「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2014年08月16日投稿。
それはそれは遠い昔の話、裏の山のそのまた裏の、ずっとずっと奥の奥、山の半ば、人の道を逸れたところにね、小さな小さな滝があってねぇ。そこには半魚が棲むと噂があってね。
誰しも其処に憧れたものさ。なんせ半魚を食べると不老長寿が手に入ると言われていたからねぇ。
ただ、本当にそんな場所があるのかすら、判らない。其処を目指して行った者は、誰一人帰らなんだんだ。
これはそんな、不思議なお話。
鴉に恋した半魚の話
半魚の肉は不老長寿の薬となる。
そんな馬鹿げた話、あるわけなかろうね。
りりは溜め息を吐いて長い黒髪を柘の櫛でといた。
さらさらと髪が舞って、りりは水面に映る自分の髪にうっとりと頬を緩ませる。
母様がいつか言っていた。美しいものを食べなさい、食はそのままお前の血肉となるのだから、美しい者を、食べなさい、と。
母様は美しい方だった。
だから、その教えを守って生きてきた。
滝に迷い込む者はおなごが多く、その人肉はほどよく甘く、あたしはそれをしっかり食した。
この美しいおなご達は、あたしの美しさになる。母様のように。
りりは長い黒髪を三つに編むと、それを何度か撫でてから、そっと大岩に寝転がった。
陽の光が身体中の鱗をきらきらと輝かせる。黒光りするその艶やかな鱗は、りりの自慢の鱗であった。
母様譲りの美しい鱗。
りりは半魚であった。
半人半魚。
人魚と言えば聞こえは言いが、所詮は化け物だ人を惑わすあやかしだなど指をさされるだけの存在だ。
りりはぼんやり目を瞑る。
滝の飛沫がきらきらと空の光を輝かせている。
水面を揺らしながらたくさんの鮒が泳いでいる。
静かな場所。滝の打つ音が心地好く耳を撫でる。
そんな場所で、りりはひとりぼっちだった。
つまんないねぇ。
半魚の肉の噂は、おなご達を引き寄せる餌でもあったが、それ故、母様の命を奪う要因にもなった。
りりは滝の真裏で母様が八つ裂きにされるのを見てしまった。
ぐちゃぐちゃに裂かれた身体をまるで魚の肉をさばくかのように小さな塊にされてしまって、一抱えほどの木箱にすっぽり収まってしまった母様。
それからずっとひとりぼっちだった。
母様を殺した男達はさして旨くはなかった。
力の強い男の筋繊維は固いばかりで食べにくかったし、内臓も苦くて食えたものじゃあなかった。
母様の肉は水の中に還してやった。
そしたらいつも一緒に泳いでた鮒供ったら、それが母様の肉だなんて知りもせずにばくばく食べちゃったもんだから、びっくりしてしまって。
でもまぁ、水に還るって、そういうことだわ。
りりは岩の上で大きく伸びをする。そして尾びれで水面を揺らして鮒を蹴散らしてから、ぼちゃんっ、川の中に潜り込んだ。
別に構やしないわ、一人だって生きていける。ただ、つまんないだけ。
水がなくちゃ生きていけないもの。滝の外に出たら私も母様のように裂かれて死んでしまうんだわ。それは不愉快だもの。だからここでいい、ここでのんびり暮らすの。
りりはきらきら揺れる水面を見上げながら思った。
暫くすると蹴散らした鮒供が戻ってきて、りりの身体に擦り寄ってくる。
りりはその鱗を優しく撫でてやってから、これでいい、これでいいんだわ、何度となくそう思った。
その時だった。
どんっ、
重たい音が、水面を貫いて耳に届く。
鮒は一斉に水底に潜ってしまった。
りりが恐る恐る顔を出すと、どんっ、また音がした。
そして何度目かのその音に、遠い空を飛んでいた黒い鳥が、翼を衝かれてばしゃんと落ちてきた。
鮒がそれに群がるので蹴散らしてから、りりはそれを拾い上げて岩の上に横たえてやる。
猟師かと思ったが、落ちた鴉を拾いに来る気配もない。
弄んだだけってことかい。
りりは無性に腹がたったが、そんなことより今は傷口を見てやらないと、そう思って翼を広げてみると、弾丸は翼の根元を折るほど深くめり込んでいて、つい、眉間に皺を寄せる。
酷いもんだねぇ、人間は。
りりが弾丸を抉り取ってやると、どろどろとした赤い液体が岩肌を伝って水面を染めていく。
あぁ、こらもうダメだね。
りりは傷口を押さえてやるけども、流れを止めてやれなくて、溜め息を吐くしかできない。
こんな小さな身体でこんなにたくさん流れちまったら、もう、ダメだろうね。
りりは傷口に触れるのを止めた。
代わりにそっと胸元に抱きしめると、苦しそうに息を吐く嘴を指の腹で優しく撫でてやった。
可哀想にねぇ、可哀想にねぇ。
人は食べるため以外に平気で生き物を殺す。生き物は愉しむための道具なんかじゃないのにねぇ。
りりはそっと頭に唇を寄せてやると、川の縁の土のあるところまで抱えて泳いでいき、そっと横たえてやった。
せめて土へお還り。
りりは最後に嘴を撫でてやってから、水の中へ帰った。
それが、昼頃のことだった。
りりが滝の裏で眠っていると、鴉が泣く声が聞こえた気がして、驚いて目を覚ました。
もう月が上っていた。そのうち星が顔を出すだろう。
りりは何となく気になって、昼頃鴉を横たえてやった場所を遠目から見やった。
何かいる!
りりはびっくりして、あまりにびっくりしたものだから、ばしゃんっ、水面を尾びれで叩いてしまって、大きな音を響かせてしまう。
やってしまった。
あれが人間で気付かれてしまったなら、自分の命はないかもしれない。もしあれが昼間、鴉を無意味に撃った人間なら、りりのことも簡単に殺してしまうのだろう。
そう思うと怖くて怖くて堪らなかったけれど、そんな気配はなくて。
りりは首を傾げた。
好奇心に負けて、水底をゆっくり這って近付いてみる。
すると、水面を揺らして人の手が差し伸べられたので、びっくりして、けれどそこには全く害意なぞ感じられなくて、りりはその手を取った。
力強く引き上げられたりりは、半魚の姿を晒してしまう。
湿った身体に土が付いて、何だか落ち着かない。
「昼間はすまなかったな」
「何がだい?」
「弾を抜いてもらって助かった。根元に深く入ったから自分では取れそうになかったから、諦めていた」
「あんた、あやかしかい」
「お前もだろう」
「……、」
りりが上体を起こすと、人の形をしたそれが、ゆっくりと抱きしめてくる。
「昼間の礼だ」
「そうかい」
誰かに抱きしめられたのなど、母様以外に初めてで、しかもその感触も久しかったものだからか、りりは心臓がだくだく打つのが感じられて、何だか落ち着かない。
「すまんが暫くここに居させてもらうぞ。あやかしとはいえ、俺は治癒に長けてない。飛べるようになるまで、だいぶ掛かるかもしれん」
「……、」
「鮒はお前の兄弟か?」
「……、いんや、ただ、食うならあたしの見てないところで食っておくれね。一緒に暮らした仲間が減るのは、心苦しいからね」
「察しがいいな」
「食べるのは生きるため仕方のないことだからねぇ」
りりは暫く腕の中にいてやった。
もぞもぞ動くとその腕は簡単に離れてしまって、少しだけ、寂しくなった。
「なぁ、あんた、名前はあるかい?」
「聞いてどうする」
「あたしはねぇ、りりってんだ。母様が付けてくれた。良い名だろう?」
りりが言うと、人の形をした鴉は、そうだな、と、りりの髪を撫ぜてきた。
それにまた、心臓がだくだく波打って。
りりは苦しくなって、ぼちゃんっ、身を捩って水の中へと戻った。
「暫くゆっくりするといい、傷が癒えるまで飛べもしないんだろう?」
りりが言うと、鴉は寂しそうな笑みを浮かべる。
「そうだな」
言って、そっぽを向いて横になった。
「その姿……、」
りりが背中に声を掛けると、鴉はひらひらと手を振った。
「あぁ、鴉は仮の姿でな、実は俺はこっちのが本当に近いんだ」
「……、」
「俺はあんたと違う。あんたみたいな綺麗な存在じゃない。半分以上、人の血が混じってんのさ」
「……、そうかい……、」
りりはそれ以上聞かなかった。
代わりに滝の裏に隠しておいた、いつぞやの食べた娘の着物を持ってくると、そっと鴉に掛けてやった。
「あんたのかい?」
「ふふふっ、だったらよかったんだけどねぇ、私はこのとおり、服なんか着やしないんだよ」
りりが笑って言うと、鴉はこっちを向いて、真っ直ぐりりを見つめてくる。
「着てみりゃいいのに。あんた、人の姿になれるだろうに、どうして」
りりはわざとらしく肩を竦める。
そしてばしゃんと尾びれで水面を叩くと、
「あたしはこれが気に入ってんのさ」
言ってから、逃げるようにその場を離れた。
滝の裏に戻っても、だくだく波打つ心臓が抑えきれなくて、苦しくて。
眠れそうにもないのに、りりは無理矢理目を瞑った。
数日、鴉は満足に動けやしないようで、ただ人の形のまんま、ずっと横たわっていた。
りりがそっと鮒を置いてやっておくと、暫くしたらそれはいなくなっていた。
毎日毎日りりは鮒を置いてやっていた。それだけしか、してやれることが見つからない自分が悔しかった。
ある日りりが滝の裏で眠っていると、ばさりっ、翼の音が聞こえて、ぼんやりと目を開けた。
大きな翼を背中に、人の形をした鴉は寂しそうに笑ってりりの頭を撫ぜてきた。
「ほら、そこで見つけた」
「あぁ、綺麗だねぇ」
簪。ここにくるおなご達はいつも簡素なそれだったから、こんなにきらきら飾りのついた簪見たことがなくて、りりはうっとりそれを見つめた。
「あんた、綺麗な髪だからな、たまにでいい、付けるといい」
水の中じゃ要らないかもしれないがな。
鴉は言うと、そっとりりから離れた。
りりは何となく、その意味を悟る。
寂しいねぇ、寂しいねぇ。
いつの間にか川縁にあんたがいるのが普通になっちまっていたよ。
それを口にすることができなくて、代わりに、りりはそっと髪を束ねると、たどたどしい手付きで簪を差してみる。
すると鴉が近付いてきて、前から後ろに手をやって、それを直してくれた。
「ありがとうねぇ」
りりは水面に映る自分の髪を見つめて、うっとりとした。
きらきら飾りが綺麗で、嬉しくなって、りりはそっと簪に触れてそれを揺らした。
「やっぱり似合う」
「そうかい?」
「最後にあんたがそれを付けてるのが見れて良かったよ」
「ふふふっ、あんた変わってるねぇ」
「変わってやしないさ、鴉はきらきら綺麗なもんが好きなんだ」
言うと、鴉はりりの頬の鱗を、そっと撫ぜる。
「あんた、そこらの宝石以上に綺麗だぜ」
「ふふふっ、あんた、硝子の欠片にだってそう思うんだろう?」
「……、」
「もう撃たれないように気を付けなね」
りりは言うと、そっと額に口付けてやった。
そして指の腹で唇を撫ぜてやってから、もう一度、ありがとねぇ、言って、鴉の唇を撫ぜたその指で簪を揺らした。
鴉は何も言わなかった。
翼をばさりと広げてから何度か羽ばたくと、初めて見た時の小さな姿になって、そのまま滝の外へと消えた。
りりが見送ると、黒い点はすぐに空の向こうに消えてしまった。
りりは簪を外して、そっと唇を落とす。
そうさね、水と空じゃあ、あまりに世界が違いすぎるってもんさね。
りりは溜め息を吐いて、そっと、桐の箱に簪をしまうのだった。
おしまい