売りを禁止して、江戸に廻米するために米を買い付けた。
そして7月には酒造高を三分の一に減らす旨の触れが全国で出された。江戸では米穀の販売を促すために、問屋以外の素人による米と雑穀の売買を自由とした。
1787年は米の作柄もよく、8月には新米も出回るようになって、次第に米価も安定していった。
ところが米価が下落したにもかかわらず、ほかの諸色物価はさがらなかった。
それは流通過程に問題がある為で、商人が自分の利益のために高値のままにしているからである。
その他棄捐令などがある。
棄捐令とは1789年、旗本、御家人救済のため、札差の借金を破棄させた法令。
6年以前の借金を破棄させ、以後のものは低利年賦返済とした。
これにより、借金が帳消しになったことは嬉しいが御家人、旗本には締め貸しとして、つけが跳ね返ってきた。
札差から借り入れで成り立っていた旗本、御家人にとっては、今後の不安は募るばかりであった。
その他、無宿人の取締まりがある。詳しく説明すると、江戸の町では18世紀の半ばから関東地方の農村から出てきた浮浪人が目立つようになり、天明の飢饉以降にも大量に流れ込んだ。
関東農村の下層農民が出稼ぎに江戸に出て武家や町家の奉公人となったが、中には無職の浮浪人や博徒となって市内を横行する者もあらわれた。
江戸の打ち壊しでは浮浪人は騒動の主体ではなかったが、騒ぎに乗じて盗みを働くなど、混乱と社会不安をいっそう大きくする働きをした。
出稼ぎ奉公人に関しては、農業人口の確保を目的として、1788年12月に出稼ぎ奉公制限令を出して、陸奥、常陸、下野の国からの出稼ぎ人に限って厳しく制限し、1790年11月に旧里帰農奨令を出して路用金や食料代、農具代を給付して帰農を勧めた。
そして、無宿人にたいしては、江戸の治安を維持するうえからも厳しく取り締まった。
人足寄場を設置し、それは社会復帰を目的としたもので大工、建具師などの職業を身につけさせるほか、仕事を与え、人夫としても使役させた。
その他、七分金積立がある。詳しく説明すると、江戸の町人用(町費)の節減による積立て制度。節減額の7割を江戸町会所に積立て、低利融資で増殖をはかり、利子は貧民救済に充てた。
つぎに、囲米(囲籾)というのがある。詳しく説明すると、備荒貯蓄、米価調節などのために籾米を貯蔵すること。
その他、柴野栗山等の学者を登用し、昌平坂学問所を官学とし、朱子学を正学とし、それ以外の儒学を異学として、昌平坂学問所で教えることを禁じた。
これを、寛政異学の禁という。
その他、風俗を乱す洒落本、好色本や政治批判、時事風刺を行った出版物を禁じた。
これを出版統制令という。
だいたいこんなものが寛政の改革である。
その後、松平定信は、商人の根強い反抗や大奥勢力との対立などがあり、けっきょくは、在籍7年で老中職を辞することとなった。
退職後、大御所様時代という文化の発達した時代を迎えた。
結局、松平定信という英雄の力を持ってしても幕府の立て直しはできず、時代の流れは幕府崩壊へと少しずつ進んでいる。
そんな時代だったと言えるだろう。
参考文献(日本の歴史、佐々木克、集英社)
日本の歴史 集英社版 17/佐々木克【2500円以上送料無料】 |
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