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ケロロ
元陸上自衛隊第7師団戦車連隊の 偵察小隊等に勤務していました。 実際に74式戦車・主に偵察用オート・60式装甲車に搭乗していました。 戦争映画や軍機・ミリタリー・バイク・波乗り・山登りと興味は多い50代。 戦車や戦艦などのラジコン遊びが好き。 自室を戦闘基地にしたい。 しかしながら一番は平和と健康です♪
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2016年05月03日

軍記紹介 旧日本軍最強伝説。舩坂 弘軍曹。

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舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日 - 2006年2月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。戦後は日本初のビルを丸ごと一つ使った書店 デパートである大盛堂書店初代代表取締役会長となる。

全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。 その白兵戦におけるあまりの戦果から、個人名としては唯一「戦史叢書」に名前が載っている。

特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段、居合道錬士、銃剣道錬士など、武道・射撃の技能に習熟していた。

この戦いに参戦し多大な戦果を上げる。

「不死身の分隊長」と呼ばれる。

アンガウル島は、ペリュリュー島の隣にある小さな島。
日本軍1200名がこの島の防衛にあたっていた。
昭和19年4月27日に、この島に船坂軍曹は着任する。
上陸早々から、敵グラマン機動隊の空襲を受ける。
炎天下で昼夜を問わず、島の海岸線に障害物を設置し、鉄条網を張り、内側に深い戦車壕をめぐらし、側方火器を設置する作業は二重・三重に行われる重労働。水は雨水だけであり、、雨水貯めの釜の中にはボウフラが湧いている。食料はと節食しており、飯が1合、みそ汁一日二食であり、敵と戦う前から過酷な状況下に置かれていた。

昭和19年9月6日、敵船団が洋上に現れて、アンガウル島に一斉艦砲射撃を開始。
艦載機及びBー24による爆撃も同日始まった。
昭和19年9月14日、米軍はは舟艇約十隻に分乗して東海岸を偵察。

9月17日午前5時30分,猛烈な艦砲射撃とともに米軍の上陸がはじまりました。
米軍はアンガウル島を占領し、本土攻撃のための飛行場を作ることであった。
第八十一歩兵師団「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持っているハワイで特別上陸訓練を受けた選りすぐりの精強部隊を中心に、22000名で攻撃を加える。

日本軍は強固な防御線を築き上げ、敵軍の上陸に合わせ水際作戦を展開するも、圧倒的な物量・人海戦術には勝てず、水も食料も尽きた日本の防衛隊は次第に追い詰められていった。

米軍の猛攻によって戦友が次々倒れていくが、船坂軍曹は、擲弾筒を筒身が真赤になるまで撃ち続ける。
そのとき舩坂軍曹が見た敵兵の第一線は、ほとんどが黒人兵だったそうです。
黒人兵の後ろから白人兵が展開していたんだそうです。
ゲリラ戦を展開し舩坂軍曹1人で200人以上の米兵を殺傷させる。
優勢である米軍が後退し始めたので、戦況が変わったのかと考えた瞬間、ナパーム攻撃と激しい艦砲射撃を受ける。
この攻撃により、陣地の地形は大きく変わり、仲間の大半も失っていました。
その後3日間の戦闘を続けましたが、船坂軍曹も瀕死の重傷を負う。
軍医も治る見込みが無いから自決しろの意味で手榴弾を手渡されて置き去りにされる。

それでも、日章旗で止血し夜通し這うことで味方洞窟陣地に帰り着き、翌日には歩けるまでに回復した。
ガキ大将であった舩坂は生傷も絶えなかったが「生まれつき傷が治りやすい体質」だったと本人は言う。
その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、不思議と翌日には回復している。
そんな舩坂軍曹を間近に見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」と形容したといいます。

しかし食料も水もない状況での戦い。
洞窟陣地の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相を呈していた。
舩坂軍曹も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまいました。
極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなかったそうです。
蛆に食われて死ぬくらいならこれまでと........


彼は遺書を書きました。

若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。

陸軍軍曹 舩坂弘

遺書を書き上げ、手にした手榴弾を引き抜きました。
ところが手榴弾が爆発しません。
手榴弾が不発だったのです。











船坂軍曹は死ねないことへの絶望感を味わったといいます。
洞窟内には仲間の糞尿の臭気が満ちています。
せめて敵将に一矢報いようと、米軍司令部への単身での斬り込みを決意しました。
拳銃弾から中の火薬を取り出すとウジのわいた腹部の傷口に火薬を詰め終わると、そこに火をつけました。
傷口の両側から炎が噴き出した。焼くことにより、止血したのです。
このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。
意識を取り戻した舩坂軍曹は、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ました。


米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯。
数夜かけて這って米軍前哨陣地を突破。

4日かけて、米軍指揮所のテントにあと20Mの地点にまで到達。
右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出して立ち上がりました。
絶対安全なはずの米軍の本部指揮所に、突然、真っ黒に汚れた幽鬼のような日本兵が、いきなり茂みから立ち上がったのです。
発見した見張りの米兵もしばし呆然として声もでなかったそうです。
手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、銃で首を撃たれ倒れこむ.......

米軍医は手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っていたのだそうです。

死体置き場に3日間転がされていた舩坂軍曹は、なぜかそこで息を吹き返しました。
死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍ったそうです。
そして舩坂軍曹に銃口を向ける。

ところがその幽鬼は、向けた銃口にゆっくりと向かってきます。
そして銃口に自分の身体を押し付けると、
「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげて、ふたたび気を失いました。

船坂軍曹は捕虜となり、ペリリュー島捕虜収容所を去り、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に日本に帰国した。

わずか一坪の書店を開く。後に渋谷の「大盛堂書店」に発展するのである。

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