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2021年02月26日
真・地名推理ファイル 絹の道をゆく-13 高丸コレクション
■八王子編 Vol.1
プロローグから横浜編と、全12回にわたって幕末から明治期にかけての横浜の歴史と生糸に賭けた商人たちの活躍についてご紹介した。当時の時代背景や、生糸(絹)についての諸事情など、多少なりとも知っていただけたのではないだろうか。
本来なら終点から絹の道を遡りながら源流を目指すところだが…プロットも無く行き当りばったりで執筆している関係上、この先どこでどう道が逸れるか…果たして何年かかるかまったく見当がつかない。
源流である八王子に辿り着いたときに終点・横浜のことを忘れてしまっている(筆者自身が…)という可能性が非常に高い。なので、まずは終点・横浜から一気に八王子に飛ぶことにした。
織物の街・桑の都
八王子には私の父方の実家(宮澤家)の墓がある。元々は長野県の善光寺にあったのだが、長男である伯父が亡くなり、親戚兄弟のほとんどが東京に居を移したということで、二十年ほど前に八王子の川口町にある墓苑に改葬した。
以来、年二回のお彼岸には墓参を欠かさない。八王子の街は大きい。自然も豊富だし、公共施設も充実している。何より歴史が深い。行けば必ず周辺の史跡や城跡を訪ね、河原で遊び、美術館などで心の洗濯などをする。
墓参に通い始めて二十年あまり、八王子駅周辺の風景もずいぶんと様変わりした。
特に北口、バスロータリーの上に「ペデストリアンデッキ」と呼ばれる歩行者専用の立体回廊が出来たことで駅前の雰囲気が一変した。
こうした構造の通路が最初に造られたのは千葉の柏駅(常磐線)だそうだ。今では日本全国あらゆる駅で採用されている。一番大きいのは仙台駅、身近なら溝の口や新百合ヶ丘の駅前を想像していただければ話が早い。
このデッキが出来たことによって、駅前の渋滞が緩和され、歩行者の安全が確保された。それと同時に、八王子の街の歴史と文化をひと目で知ることができる大切なシンボルがひとつ消滅した。
巨大な和蝋燭を立てたような、まっ白なモニュメント。そこには「織物の八王子」と大書されていた。
通称「織物タワー」、昭和三十五年に建てられ、八王子市民はもとより八王子駅に降り立った大勢の人に親しまれたシンボルタワーだ。
現在、タワーの代わりに絹織物をかたどった虹色のオブジェがデッキの上に設置されている。だが、このオブジェを見て「ああ、八王子は絹織物の街なんだね」と思う人がどれほどいるだろうか?
八王子は、「桑の都=桑都(そうと)」という美称で呼ばれている。
鎌倉時代初期の僧侶で歌人の西行が「浅川を渡れば富士の影清く 桑の都に青嵐吹く」と詠んだくらいだから、その歴史は古い。奈良平安の頃から桑の栽培や養蚕が行われ、その美称が定着していたのだろう。
生産品としての八王子織物の起源は戦国時代。北条氏康の三男・氏照の居城「滝山城」の城下で市が開かれ、そこで取引されていたという。
その後、徳川幕府の代官で甲州街道筋を担当した大久保長安が開設した横山十五宿で、毎月四と八の日に市が開かれるようになると、周辺の村々から繭や生糸、織物などが集まるようになった。
絹織物の操業が本格的に始まったのも江戸時代である。京都西陣の高機(たかばた)という手織り機と、博多織(帯地)などの先進的な技法が 桐生、足利から移住してきた技術者によって伝えられ、近郊農家の副業として広まった。
山地と平地の境界で、生糸の原料が手に入りやすく、江戸という巨大な消費地が近いという地理的条件。それに先進的な技術が加わったことによって八王子の織物業は急速に発展したのである。
八王子のペデストリアンデッキには、溝の口の「キラリデッキ」と同じように愛称が付いている。その名も「マルベリーブリッジ」、マルベリーとは「桑の実」のことだ。
北口の駅前の大通り、甲州街道(国道20号)との交差点の向こう側には、同じように桑の木が植えられている。
街路樹に桑の木が使われているのは、全国でもここだけだ。街路樹の桑はどれも10数mある。桑畑のイメージから大人の背丈くらいしかないと思い込んでいたので、「桑並木通り」という標識を見るまでは、街路樹が桑だとは考えもしなかった。
片倉製糸
この桑の木は、昭和三十年に『片倉製糸』から寄贈された。
片倉製糸…現在の『片倉工業株式会社』である。下着、靴下から医薬品、自動車部品、ショッピングセンターなどなど、現在手広く事業を展開している片倉工業だが、その成り立ちは長野県岡谷の小規模な製糸場であった。
明治六年(1873)、長野県諏訪郡川岸村(現在の岡谷市)で、片倉市助なる人物が、自宅の庭で座繰り(ざぐり=ハンドルの付いた手動の糸繰り機)という製糸機を使って生糸作りを始めた。
その五年後、跡を継いだ二代目片倉兼太郎(片倉佐一)は、時勢の流れを敏感に感じとり、三十二人繰りの洋式器械を取り入れ、垣外(かいと)製糸場を開設。
明治二十八年には、それを拡張させて片倉組を立ち上げ、それを継承する形で『片倉製糸紡績株式会社』を設立した。東京に進出以降は、事業を拡大し、日本国内だけでなく海外にも業務を展開、一財閥を形成するに至る。
明治五年から昭和六十二年(1987)まで、およそ115年間操業を続け、現在世界遺産登録をめざしている『富岡製糸場』を最終的に引き受けたのも片倉製糸だ。(平成十七年、富岡市に寄贈)
※富岡製糸場は、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録されました。
因みに、それ以前の所有者は、製糸商・原富太郎の 原合名会社である。
あゝ野麦峠
長野県岡谷の製糸工場といえば、映画『あゝ野麦峠』を思い出さずにはいられない。飛騨の農家から諏訪、岡谷の製糸工場へ出稼ぎにいく女工たちの姿を描いた作品だ。
吹雪の中を危険な峠雪道を越え、劣悪な環境の元で懸命に働く少女たち。病のため貧しい実家に連れ戻される途中で息をひきとった主人公の姿に多くの人が涙した。
確認しようとレンタル店に行って探したがどこにも無い。
調べてみたら、DVDどころかビデオにもなっていないという。これほど有名な作品にも関わらずだ。仕方なく、朝日新聞社から出版されている原作(著者・山本茂実)を図書館で借りて読むことにした。
小説だと思い込んでいたが、十数年にわたる取材、360人もの元女工や関係者に対する聞き取り調査。明治期の生糸輸出量から女工の賃金、就業時間等の資料も添えられた完璧なドキュメンタリー作品であった。いや歴史書といってもいいだろう。
『製糸工女哀史』という副題が付いているように、読みながら何度も涙をこぼした。
それ以上に衝撃的だったのは、文明開化の真実の姿に気づかされたことである。
明治維新以降、死に物狂いで先進国の仲間入りを目指した後進国ニッポンが富国強兵政策を推し進め、日清・日露戦争に勝利し近代的工業国家へと生まれ変わることができたのは何故か?
『坂の上の雲』を読んでいるだけでは決して知ることのできない庶民の歴史がそこに描かれていた。
つづく
プロローグから横浜編と、全12回にわたって幕末から明治期にかけての横浜の歴史と生糸に賭けた商人たちの活躍についてご紹介した。当時の時代背景や、生糸(絹)についての諸事情など、多少なりとも知っていただけたのではないだろうか。
本来なら終点から絹の道を遡りながら源流を目指すところだが…プロットも無く行き当りばったりで執筆している関係上、この先どこでどう道が逸れるか…果たして何年かかるかまったく見当がつかない。
源流である八王子に辿り着いたときに終点・横浜のことを忘れてしまっている(筆者自身が…)という可能性が非常に高い。なので、まずは終点・横浜から一気に八王子に飛ぶことにした。
織物の街・桑の都
八王子には私の父方の実家(宮澤家)の墓がある。元々は長野県の善光寺にあったのだが、長男である伯父が亡くなり、親戚兄弟のほとんどが東京に居を移したということで、二十年ほど前に八王子の川口町にある墓苑に改葬した。
以来、年二回のお彼岸には墓参を欠かさない。八王子の街は大きい。自然も豊富だし、公共施設も充実している。何より歴史が深い。行けば必ず周辺の史跡や城跡を訪ね、河原で遊び、美術館などで心の洗濯などをする。
墓参に通い始めて二十年あまり、八王子駅周辺の風景もずいぶんと様変わりした。
特に北口、バスロータリーの上に「ペデストリアンデッキ」と呼ばれる歩行者専用の立体回廊が出来たことで駅前の雰囲気が一変した。
こうした構造の通路が最初に造られたのは千葉の柏駅(常磐線)だそうだ。今では日本全国あらゆる駅で採用されている。一番大きいのは仙台駅、身近なら溝の口や新百合ヶ丘の駅前を想像していただければ話が早い。
このデッキが出来たことによって、駅前の渋滞が緩和され、歩行者の安全が確保された。それと同時に、八王子の街の歴史と文化をひと目で知ることができる大切なシンボルがひとつ消滅した。
巨大な和蝋燭を立てたような、まっ白なモニュメント。そこには「織物の八王子」と大書されていた。
通称「織物タワー」、昭和三十五年に建てられ、八王子市民はもとより八王子駅に降り立った大勢の人に親しまれたシンボルタワーだ。
現在、タワーの代わりに絹織物をかたどった虹色のオブジェがデッキの上に設置されている。だが、このオブジェを見て「ああ、八王子は絹織物の街なんだね」と思う人がどれほどいるだろうか?
八王子は、「桑の都=桑都(そうと)」という美称で呼ばれている。
鎌倉時代初期の僧侶で歌人の西行が「浅川を渡れば富士の影清く 桑の都に青嵐吹く」と詠んだくらいだから、その歴史は古い。奈良平安の頃から桑の栽培や養蚕が行われ、その美称が定着していたのだろう。
生産品としての八王子織物の起源は戦国時代。北条氏康の三男・氏照の居城「滝山城」の城下で市が開かれ、そこで取引されていたという。
その後、徳川幕府の代官で甲州街道筋を担当した大久保長安が開設した横山十五宿で、毎月四と八の日に市が開かれるようになると、周辺の村々から繭や生糸、織物などが集まるようになった。
絹織物の操業が本格的に始まったのも江戸時代である。京都西陣の高機(たかばた)という手織り機と、博多織(帯地)などの先進的な技法が 桐生、足利から移住してきた技術者によって伝えられ、近郊農家の副業として広まった。
山地と平地の境界で、生糸の原料が手に入りやすく、江戸という巨大な消費地が近いという地理的条件。それに先進的な技術が加わったことによって八王子の織物業は急速に発展したのである。
八王子のペデストリアンデッキには、溝の口の「キラリデッキ」と同じように愛称が付いている。その名も「マルベリーブリッジ」、マルベリーとは「桑の実」のことだ。
北口の駅前の大通り、甲州街道(国道20号)との交差点の向こう側には、同じように桑の木が植えられている。
街路樹に桑の木が使われているのは、全国でもここだけだ。街路樹の桑はどれも10数mある。桑畑のイメージから大人の背丈くらいしかないと思い込んでいたので、「桑並木通り」という標識を見るまでは、街路樹が桑だとは考えもしなかった。
片倉製糸
この桑の木は、昭和三十年に『片倉製糸』から寄贈された。
片倉製糸…現在の『片倉工業株式会社』である。下着、靴下から医薬品、自動車部品、ショッピングセンターなどなど、現在手広く事業を展開している片倉工業だが、その成り立ちは長野県岡谷の小規模な製糸場であった。
明治六年(1873)、長野県諏訪郡川岸村(現在の岡谷市)で、片倉市助なる人物が、自宅の庭で座繰り(ざぐり=ハンドルの付いた手動の糸繰り機)という製糸機を使って生糸作りを始めた。
その五年後、跡を継いだ二代目片倉兼太郎(片倉佐一)は、時勢の流れを敏感に感じとり、三十二人繰りの洋式器械を取り入れ、垣外(かいと)製糸場を開設。
明治二十八年には、それを拡張させて片倉組を立ち上げ、それを継承する形で『片倉製糸紡績株式会社』を設立した。東京に進出以降は、事業を拡大し、日本国内だけでなく海外にも業務を展開、一財閥を形成するに至る。
明治五年から昭和六十二年(1987)まで、およそ115年間操業を続け、現在世界遺産登録をめざしている『富岡製糸場』を最終的に引き受けたのも片倉製糸だ。(平成十七年、富岡市に寄贈)
※富岡製糸場は、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録されました。
因みに、それ以前の所有者は、製糸商・原富太郎の 原合名会社である。
あゝ野麦峠
長野県岡谷の製糸工場といえば、映画『あゝ野麦峠』を思い出さずにはいられない。飛騨の農家から諏訪、岡谷の製糸工場へ出稼ぎにいく女工たちの姿を描いた作品だ。
吹雪の中を危険な峠雪道を越え、劣悪な環境の元で懸命に働く少女たち。病のため貧しい実家に連れ戻される途中で息をひきとった主人公の姿に多くの人が涙した。
確認しようとレンタル店に行って探したがどこにも無い。
調べてみたら、DVDどころかビデオにもなっていないという。これほど有名な作品にも関わらずだ。仕方なく、朝日新聞社から出版されている原作(著者・山本茂実)を図書館で借りて読むことにした。
小説だと思い込んでいたが、十数年にわたる取材、360人もの元女工や関係者に対する聞き取り調査。明治期の生糸輸出量から女工の賃金、就業時間等の資料も添えられた完璧なドキュメンタリー作品であった。いや歴史書といってもいいだろう。
『製糸工女哀史』という副題が付いているように、読みながら何度も涙をこぼした。
それ以上に衝撃的だったのは、文明開化の真実の姿に気づかされたことである。
明治維新以降、死に物狂いで先進国の仲間入りを目指した後進国ニッポンが富国強兵政策を推し進め、日清・日露戦争に勝利し近代的工業国家へと生まれ変わることができたのは何故か?
『坂の上の雲』を読んでいるだけでは決して知ることのできない庶民の歴史がそこに描かれていた。
つづく