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2016年05月04日
海軍カレー
海軍カレーとは、大日本帝国海軍の糧食に由来する、カレーおよびカレーライスのことである。特徴はカレーに小麦粉を炒めて作ったルーを使うことであり、一般的に日本のカレーライスと言う場合、この海軍カレーに類するものを指す場合が多い。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーライスが紹介された。
当時、大日本帝国海軍軍人の病死の最大の原因となっていた脚気の原因が、軍内の栄養が偏った白米中心の食事であることを突き止めた海軍軍医の高木兼寛は、同盟関係にあったイギリス海軍を参考に、糧食の改善を行うことを試み]。
イギリスにおいても、元来カレーは米(ライス)と併せるものであり、パンを併せるのはあくまで軍隊食である。
日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用し、海軍当局が1908年発行の海軍割烹術参考書[に掲載して普及させ、海軍内の脚気の解消に成功した。さらにその後の第一次世界大戦を通じ、海軍、陸軍ともにその普及に努めた。また、この段階でカレーライスに牛乳が付いたとされる。
材料のうち、調味料を醤油を砂糖に変えると、そのまま「肉じゃが」になる。そのため補給の面でも具合がよく、それも軍隊食として普及した理由である。肉は主に牛肉で、第二次世界大戦時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。
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当時、大日本帝国海軍軍人の病死の最大の原因となっていた脚気の原因が、軍内の栄養が偏った白米中心の食事であることを突き止めた海軍軍医の高木兼寛は、同盟関係にあったイギリス海軍を参考に、糧食の改善を行うことを試み]。
イギリスにおいても、元来カレーは米(ライス)と併せるものであり、パンを併せるのはあくまで軍隊食である。
日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用し、海軍当局が1908年発行の海軍割烹術参考書[に掲載して普及させ、海軍内の脚気の解消に成功した。さらにその後の第一次世界大戦を通じ、海軍、陸軍ともにその普及に努めた。また、この段階でカレーライスに牛乳が付いたとされる。
材料のうち、調味料を醤油を砂糖に変えると、そのまま「肉じゃが」になる。そのため補給の面でも具合がよく、それも軍隊食として普及した理由である。肉は主に牛肉で、第二次世界大戦時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。
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タグ:海軍カレー
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2016年05月03日
軍記紹介 旧日本軍最強伝説。舩坂 弘軍曹。
舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日 - 2006年2月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。戦後は日本初のビルを丸ごと一つ使った書店 デパートである大盛堂書店初代代表取締役会長となる。
全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。 その白兵戦におけるあまりの戦果から、個人名としては唯一「戦史叢書」に名前が載っている。
特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段、居合道錬士、銃剣道錬士など、武道・射撃の技能に習熟していた。
この戦いに参戦し多大な戦果を上げる。
「不死身の分隊長」と呼ばれる。
アンガウル島は、ペリュリュー島の隣にある小さな島。
日本軍1200名がこの島の防衛にあたっていた。
昭和19年4月27日に、この島に船坂軍曹は着任する。
上陸早々から、敵グラマン機動隊の空襲を受ける。
炎天下で昼夜を問わず、島の海岸線に障害物を設置し、鉄条網を張り、内側に深い戦車壕をめぐらし、側方火器を設置する作業は二重・三重に行われる重労働。水は雨水だけであり、、雨水貯めの釜の中にはボウフラが湧いている。食料はと節食しており、飯が1合、みそ汁一日二食であり、敵と戦う前から過酷な状況下に置かれていた。
昭和19年9月6日、敵船団が洋上に現れて、アンガウル島に一斉艦砲射撃を開始。
艦載機及びBー24による爆撃も同日始まった。
昭和19年9月14日、米軍はは舟艇約十隻に分乗して東海岸を偵察。
9月17日午前5時30分,猛烈な艦砲射撃とともに米軍の上陸がはじまりました。
米軍はアンガウル島を占領し、本土攻撃のための飛行場を作ることであった。
第八十一歩兵師団「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持っているハワイで特別上陸訓練を受けた選りすぐりの精強部隊を中心に、22000名で攻撃を加える。
日本軍は強固な防御線を築き上げ、敵軍の上陸に合わせ水際作戦を展開するも、圧倒的な物量・人海戦術には勝てず、水も食料も尽きた日本の防衛隊は次第に追い詰められていった。
米軍の猛攻によって戦友が次々倒れていくが、船坂軍曹は、擲弾筒を筒身が真赤になるまで撃ち続ける。
そのとき舩坂軍曹が見た敵兵の第一線は、ほとんどが黒人兵だったそうです。
黒人兵の後ろから白人兵が展開していたんだそうです。
ゲリラ戦を展開し舩坂軍曹1人で200人以上の米兵を殺傷させる。
優勢である米軍が後退し始めたので、戦況が変わったのかと考えた瞬間、ナパーム攻撃と激しい艦砲射撃を受ける。
この攻撃により、陣地の地形は大きく変わり、仲間の大半も失っていました。
その後3日間の戦闘を続けましたが、船坂軍曹も瀕死の重傷を負う。
軍医も治る見込みが無いから自決しろの意味で手榴弾を手渡されて置き去りにされる。
それでも、日章旗で止血し夜通し這うことで味方洞窟陣地に帰り着き、翌日には歩けるまでに回復した。
ガキ大将であった舩坂は生傷も絶えなかったが「生まれつき傷が治りやすい体質」だったと本人は言う。
その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、不思議と翌日には回復している。
そんな舩坂軍曹を間近に見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」と形容したといいます。
しかし食料も水もない状況での戦い。
洞窟陣地の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相を呈していた。
舩坂軍曹も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまいました。
極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなかったそうです。
蛆に食われて死ぬくらいならこれまでと........
彼は遺書を書きました。
若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
陸軍軍曹 舩坂弘
遺書を書き上げ、手にした手榴弾を引き抜きました。
ところが手榴弾が爆発しません。
手榴弾が不発だったのです。
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好きな映画 「硫黄島からの手紙」
「たこ(たか子)ちゃん、
お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、
お母さんの力になれる人になることばかり思っています。
からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言付けをよく守り、
お父さんを安心させるようにして下さい」。
昭和19年6月25日 戦地のお父さんより。
(栗林中将)
花子
この手紙が届くことは無いだろう
でも、書いてるってだけでほっとするんだ
もう五日も飲まず食わずだ
ただ生きるってためだけに
信じられねぇことまでする
もう逃げられねぇ
でも、お前と赤ん坊のことだけが気がかりだ
(西郷一等兵)
サムへ
何冊か本を送ります
気に入ればいいけれど
昨日、犬達が穴を掘って
フェンスをくぐってしまいました
犬達は近所中走り回って
私たちが見つけた時には
ハリソンさんのところのニワトリが
震え上がっていました
私たちのことは心配しないで
自分の体だけ気をつけて
ちゃんと帰ってきてね
そして母さんの言ったこと
忘れないでね
正義を貫けば、それは正義になる
戦争が一日も早く終わり
あなたが無事に帰ってきますように
母より
(アメリカ兵の母の手紙)
今より総攻撃をかける。
日本が戦に敗れたりと言えど、いつの日か国民が、
諸君等の勲功を称え、諸君等の霊に涙し黙祷を捧げる日が必ずや来るであろう……!
安んじて国に殉ずるべし!
我々の子供が日本で一日でも長く安泰に暮らせるならば、
我々がこの島を守る一日には意味があるんです!
生きて再び祖国の地を踏むことなきものと覚悟せよ
世は常に諸子の先頭に在り
(栗林中将訓示)
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タグ:硫黄島からの手紙
菱形 マーク I 戦車。
マークI戦車(Mark I tank)は、イギリスが第一次世界大戦中に開発、使用した世界初の実用戦車である。
世界初の洗車は今の戦車とは全く違う形でした。第一次世界大戦最中の西部戦線における、塹壕と機関銃の圧倒的優位を打破するために誕生した世界初の近代的な実用戦車である。
その形状から菱形戦車とも呼ばれる。第一次世界大戦には機関銃の大規模運用が始まったことから、隊列を組む昔ながらのスタイルは完全に廃れ、地面に掘った壕に身を隠す塹壕戦が広まりました。
これによって防御側が圧倒的優位な時代が訪れたのです。
当然、各国は「どうやって敵の塹壕を突破するか」の研究を重ねました。
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タグ:戦車、マークT戦車
2016年05月02日
日本陸軍九七式中戦車。
九七式中戦車 チハは、1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の中戦車。
「チハ」とは「3番目(イ、ロ、ハ)に開発された中戦車(チ)」である事を表すコードネーム(計画名称・秘匿名称)である。
1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次世界大戦における日本軍の主力戦車として使用された。
チハの評価はあまり良くありませんでした。97式中戦車チハが開発された頃の想定では中国大陸で国民党軍と戦うために設計されたようです。チハはもともと陣地突破と歩兵支援が目的の戦車だと思います。
攻撃能力や機動性・防御性能を考えると対戦車戦闘よりも対歩兵戦に向いていたのかもしれませんね。
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「チハ」とは「3番目(イ、ロ、ハ)に開発された中戦車(チ)」である事を表すコードネーム(計画名称・秘匿名称)である。
1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次世界大戦における日本軍の主力戦車として使用された。
チハの評価はあまり良くありませんでした。97式中戦車チハが開発された頃の想定では中国大陸で国民党軍と戦うために設計されたようです。チハはもともと陣地突破と歩兵支援が目的の戦車だと思います。
攻撃能力や機動性・防御性能を考えると対戦車戦闘よりも対歩兵戦に向いていたのかもしれませんね。
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