2017年01月20日
日本初の軍艦は薩摩で造られた。
島津斉彬公が、磯の集成館一帯に築いた様々な近代化事業のひとつに造船所がありました。
南北100m幅20m深さ3m掘り下げて、東側から海水を入れる、という構造をもった造船所がこの場所(磯・集成館の前方・海水浴場手前)にあったのです。
同じ島国のイギリスにならい、艦船を備え、海軍をつくり、薩摩を日本一の強い藩にしようと考えたのは、イギリスやフランスの艦船が、毎年のように琉球にあらわれ通商を要求するようになったからでした。
当時の日本は統一国家の体のごときものではありましたが、国の象徴である国旗はありませんでした。
英国やアメリカの船がマストに国旗を付けているのに学び、日本国の船だと一目で解るように斉彬公自ら考案したのが、後に国旗となった日の丸でした。
ここで、1854年(安政元)に洋式帆船「伊呂波丸」を完成させ、桜島瀬戸村に新設された造船所では、大砲船として改造された「昇平丸」が進水しました。
いずれも日本最初の快挙で、昇平丸はマストに日の丸を翻し、江戸に回航将軍家定を初め諸侯幕閣を驚かせました。
幕府の求めに応じて献上され、この昇平丸(昌平丸)に乗り込んだのが勝海舟です。しかし、その3年後に斉彬公は急死、意志をついだ忠義が外国船を大量に購入し、薩摩は洋式船の数で、日本一を誇りました。
「造船所跡」の碑をみて、のちに東郷平八郎が日本の海防の要となる海軍を作り、ロシアのバルチック艦隊を破った事にも繋がりっていきます。
また、五代友厚なども薩英戦争で敵の船に興味を持ち、それをきっかけに西洋に学び、大阪の実業界で活躍しました。斉彬公のグローバルな考えは西郷・大久保のみならず多数の優秀な人間を育て、明治維新後の日本近代化の原動力になりました。
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