2016年10月17日
戦後教育について‐通信教育部教職課程(教育過程論リポート)
戦後教育の変遷
戦後教育について‐法政大学通信教育部教職課程(教育過程論リポート)
戦後の教育は戦前の反省から始まった。
日本は敗戦によりたくさんのものを失い、これまでの教育が間違いであったと気づいた。
戦前の教育は国家による統制である。戦後は統制から自由へと教育路線が変わった。
そして、法的にも、戦後に作られた教育基本法の前文によって、個人の尊厳を重んじ、また、個性豊かな文化の創造を目的とした教育が基本的な形となっている。
個人を重んじ個性豊かな文化を創造すると言う事は、教育は国家が一方的に押しつけて統制するのではなくて、生徒1人1人の個性を大事にして、生徒の個性を伸ばす自由教育と見ることができる。
戦後に行われた教育は、教育基本法の理念に近い教育が行われた。
それは、コアカリキュラムと呼ばれる、自由な教育実践である。生徒の状態や、地域性、学校性を踏まえた、独自の教育実践は非常に価値あるものだと思われる。
しかし、問題点として、教育システムの弱さや科学的な教育ができなかったことが問題として考えられる。
日本は、敗戦直後なので、教育システムの充実に力を注ぐことが困難な状態であった。
逆に言うと、敗戦直後で、たくさんのものを失っているから、国民は自分が住む地域や日本を復興したいという強い気持ちがあり、教育は地域と学校が一体となって、将来の地域の担い手を育てる、実践的な教育が行われたと考えられる。
子供達は地域と関わりを持つことによって、自分達が住む地域の問題を見つけ、自らの関心から、それぞれに問題を見つけ考えていく、そんな生徒主体の自由な教育であった。
しかし、1950年代に入ると日本は復興を果たし、教育に対する考え方も変わってくる。
すなわち、経済が復興して高度経済成長になってくると、日本の社会は、地域から都会に変わってくる。
若者は職や学校を目指して、地域を離れ都会へとやってくる時代がくるのである。
すなわち、地域に根ざした教育は土台を失っていく時代になったのである。地域に根ざした実践的な教育から良い学校に入るための教育、または、全国統制的な教育に変わってくるのである。
この国家による教育の統制路線を物語るものは、1958年の、文部省告指でだされた学習指導要領でみる事ができる。
1960年代になると、学歴社会となり、受験のための教育になってくる。
そして、高度経済成長によって、日本の社会は大きく変わってくる。家では、おじいさんやおばあさんがいない核家族が増えてくる。
また、転勤族も増加してきた。
こうなってくると、地域との繋がりが非常に薄い社会ができる。地域に根ざした教育が難しくなったと言えるだろう。
極端な言い方にはなるが、学校の存在意義は、良い点数をとるための受験のテクニックを教える事であり、受験戦争に打ち勝つ事ができる生徒を育てるのが大事な使命となってくる。
問題点として、勉強をする事に関して、悪い事だとは否定する事はできないが、しかし、受験のための勉強、すなわち、ただ暗記するだけのあまり意味のない勉強になりがちなところが問題点と言えるだろ。
意味を持たない暗記はすぐ忘れるし、実生活にもあまり役に立たない。
1970年代後半以降ぐらいからの教育問題として、受験学力競争の歪が徐々にでてきた事である。この時代になると、ますます、受験学力競争が激化していき、第2次ベビーブーム世代の受験がそのピークとなった。
受験競争の歪として、生徒の校内暴力や家庭内暴力、落ちこぼれの増加、いじめの増加、不登校、学級崩壊など、生徒のストレスが原因と見られるさまざまな病理的現象が社会問題となった事である。
教育の問題点を背景として、中曽根総理時代に臨時教育審議会(1984〜1987)が発足して教育の問題点を考えていった。臨時教育審議会はゆとり教育の先駆のような存在となった。
ゆとり教育は、受験目的の一方的な詰め込み教育の反省から考えられたものである。
ゆとり教育は教育の自由化を考え、生徒の個性を重んじ、生徒がゆとりをもって教育する所に特徴がある。
週五日制や総合教育、絶対評価などさまざまな改革が上げられる。週五日制による授業日数や授業時間の減少など、また、総合の時間などによって教科学習の時間が減る事から学力の低下問題が浮上してくる。
また、生徒を評価する時、教科テストの点数だけで評価するのではなく、人格的な部分を踏まえて生徒を評価する事は良い事でと思う。
しかし、危険性も含んでいる。なぜなら、生徒の人格的な部分にまで介入してしまうことは、本当の自由にはならないこともあるからである。
生徒に国が求める人格を強制的に求めてしまう事は国家による教育の統制とも受けとめる事ができる。
また、もし、受験とリンクしてしまったら、大変な事が起きてしまう。なぜなら、推薦入試に有利になるためや指定校推薦を勝ち取るために、本人の意思とは無関係に学校に忠誠を尽くす事を強要してしまう危険性がある。
本人の意思とは無関係にボランティア活動などに参加して、ボランティア活動が受験の一部となってしまうことも考えられる。
本来自由であるはずの総合学習などの時間が実は受験勉強とリンクしてしまう可能性も出てくる。
現代の教育改革はさまざまな問題点は含んでいるものの生徒の個性を重んじる理念は良いと私は思う。
また、今現在でも教育改革は早い流れで変わっているので、今後も慎重な分析が必要だと思う。
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戦後教育について‐法政大学通信教育部教職課程(教育過程論リポート)
戦後の教育は戦前の反省から始まった。
日本は敗戦によりたくさんのものを失い、これまでの教育が間違いであったと気づいた。
戦前の教育は国家による統制である。戦後は統制から自由へと教育路線が変わった。
そして、法的にも、戦後に作られた教育基本法の前文によって、個人の尊厳を重んじ、また、個性豊かな文化の創造を目的とした教育が基本的な形となっている。
個人を重んじ個性豊かな文化を創造すると言う事は、教育は国家が一方的に押しつけて統制するのではなくて、生徒1人1人の個性を大事にして、生徒の個性を伸ばす自由教育と見ることができる。
戦後に行われた教育は、教育基本法の理念に近い教育が行われた。
それは、コアカリキュラムと呼ばれる、自由な教育実践である。生徒の状態や、地域性、学校性を踏まえた、独自の教育実践は非常に価値あるものだと思われる。
しかし、問題点として、教育システムの弱さや科学的な教育ができなかったことが問題として考えられる。
日本は、敗戦直後なので、教育システムの充実に力を注ぐことが困難な状態であった。
逆に言うと、敗戦直後で、たくさんのものを失っているから、国民は自分が住む地域や日本を復興したいという強い気持ちがあり、教育は地域と学校が一体となって、将来の地域の担い手を育てる、実践的な教育が行われたと考えられる。
子供達は地域と関わりを持つことによって、自分達が住む地域の問題を見つけ、自らの関心から、それぞれに問題を見つけ考えていく、そんな生徒主体の自由な教育であった。
しかし、1950年代に入ると日本は復興を果たし、教育に対する考え方も変わってくる。
すなわち、経済が復興して高度経済成長になってくると、日本の社会は、地域から都会に変わってくる。
若者は職や学校を目指して、地域を離れ都会へとやってくる時代がくるのである。
すなわち、地域に根ざした教育は土台を失っていく時代になったのである。地域に根ざした実践的な教育から良い学校に入るための教育、または、全国統制的な教育に変わってくるのである。
この国家による教育の統制路線を物語るものは、1958年の、文部省告指でだされた学習指導要領でみる事ができる。
1960年代になると、学歴社会となり、受験のための教育になってくる。
そして、高度経済成長によって、日本の社会は大きく変わってくる。家では、おじいさんやおばあさんがいない核家族が増えてくる。
また、転勤族も増加してきた。
こうなってくると、地域との繋がりが非常に薄い社会ができる。地域に根ざした教育が難しくなったと言えるだろう。
極端な言い方にはなるが、学校の存在意義は、良い点数をとるための受験のテクニックを教える事であり、受験戦争に打ち勝つ事ができる生徒を育てるのが大事な使命となってくる。
問題点として、勉強をする事に関して、悪い事だとは否定する事はできないが、しかし、受験のための勉強、すなわち、ただ暗記するだけのあまり意味のない勉強になりがちなところが問題点と言えるだろ。
意味を持たない暗記はすぐ忘れるし、実生活にもあまり役に立たない。
1970年代後半以降ぐらいからの教育問題として、受験学力競争の歪が徐々にでてきた事である。この時代になると、ますます、受験学力競争が激化していき、第2次ベビーブーム世代の受験がそのピークとなった。
受験競争の歪として、生徒の校内暴力や家庭内暴力、落ちこぼれの増加、いじめの増加、不登校、学級崩壊など、生徒のストレスが原因と見られるさまざまな病理的現象が社会問題となった事である。
教育の問題点を背景として、中曽根総理時代に臨時教育審議会(1984〜1987)が発足して教育の問題点を考えていった。臨時教育審議会はゆとり教育の先駆のような存在となった。
ゆとり教育は、受験目的の一方的な詰め込み教育の反省から考えられたものである。
ゆとり教育は教育の自由化を考え、生徒の個性を重んじ、生徒がゆとりをもって教育する所に特徴がある。
週五日制や総合教育、絶対評価などさまざまな改革が上げられる。週五日制による授業日数や授業時間の減少など、また、総合の時間などによって教科学習の時間が減る事から学力の低下問題が浮上してくる。
また、生徒を評価する時、教科テストの点数だけで評価するのではなく、人格的な部分を踏まえて生徒を評価する事は良い事でと思う。
しかし、危険性も含んでいる。なぜなら、生徒の人格的な部分にまで介入してしまうことは、本当の自由にはならないこともあるからである。
生徒に国が求める人格を強制的に求めてしまう事は国家による教育の統制とも受けとめる事ができる。
また、もし、受験とリンクしてしまったら、大変な事が起きてしまう。なぜなら、推薦入試に有利になるためや指定校推薦を勝ち取るために、本人の意思とは無関係に学校に忠誠を尽くす事を強要してしまう危険性がある。
本人の意思とは無関係にボランティア活動などに参加して、ボランティア活動が受験の一部となってしまうことも考えられる。
本来自由であるはずの総合学習などの時間が実は受験勉強とリンクしてしまう可能性も出てくる。
現代の教育改革はさまざまな問題点は含んでいるものの生徒の個性を重んじる理念は良いと私は思う。
また、今現在でも教育改革は早い流れで変わっているので、今後も慎重な分析が必要だと思う。
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