2018年09月28日
脳内完結から続章へ、断章から新章へ
まずは心からの感謝を申し上げます。
本当に、ありがとうございます。
水瀬次郎です。
がんばったけれども、ダメなこともありました。ダメなものはダメでした。強がっても仕方ないので、それでもなお「成長したい」「前進したい」という願望を大切にしたいので、「ダメなものはダメだった」を受け容れます。
ダメじゃないよ、と言い続けるのも「ひとつの道」でしょう。そういう性格の人もいると思いますし、いても良いかと思います。私は「ダメなものはダメ、だからこそ良くしよう、良くなる」と表現する「道」を選びました。
さあ、これから、ここから、どうしましょうかね。あてが、ないですね。ビジョンだけが存在していて、途方に暮れてしまうばかりです。
心の拠り所となる「物」があると、少し気持ちが軽くなります。「大切なもの」でもいいですし、「好きなもの」でもいいので、手触りの得られる「物」を触れてみませんか。旬の果実や野菜でもいいと思います。料理で食材に触れることって、癒しにもなっているんじゃないかと感じますし、皿洗いや洗濯だって心を鎮めるのに効果的だと感じることもあります。誤解を恐れずに言えば、「きれいにする」「良くする」「満たす」などの行為は、荒ぶる何かを鎮めて落ち着かせて、結果的に癒されます。
定期的に、荒れるんですよ。なぜなんだか。積もり積もった課題が突如として目の前で「見えてしまって」、結果として、「怒る」んです。怒りの矛先は自分自身ですが、そのときに同じ時間と空間を共有している人は不愉快になることでしょう。なので自重するように心がけています。できるだけ、人と一緒にいるときは上機嫌であろうとしますし、怒りは「演技」か「役」でもないと発揮しないようにしています。自分の「欲」や「本能」で怒ると、ろくなことにならないって「体験的に学んでいる」からです。
脳内完結させているはずの物語が、うずうずと「変えてくれ」と訴えかけているような気がします。限界だと思っていたのに、どうやら限界突破の秘策を思いついたのでしょう。大発見なのかもしれませんし、たまたま自然に「そういうふう」になっただけのことかもしれません。
隷属的な生き方に対して、断固とした「拒否」を発動したならば、そのときになって初めて気づくことのできる「自分自身」の存在を目の当たりにできるでしょう。親からの命令で「いいから嘘をつきなさい」と言われて育った子供は、大人になったときに「真実で語りあいたい」と望んでも良いのです。むしろ、信頼できる人と「真実を語り合い」、いままであなたを「いいから嘘をつきなさい」と命令し続けてきた親に対して「ウソを言う」ようにすれば良いのです。親に命令された内容を、親に対して発揮するだけのことですから、なんら「親不孝だ」と自分を責める必要は、ありません。
でも、まあ、和やかに生きていられるのが一番です。優しい気持ちで人と接することができるのが、しあわせです。それが「できない」「させてもらえない」ように育てられたとしても、「していいよ」と自分で自分に許可する日は必ず訪れます。
もしかすると、今までの「心の苦しみ」は、単なる脳内完結の物語かもしれません。しかも物語の全編ではなく、あくまでも断章の欠片。ほんの一節ですよ。ですから、正々堂々と「うれしい」と喜べる人間性を、自分で自分に許可しましょう。
あなたの心の苦しみは、脳内完結する物語の断章の一片です。続章は自由に書き綴ることができます。断章から新章へ進みましょう。
本当に、ありがとうございます。
水瀬次郎です。
がんばったけれども、ダメなこともありました。ダメなものはダメでした。強がっても仕方ないので、それでもなお「成長したい」「前進したい」という願望を大切にしたいので、「ダメなものはダメだった」を受け容れます。
ダメじゃないよ、と言い続けるのも「ひとつの道」でしょう。そういう性格の人もいると思いますし、いても良いかと思います。私は「ダメなものはダメ、だからこそ良くしよう、良くなる」と表現する「道」を選びました。
さあ、これから、ここから、どうしましょうかね。あてが、ないですね。ビジョンだけが存在していて、途方に暮れてしまうばかりです。
心の拠り所となる「物」があると、少し気持ちが軽くなります。「大切なもの」でもいいですし、「好きなもの」でもいいので、手触りの得られる「物」を触れてみませんか。旬の果実や野菜でもいいと思います。料理で食材に触れることって、癒しにもなっているんじゃないかと感じますし、皿洗いや洗濯だって心を鎮めるのに効果的だと感じることもあります。誤解を恐れずに言えば、「きれいにする」「良くする」「満たす」などの行為は、荒ぶる何かを鎮めて落ち着かせて、結果的に癒されます。
定期的に、荒れるんですよ。なぜなんだか。積もり積もった課題が突如として目の前で「見えてしまって」、結果として、「怒る」んです。怒りの矛先は自分自身ですが、そのときに同じ時間と空間を共有している人は不愉快になることでしょう。なので自重するように心がけています。できるだけ、人と一緒にいるときは上機嫌であろうとしますし、怒りは「演技」か「役」でもないと発揮しないようにしています。自分の「欲」や「本能」で怒ると、ろくなことにならないって「体験的に学んでいる」からです。
脳内完結させているはずの物語が、うずうずと「変えてくれ」と訴えかけているような気がします。限界だと思っていたのに、どうやら限界突破の秘策を思いついたのでしょう。大発見なのかもしれませんし、たまたま自然に「そういうふう」になっただけのことかもしれません。
隷属的な生き方に対して、断固とした「拒否」を発動したならば、そのときになって初めて気づくことのできる「自分自身」の存在を目の当たりにできるでしょう。親からの命令で「いいから嘘をつきなさい」と言われて育った子供は、大人になったときに「真実で語りあいたい」と望んでも良いのです。むしろ、信頼できる人と「真実を語り合い」、いままであなたを「いいから嘘をつきなさい」と命令し続けてきた親に対して「ウソを言う」ようにすれば良いのです。親に命令された内容を、親に対して発揮するだけのことですから、なんら「親不孝だ」と自分を責める必要は、ありません。
でも、まあ、和やかに生きていられるのが一番です。優しい気持ちで人と接することができるのが、しあわせです。それが「できない」「させてもらえない」ように育てられたとしても、「していいよ」と自分で自分に許可する日は必ず訪れます。
もしかすると、今までの「心の苦しみ」は、単なる脳内完結の物語かもしれません。しかも物語の全編ではなく、あくまでも断章の欠片。ほんの一節ですよ。ですから、正々堂々と「うれしい」と喜べる人間性を、自分で自分に許可しましょう。
あなたの心の苦しみは、脳内完結する物語の断章の一片です。続章は自由に書き綴ることができます。断章から新章へ進みましょう。
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