2017年01月20日
薩摩の豪族達に思いを馳せて。
鹿児島県の大隈半島に、根占(ねじめ)という地名がありますが、名前の元になったのは、読みが同じの祢寝氏です。
平安時代末から大隅半島南部を治めていた豪族で、足利氏方につき、室町時代には大隅・日向を治める島津奥州家に従って勢力を伸ばしていました。
応永24(1417年)川辺で、島津奥州家と平山城主の島津総州家・伊集院氏連合軍との合戦が起こりました。
当時、祢寝家当主・清平は久豊とともに松尾城(川辺氏の城)に入り、平山城を攻めましたが、城の堅い守りを崩すことができず、松尾城へ退却する際、城を目前にして泥田に入り込み、身動きがとれなくなったところを、討ち取られました。
この五輪塔は、江戸時代の1751年(寛永4年)に子孫によって建立されたものです。清平の法名が「名山」だったことから、「名山塔」と呼ばれています。また、近くの碑には、戦死した50名の家臣が祀られています。
田んぼの中にポツンとたっており、江戸時代に建てられたことを知るとともに、鹿児島県の氏族のことに思いを馳せました。川辺といい、伊集院といい、小松様の肝付氏といい、知覧の佐多氏といい、この根占氏といい、今でも全ての地名が残っています。こんな県も珍しいのではないでしょうか。
平安時代末から大隅半島南部を治めていた豪族で、足利氏方につき、室町時代には大隅・日向を治める島津奥州家に従って勢力を伸ばしていました。
応永24(1417年)川辺で、島津奥州家と平山城主の島津総州家・伊集院氏連合軍との合戦が起こりました。
当時、祢寝家当主・清平は久豊とともに松尾城(川辺氏の城)に入り、平山城を攻めましたが、城の堅い守りを崩すことができず、松尾城へ退却する際、城を目前にして泥田に入り込み、身動きがとれなくなったところを、討ち取られました。
この五輪塔は、江戸時代の1751年(寛永4年)に子孫によって建立されたものです。清平の法名が「名山」だったことから、「名山塔」と呼ばれています。また、近くの碑には、戦死した50名の家臣が祀られています。
田んぼの中にポツンとたっており、江戸時代に建てられたことを知るとともに、鹿児島県の氏族のことに思いを馳せました。川辺といい、伊集院といい、小松様の肝付氏といい、知覧の佐多氏といい、この根占氏といい、今でも全ての地名が残っています。こんな県も珍しいのではないでしょうか。
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