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2020年05月05日

【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【手習いの話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年07月12日投稿。




梅雨は長い。とてつもなく長い。
雨が降ると三味線の音も鈍るし、弾くではなく叩いて奏でる質の佐之助にとって、何とも憂鬱な季節であった。
何より、雨の時期は座長も鴉も機嫌と体調が悪くなるものだから、遊び相手がいないのである。一人遊びには慣れてはいるが、こうも毎日だとつまらない。
まだ梅雨に入り一週間も経たないのに、佐之助は既にうんざりしていた。
そんなとき、座長が長屋の奥に向かって歩いているのを目にした。珍しく化粧もせずに男物の着物を着ている。そして例に漏れず、不機嫌そうである。
佐之助は一瞬躊躇ったが、やっぱり何だか寂しかったので、とててててっ、走って座長に後ろから掻きついた。
「……、」
座長の反応がない。
不愉快に思われたかもしれない。機嫌の悪い時に掻きつきやがってと思われたかもしれない。そう思ってそっと離れると、座長がくるりと振り向いて、がしがしと乱暴に頭を撫でてくれた。
「どうしたんだい、佐之助」
どうしたもこうしたもない。寂しかっただけだ。
そう伝えたいけど佐之助は声が出せないもんで、しょんぼりと俯くしか出来ない。
そんな佐之助見て、あぁ、と、名案を思いついたとでも言うように、座長は手をぽんと叩いた。
「雨で毎日何処にも行けやしないし、つまらないだろう? 佐之助、お前、お紀伊に字を教えてやってくれよ」
そうだねぇ、お愁と一緒に教えてやったら、いつかあの子も喋れるようになるかもしれないねぇ。
そう言ってまた、座長はがしがしと頭を撫でてくれる。
「梅雨が明けたらお前の成果が楽しみだねぇ」
それを聞いて、佐之助の顔がぱぁあああぁっと明るくなった。そうしてくるりと踵を返すと、部屋へと急いで帰っていった。




佐之助が興行に出ることはない。謳いも出来ないし、見た目はただの人っ子と同じなので、一座には向かないのだ。
物珍しさに鴉に引き取られたのまでは良かったが、一座では特にやることもなく、つまらない毎日を過ごしていた。
そんな佐之助を見兼ねてか、座長はたまにお仕事をくれる。
手書きのチラシを作ったり、お得意様へのハガキを出したり、たまにお使いに立てたりしてくれた。
でも佐之助は、自分の馬鹿みたいに整っている字なんかより、座長のさらさらとした字の方が味があると思っていたので、自分に字書きの仕事をくれるのは嬉しいけれど、少しだけ、無理にくれてるんだと思うと、なんだか申し訳なかった。
だけれど今回は違う。
佐之助は古物の文箱をそのまま手にして、紙を鷲掴み、ばたばたとお愁の部屋へと向かう。
そう、今回は、整った字を書く自分が、適任なはずだ。
そう思うと何だか嬉しくなって、自然、足も弾むのだった。




佐之助は、気は長い方だと、自負している。
しかし、何度やってもいろは歌も書けぬ紀伊に、少し苛ついていた。
「お紀伊ちゃん、ひらがな、半分も書けないね」
二人で字を教え出して数日、とうとうお愁が言った。
今まで筆も何も持ったことがなかったのだから、字が汚いのはまだ仕方がない。佐之助の手本に準えて書くとそれらしいものは書けるようになったが、いざお愁がこの字を書けだの言うと混乱するのか半分も書けなかった。空でいろは歌も書けないし、佐之助は溜め息を吐いた。
自分の教え方が悪いのだろうか。
佐之助は俯いた。
声が出せない分は隣でお愁が口にしてくれている。今まで意思の疎通もこなしているのだから、言葉自体は解っているはずだ。
それでもいざ書こうとすると空では書けないもんだから、やっぱり字を準えて書かせたり、手本を見て書かせたりでは、覚えられないのだろうか。
そんな俯いた佐之助を見て、お愁はぽつり、ごめんなさい、と言った。
そうして二人とも俯き黙り込んでしまうもんだから、紀伊もしょぼくれてしまって、その日はもうお開きになった。




梅雨もそろそろ明ける。
佐之助は三味線を叩きながらぼんやり思った。
梅雨も明けるのに、折角座長にもらった役目も、全く進んでいない。ひらがなとカタカナを平行して教えてみたが、やっぱりいざ空で書かせると上手く書けないようだった。
これじゃあ、漢字なんて……。
そう考えると気が重くなって、自然と叩く撥も重たくなる。
佐之助は溜め息を吐いた。
今日はお愁と一緒に紫陽花を見に行くらしいから、手習いもない。ないから気晴らしに三味線を叩いているのに、やっぱり気分が乗らない。
自分には向いてないのかもしれない。佐之助は俯いた。声も出せないし、ひらがなでこんがらがっているだろうに、カタカナまで教え始めて。一緒に覚えた方が覚えやすいかと思ったのだけど、どうやらそうではないらしい。
佐之助はまた、溜め息を吐いた。
暫く溜め息は止みそうにないな、そう思うと余計気が重たくなるのだから、どうしようもなかった。




その日は月が出ていた。
夕餉の時はまだ雨音が聞こえていたのに。
そう思うと嬉しくなって、佐之助は三味線を手にとって、外へ飛び出した。




「おい、お前何処行くつもりや」
突然掛けられた声に、紀伊の肩がびくりと跳ねた。
そこには久方ぶりに見た、鴉の姿があった。
いつもと違い髪はそのまま垂れ流してあり、そしていつも以上に不機嫌そうであった。
一瞬、紀伊は答えるか迷うような素振りを見せたが、すぐに鴉の着物の引っ張ってなぁなぁと鳴いた。
すると、
「ちゃんと喋りよし!」
鴉がばちん、帳面のようなもので思いきり紀伊の頭を叩いてから、それと一緒に万年筆を差し出した。
「なんやの。喋らんならここに書きぃ」
紀伊はそれをふんだくると、使い慣れない万年筆に戸惑いながらも、がりがりと書いた。
さのすけどかいつちやつた
それを見た鴉は、面倒臭そうに息を吐いた。
「それで? 追い掛けてどないすんの、佐之助よりここらに詳しゅうないお前が」
「……、」
このままかえつてこなかたらきいのせい
しょんぼりと紀伊は書いた。
それを見て、鴉は鼻を鳴らす。
「佐之助が帰ってこんわけがねぇだろ」
それでも紀伊はそうは思わないらしく、必死で鴉を引っ張って、どうやら一緒に探しに行けとでも言っているようだ。
くそ面倒臭ぇな。
鴉は舌打ちをするが、あまりに紀伊が必死で引っ張るもので、それをいなすのも面倒だと思い、仕方なしに外へ行くことにした。
鴉には人ならざる力を行使すれば探し物はだいたい見つけられるのだが、今回はそうするまでもなかった。
なんとなく、佐之助の行きそうなところなど考えがつく。
ぽてぽてと紀伊を連れて歩きながら、新しくできた空き地へと、向かっていった。
その空き地は梅雨前に佐之助と一緒に見つけた空き地だった。後で家を建てるにしろ、どうせ今は梅雨で何にもしてやしないだろうと踏んでいたら、まさしくそうだった。空き地には瓦礫が積み重なっている場所があり、その上で黒い影が、撥を叩いている。
佐之助だ。
一瞬、紀伊はきょとんとして首を傾げた。
どうやら大きい佐之助が佐之助だと分からないらしい。そんな紀伊を尻目に、鴉は瓦礫へと近付いた。
「佐之助、帰るぞ」
言うと、影は驚いたように目を開き、撥を止めた。
そんな鴉の後ろから、とぼとぼと紀伊がやってくる。それを見て佐之助は、少しだけ目を逸らしてから、また撥を叩き始めた。
すると鴉は溜め息を吐いてから、舌打ちをする。
そして振り返って紀伊に一言、帰るぞ、と、声を掛けてから先々と歩き出した。
そんな鴉と大きな佐之助を交互に見ると、紀伊はどっちをどうすればいいのかなんて分からなくなって、なぁーなぁー、悲しそうに鳴きながら、鴉に渡された帳面にがりがりと書いて佐之助に差し出した。
するとそれを見て、佐之助は吃驚したように目を見開いてから、少し照れたように笑って、首を振ってから、さきにおかえり、と返してやった。そんな佐之助を暫く紀伊は待っているようだったが、鴉が不機嫌そうに呼ぶので、帳面を懐にしまって、その場を後にした。
雨上がりの月夜に、弦を叩くその音が、妙に心地好かったのだけ、覚えている。




次の日の朝、お愁と一緒に紀伊が佐之助の部屋を覗くとそこには誰もいなくて、二人顔を見合わせて俯いた。
「お紀伊ちゃん、今日は私と、お勉強ね」
そう言ってとぼとぼお愁の部屋へと戻ってると、嬉しそうに佐之助がばたばたと走ってきた。手には見たことのない、どうやら洋物の本のようだ。
佐之助がそれを開けると、そこにはいろんな玩具や道具の絵が描いてある。
それを見て、お愁と紀伊が目をきらきら輝かせていると、佐之助はそれに万年筆でがりがりと文字を書いていった。ひらがなカタカナに簡単な漢字も使い、物の名前を書き込んでいく。
「そうか、絵と一緒だと覚えやすいかもね」
お愁が嬉しそうに言うと、佐之助は笑ってそれを紀伊に差し出した。
紀伊はその本を大事に腕に抱えると、頑張るぞ、とでも言うように、なぁー、と一声鳴いた。
梅雨明けももうすぐ。
三人の頑張りは、まだまだ始まったばかりである。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【七夜目】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年07月11日投稿。




雨の季節が過ぎ去って、暑い夏の気配がそこかしこに満ちてきた。
「ほれ、皆好きに書きな」
言いながら、ばさりっ、夕餉の席で座長が笹を放り投げて寄越すので、銀は首を傾げた。他の者は、配られた短冊を手にとって、思い思いの願いを口にして話に花を咲かせている。
「えっと、座長、これはどういう……、」
銀がきょとんと座長を見返すと、さも当然とでも言うように、座長は怪訝な表情を浮かべて言った。
「皆の短冊をくくりつけて、神社に奉納しに行くんだよ」
「神社?」
「そうさね」
銀は思い返す、去年のことを。そういえば鴉に連れられて大きな神社に笹を奉納しに行ったような気がする。そこは確か恋の神様だとかなんだとか。
「行けるのがお前とお紀伊しかいないからねぇ」
「……、」
銀は首を傾げる。確かに純粋な妖しの類は神域には入れない。妖力が高ければ高いほど、強い神気にあてられてしまう。
しかし、それは妖力が高ければの話だ。
この妖怪一座の中には、妖力を持たぬ者がもう一人いる筈だ。そう、鴉だ。
「座長、鴉は?」
尋ねると、座長はすごく不愉快そうな表情を浮かべる。それに面食らって、つい銀は、目をぱちくりとさせた。
鴉と座長は旧知の仲だ。多少の某はとんとんにさせてしまう程度には、気心も知れてるし、鴉が自由に動き回っても何も言わないのが座長だ。その筈だ。
「鴉はねぇ、もう暫く帰ってきやしないよ」
そう言った座長の声が吐き捨てるようだったので、銀は思わず肩を竦めた。
すると、後ろからお妲が銀に抱き着いてきて、
「銀の字、アンタは何て書くんだい? アタシはアンタと甘味屋行けますようにとでも書こうかねぇ、」
と嬉しそうに言った。
くすくすと笑いながら言うお妲に、銀は顔を真っ赤にして硬直する。それを見て座長が苦笑いしてから、お妲の髪を一度だけくしゃりと撫でてから、付け加えるようにまた、銀に言った。
「じゃ、皆の短冊、よろしく頼むよ」
そうして踵を返し、さっさと部屋へと帰って行ってしまった。
その様子をぽかんと銀が見つめていると、後ろから抱きついたまま、お妲がぼそりと言った。
「ケンカしたのさ。よくあることさね。鴉は家出しちゃって、今いないのさ」
「え……、」
「ま、そのうちひょっこり帰って来るだろうからねぇ、それまでお仙は、そっとしといておやり」
そんな、座長と鴉が喧嘩だなんて。
銀にはあまりその光景が思い浮かばなかったが、そういえば梅雨に入る前からずっと、鴉の機嫌が悪かったことを考えると、有り得ないことではないかもしれない。
そんな感じにぼんやり考えていると、目の前に紀伊がひょっこり、お愁と一緒にやってきた。手にはたくさん、短冊を持っている。
「銀の字がお姉ちゃんといちゃついてる間に、もう皆、短冊書いちゃったよ」
「いちゃつ……!?」
その言葉に銀は慌てるが、お妲は何ともない風で、更にぎゅっぎゅと抱きついてくるもんだから、もう銀はさっきまでの座長と鴉とのことなんて考えてられなくなって、自分の鼓動が速くなるのを感じた。
「姐さ……、あの……、胸……、」
しどろもどろで銀が言うのにお愁が呆れたように首を振ってから、笹を取り上げて言った。
「お紀伊ちゃん、だめ。銀の字は使いものにならない。短冊、結び方教えてあげるね」
そう言ってお愁は笹を持って部屋へととてとて帰っていく。それを見てから紀伊も、銀に呆れたかのように首を振ってから、短冊を持ってお愁についていった。
そうして広間を見渡してみると、もうお妲と銀が二人だけしかいなかった。
「ちょっ、お紀伊、おいっ、」
慌てて呼び止めるが、お妲がぎゅっぎゅと抱きついてくるもんだから、もう次第に抵抗する気もなくして、掻きついてくるお妲の手に自分の手を重ねた。
「ふふっ、あの二人仲良くなっちまって、本当、可愛いもんだねぇ」
アタシたちに気を遣ってくれたんだねぇ。
いやいやいや、呆れてるだけだって、っていうか、姐さん、もう、本当、もう、
嬉しそうに言うお妲に銀は心の中で言葉を返してから、はぁ、一つ溜め息を返してからぽつりと漏らした。
「敵わないなぁ」
そんな銀の心を知ってか知らずか、お妲はくすくす笑って皆の短冊よろしくたのむよ、なんて言うもんだから銀は、仕方ないな、敵わないな、ともう一度心の中で言いながら、暫くの間、その腕の中に甘んじるのだった。




朝、まだ日も顔を出したか出してないか、そのぐらいの時間、銀は紀伊の手を引いて、去年鴉に連れられて行った神社に笹を運んでいた。
右手に持った笹には、皆の様々なお願い事が書いてあり、ふと目をやるとひらがなの拙い字で、「たくさんたべる。きい」なんて短冊を見つけて銀は苦笑いした。
「お紀伊、お前そんなに食い意地張ってどうするんだ」
そう言いながら、いつの間にか字が書けるようになっていたのかと思うと何だか微笑ましかった。
そんな願いの詰まった笹を持って、開いたばかりの神社へと朝一で奉納してしまうと、銀は言いようのない達成感を覚えて、軽い足取りで家路についた。
そしてほとんど長屋に帰った頃、あ、と思い出して血の気が引くのを感じた。
「俺、短冊書いてないじゃん」
そんな銀を尻目に、紀伊はぽてぽて先に帰って行くもんだから、もう引き返すこともできなくて、銀はがっくり肩を落として帰らざるを得なかったとさ。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【五夜目】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年07月09日投稿。




「お前、髪……、」
そろそろ紫陽花も彩り見せそうな今日この頃、長屋をぽてぽて紀伊と歩いていると、不意に後ろから声を掛けられた。鴉だ。
声に銀が振り向くと、いつも以上に不機嫌そうな顔をしている。
なんだよ、声を出そうとすると、鴉が珍しく紀伊をまじまじと見てるもんだから、銀は首を傾げた。
「おい、銀、お前さ、」
「なんだよ」
「髪ぐらい梳かしたりぃさ」
そう言うと、鴉は不愉快そうに紀伊の髪を引っ張った。すると、絡まった髪が鴉の指に絡み、紀伊が痛そうに、なぁー! と鳴いた。
「見とって鬱陶しいわ」
その吐き捨てるような物言いに、銀はバツが悪くなって顔を逸らした。
「だって、髪とかどうすればいいか分かんないって」
そうしてよくよく省みたら、風呂場で洗ってやる時も割と雑にした記憶しかなくて、自分がなんだか情けなくなって、銀は口をつぐんで俯いた。
そんな銀を鴉が尚も睨み付けるもんだから、紀伊は不安そうに二人を交互に見やって、か細い声でなぁなぁと鳴いた。
「ブラシなら上物お妲が持っとるきに貸してもらいぃさ。それかもうばっさり切ってしまいよし」
言いながら、鴉は鬱陶しそうに紀伊の髪を引っ張った。
それになぁーなぁー鳴いて抗議するも、鴉は止めない。
「っていうか何でそんな不機嫌なんだよ」
紀伊を引っ張って庇うと、銀は鴉を睨んで抗議した。
すると鴉は事もなげに、
「見とって鬱陶しいからだろが」
また同じ言葉を口にした。
すると鴉は踵を返し、次見た時も同じだったらその髪ちょん切るぞ、なんて言いながら、長屋の奥へと消えていった。
そんな背中を見送ってから、なんなんだよ、と、一人ごちてから、再び紀伊を見る。長い髪は来た時と違い、いつの間にかぼさぼざ跳ねているし、ところどころ絡まっているせいで髪の量以上の重量感を覚えた。なるほど、鴉が鬱陶しいと言うのも分かる気がする。
そもそも鴉なんかは自身の長い黒髪を自慢にしているし、ああ見えて手は器用で身だしなみに気を付ける方だから、余計に気になるのかもしれない。
これは一度姐さんに何とかしてもらった方がいいかもしれないな。
そう決意して、とりあえずで洗濯してそれを全て干してしまうと、紀伊を連れてお妲の部屋へと向かうことにした。
そう、まさかそこでそんな悲劇が訪れようとは、考えもせずに、だ。
「姐さん、話があるんだけど……、」
そう言って銀が戸を開けると、最初に聞こえてきたのは、何と舌打ちだった。
吃驚して目を丸くしたまま突っ立っていると、
「おや、銀の字じゃないかい」
大きな狐が嬉しそうに九つの尻尾を振った。
するとまたその背後から舌打ちが聞こえ、のっそりと不機嫌そうな鴉が顔を出したもんだから、一瞬、銀は状況が理解できずに、硬直した。その後、一気に泣きそうになって、そんなの誰にも見られたくなくて、
「おおおおおおお、お邪魔しましたっ!」
叫ぶように言って、走って逃げた。
逃げて逃げて逃げて、自分の部屋へと駆けずりこんで、紀伊が敷きっ放しにした布団に顔を押し付けた。
そんな、まさか、鴉まで。
頭が混乱して、もう何が何だか分からない。
いや、確かに、鴉が座長やお妲と旧知の仲だということは知ってはいたのだが、まさかそんな仲だなんて思いもせず。
銀は、瞳を潤ませながら思った。
「俺一人、馬鹿じゃないか……、」
ぎゅっ、銀は掛け布団を握り締める。
「俺一人、馬鹿じゃないか、なぁ、お紀伊……、」
そう言ってごしごしと目を擦りながら立ち上がると、銀は絶句した。
紀伊が、いないのである。
しまった。なんてことを。
どうやら銀は自分があの場に居たくないという衝動に身を任せたせいで、紀伊を置いてきてしまったようである。しかもよりによって、紀伊の髪に不機嫌になっている鴉がお妲と楽しんでいるところを邪魔する形で、だ。
しかし、何となくバツが悪くて、そもそもこんな顔を二人に見せたくなんかなくて。
銀は暫くぼけっとしていた。
生返事の多い奴ではあったけど、鴉にはたくさん話を聞いてもらっていた。それなのに、まさかその鴉が……。
考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。
こうしてぼんやりしていても嫌なことばかりが浮かんでくるので、銀はそれを振り払うように頭を振った。
「もういいや、掃除して、洗濯物取り込んで、配るまで、それからだ……、」
そうして何も考えずに済むようばたばたといろんな場所を掃除して、乾いた洗濯物を取り込んで、畳んでしまって。
いざ洗濯物を配る段になって、また気が重くなって。
溜め息を吐いた。
それでも仕事は仕事だ。そう自分に言い聞かせて、洗濯物を配りに行くことにした。
そうして洗濯物を届けに行くが、まだ、鴉は部屋に帰ってはいないようで、自然、長屋の奥に近付くにつれて足が重くなるのを感じた。
はぁ……。
一つ息を吐く。
そうしてそっとお妲の部屋の戸を開ける、と。
「おや、銀の字じゃないか」
また、嬉しそうな声でお妲が言った。
「……、お妲姐さん、あの……、洗濯物……、」
もごもごと銀が口を動かすと、また、お妲の後ろから舌打ちが聞こえる。
「おい、銀、」
鬱陶しいもん置いていきよってからに。
鴉が不機嫌そうに言うので、恐る恐るそちらに目を向ける、と。
そこにはばっさり髪の短くなった、紀伊がいた。
腰ほどあったそれは、肩を少し過ぎる程度になっていて、しかも綺麗に梳かされているだけでなく、髪には編み込みまでしてあった。
そのあまりの変わりように銀が口をあんぐり開けていると、お妲は嬉しそうに口を開く。
「ねぇ、本当、鴉の字は手が器用だねぇ、お紀伊、可愛くなったじゃないか」
くすくす笑いながら、お妲は紀伊を撫でてやる。するといつものように、嬉しそうにごろごろと喉を鳴らすもんだから、銀は苦笑いを漏らした。
するとまた、鴉が舌打ちをする。
そしてすくっと立ち上がると、俺はこれを見せびらかしてくる、と、戸の外へと紀伊を引っ張っていった。
そしてすれ違い様、
「まぁ、気張りぃさ」
こつん、銀の頭を軽く叩いて言うもんだから、銀はきょとんとして、そのまま鴉と紀伊の後ろ姿を見つめる他なかった。
「ふふふっ、銀の字は本当、可愛いねぇ……、」
「はぁあああぁ!?」
そうして擦り寄るお妲に動揺する銀の姿を、鴉と紀伊が、知る由もなく。




「だいたい何で俺がこんな」
言いながら鴉は紀伊を引っ張っていく。
そうして暫く引っ張ってって、紀伊を銀の部屋へと無理矢理押し戻すと、念を押すように、
「銀は頼りにならんから、これからは自分で髪梳きよし」
と、吐き捨てるように言ってから、懐からお妲に貸してもらったブラシを、投げて寄越した。
「髪ぼさぼさにして寄ってきても、相手にせぇへんぞ」
そう言って部屋から離れていった鴉の後ろで、紀伊は嬉しそうになぁーなぁー鳴きながらブラシを玩んでいた。


続く






「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【濡れ鴉の話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年07月05日投稿。




※子育て関係ありません
※リクエストで「鴉」と「梅雨明け」を目指しました(むしろ梅雨じゃないかというツッコミはなしで/爆)











濡れ鴉の話

2020年05月04日

「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【お仙と夏の甘い匂いのお話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年06月05日投稿。




※子育て関係ありません
※リクエスト「仙様」で「夏の匂い」を目指しました
※「仙様」で「夏の匂い」を、目指しました(大事なことなので二回/爆)











お仙と夏の甘い匂いのお話

【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【番外編/佐之助の話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月31日投稿。




最近、一座の幼いもんが集まって遊ぶようになった。
とは言え、一座の幼いもんといっても長く生きてる妖しの類なので、本当に幼いのは、紀伊ぐらいなのだが。
そしてそれに手を焼いているのが、鴉であった。
「あっち行きぃさ」
ぞろぞろとついてくる幼子達に苛立ちを隠しもせずに言うと、一瞬三人とも歩みを止めはするが、鴉が歩き始めるとまたくっついて歩いてくるもんだから、鴉はいい加減うんざりしていた。
かなんわぁ。
心の中で憎々しげに吐いてから、舌打ちをする。
すると、やっぱり一瞬三人とも歩みを止め、でもやっぱりすぐにくっついてくる。
何が鬱陶しいって、お愁以外口をきかないことだ。
何も言わずにぽてぽてぽてと。
いや、そのお愁でさえ、特に喋りもしないのだから、余計、鴉の苛々を助長した。
そもそも何で俺が……、
鴉の不運は、今朝起きた時から始まっていた。




「おい、鴉、」
「なんや」
嫌な予感はしていた。
朝いつものようにゆっくり顔を洗っていると、いつの間にか隣に来ていた銀が声を掛けてきた。
「そういえば座長がお前に買い出……、」
「お前が行きよし。外は嫌いなんだわ」
「……、分かったよ、じゃあお紀伊の世……、」
「そんなんお愁や佐之助にさせときなはれ。俺は、餓鬼は嫌いなんだわ」
銀の声に嫌な予感しかしなかったもんで、早々に話を切り上げて、自分の部屋へと引っ込んだ。そう、その後、事件は起きた。
鴉が何の気なしに部屋の外に出ると、珍しいことに佐之助が立っていた。
「なんやの」
鴉がそう言って佐之助の頭を撫でてやると、そう、来たのだ、お愁と紀伊が、ぞろぞろと。
そこから悲劇が始まった。
佐之助に引っ張られ、木の上に引っ掛かった羽子板の羽根を取ってやったところまではまぁよしとしよう。何でこんなデカいもさもさ木の下で羽子板やっとんのや、というツッコミもしないようにしよう。
「じゃあ、今度は引っ掛けんように遊び」
言いながら鴉は木から飛び降り、埃を払うように着物を叩いた。
「じゃあな」
言って、その場から離れようとすると、ぽてぽてぽて、紀伊の奴がついてきやがった。
鴉は溜め息を吐きながらも気付かないふりで歩き続けた。そしたらどうだ、佐之助もお愁もついてきて。あろうことか先ほどまで遊んでいた羽子板は木の下に放り出している。
だから餓鬼は嫌いなんさ。
鴉は苛立ち、なんとかまこうとぐるぐる敷地内を歩いていたのだが、次第にそれすら面倒になってきた。
そして、今に至る。
そう、まだついてきているのだ。




佐之助は四尺ほどの童だ。口は聞けないがなかなかに感情表現が豊かで、何より寂しがりが手伝ってか、面倒見が良かった。
いや、訂正しよう。
佐之助は、普段は、四尺ほどの、童だ。
しかしその実、大人の姿になると鴉よりも背が高いのだ。つまりそれは、この一座で一番高いことを意味している。鴉はだいたい六尺越えで、それより半尺足らず高いのだから、だいぶ背が高い。
佐之助を見つけたのは鴉であった。お妲が三味線を欲しい欲しいとねだるので、仙次郎と三人で見に街を歩いていた時のことだ。古物屋の前を通りがかった時、そいつはそこにいた。
ぼろになった三味線、叩きに撥痕が広がり、かろうじて残っている弦も擦りきれていた。元の持ち主がどれだけ熱心に三味線を弾いていたのだろうと思わせるに十分な代物だった。
聞いてみると、どうやらこれは昔この辺りにあった遊び女の物だったらしい。
昼は三味線を弾いて謳い、夜は男の中で歌う。
そんな彼女がやがて引かれ幸せな家庭を持ってからも、ずっとずっと大切にされていたもの、だそうだ。
だからか。
鴉は合点がいった。
元来九十九とはそういうものだ。まぁ、実際に見たのはこれが初めてだったが。
暗い暗い部屋の中、三味線の横でうずくまっている。
そんなの嫌やなぁ、お前も。
そうして仙次郎に引き取らせた。もちろんお妲は、お古は嫌だ新しいのが欲しいだと駄々こねるので新しいものを買いもしたが、こうして佐之助は一座にやってきたのだ。
ある日、鴉は苛立ちながら言った。
「そんなデカい図体で掻きついてこんといてや。腰いわしたらどないしてくれんの」
自分が連れてきておいてなんだが、鴉は佐之助が気に食わなかった。口はきけないし、自分より大きいくせにぽてぽて子鴨のように後をついてくるし、掻きついてくるし。餓鬼か、と。
「そんな童みたいなことするんやったら、童になりよし!」
苛々しながら言って、すぐにまずい、と、思った。
その瞬間、ぱぁあああぁ、と表情を輝かせたかと思うと、佐之助はするする小さくなって、童になってしまった。
そしてまた、掻きついてくる。
違う、そうやない。
鴉は溜め息を吐いた。
この餓鬼が、と。




「あっち行きぃさ」
鴉は別に佐之助が嫌いなわけではない。お愁も嫌いではないし、紀伊も、嫌いではない。餓鬼が、嫌いなのだ。
鴉がしっしと三人を手で払うと、三人とも何も言わずに寂しそうな目をしてくるもんだから、何だかこっちが悪いかのような錯覚にすら陥る。
「そもそも何でついてくんだ」
鴉が言うと、やっとお愁が口を開いた。
「お紀伊ちゃん、鴉の字のことが好きなのよ。一緒に遊んでちょうだい」
すると紀伊も、遊んでと催促するかのようになぁー、なぁー、と鳴く。
鴉は頭を掻いた。
「俺は羽子板なんかせぇへんぞ」
「羽子板じゃなくていいのよ」
「餓鬼の世話は嫌いなんだわ、知っとるやろが」
だいたい遊ぶって何しろって言うんだよ。
鴉は舌打ちする。
すると、紀伊ではなく佐之助が悲しそうな寂しそうな顔をするもんだから、何だかバツが悪くなって、鴉は顔を背けた。
実は鴉は、佐之助の寂しそうな顔に弱いのだった。
佐之助は口がきけない分、ころころと表情を変えて意思表示をする。だから自然と佐之助といる時は佐之助の表情を伺う癖がついているし、何より鴉は佐之助が嫌いなわけではないのだ。そもそもここに連れてきた張本人だ、佐之助に弱いのは仕方ないのである。
「あー、うん、ちょっとだけだぞ……?」
鴉は言う。
すると三人はぱぁあああぁっと顔を輝かせた。
そして佐之助がお愁をおんぶなんてし始めるもんだから、鴉は紀伊をおんぶすることになったりして、内心悪態を吐きながら、そのまま夕日が暮れて紀伊が背中で寝てしまうまで遊んでやる羽目になったのは、この四人だけの秘密の話である。




夜、皆で集まっての夕餉が終わると、銀が紀伊を引っ張って早々に部屋に戻っていった。紀伊が目を擦っていたところを見ると、あいつ、人で散々遊びやがって自分はおねむですぐねんねかい、と苛立ったが、今更言う宛もない。
仕方ないので鴉は、舌打ちだけくれてやって、自分も部屋へと足を進めた。
すると、とたたたたたっ、何かが後ろから走ってくる音がする。
そしてむぐっと腰に掻きついてくるもんだから、すぐにそれが何か判った。そう、佐之助だ。
「何や、もう部屋帰るし、放さんかい」
鴉が言う。すると案外あっけなく手がほどけた。
そしてすぐに目の前に佐之助が現れると、背中に自身の三味線を背負って、にこにこと、鴉に手を差し出した。
あぁ、そうけ。
ふっと鴉の顔が綻んだ。
「そやねぇ、久しぶりに何曲か、子守唄代わりに弾いてもらおかね」
そう言って鴉が佐之助の頭を撫でてやると、佐之助は嬉しそうに息を漏らした後、するするすると、大きな大人の姿になった。
そうして鴉を引っ張って、鴉の部屋まで行って部屋の片隅に陣取ると、胡座を掻いて嬉しそうに撥を叩くもんだから、鴉も何だか嬉しくなって、眠気がくるまで、ずっとずっと、その音色に耳を傾けるのであった。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【番外編/お仙の話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月25日投稿。




お妲はお仙が大好きだった。
小さな頃から一緒にいたし、ずっとずっと一緒だった。
種族もなんもかも越えて、性別なんてどうでもよくて、愛欲だとかそんなもの通り越して、ただただ、お仙の存在が、大好きで大好きで大好きで、愛おしかった。
だからもうずっと、今度は何があってもお仙の傍で生きるんだと決めた。
それはきっと、一座の他のものも同じ。
お仙は、皆に愛されるべくしてここにいる、そんな存在だったのだ。




朝、いつもなら、日が十分に上りきった頃に仙次郎はやっと目を覚ます。それがどうしたことか、今日は早くに目が覚めたので、そのまま仙次郎は布団の中で伸びをする。
そして暫くぼけっとした後やっと、気怠げに身体を起こすのだった。
おはよう、太郎、
心の中で言いながら、仙次郎は枕元に置いた鞠と煙管を優しく撫でる。
それが、仙次郎の一日の始まりだった。
仙次郎率いる妖怪一座のあるここは、元は遊び女達の廓であった。遊び女達の住む長屋で、時は昔、一時はお妲が住んでいた場所でもあった。女達はここで身支度をし、廓へと足を運ぶ、それを、お妲は一人家を出て、二十数年続けていたのだ。
寂しさに耐えられなかったのは、自分の方だった。
だからお妲を無理矢理故郷に連れ去って、酷いことをしたなと、今になって思う。明治が終わる頃、再び訪れたここは荒れ果てていて、お妲はたいそう寂しがっていたものだ。
だからこそ、仙次郎はお妲のためにここを妖怪一座として立て直した。
長屋はそのまま皆の部屋としてあてがい、廓は中を改装して小さな舞台にした。
全部全部、お妲のためにやったんだから、自分の幼なじみへの甘さには、自分で呆れてしまう。
そう、ぼんやり懐古に浸ってから、はだけた胸をぼりぼりと掻きながら仙次郎は立ち上がった。
そして鏡台の前に行き、肩を少し過ぎたぐらいの黒髪を、ゆったりゆったり、つげの櫛でとかし始めた。
寝起きで乱れた髪が徐々にさらさらとほぐれる頃、軽く団子にしてから、今度は顔を作り出す。
白粉を薄く、頬から鼻筋、そして額にあてがって、ゆっくりゆっくり伸ばしていく。紅(べに)は二色、今日は紅(くれない)を乗せようか、それとも紫紺に染めてしまおうか。
貝を手に取り、お仙は暫く悩んだ後、中指でつうぅと紅(べに)を掬い、紫紺を唇に乗せていった。
さて。
お仙はいつも、顔を作ってから着物を着る質だった。特に理由はないのだが、顔を作ることで、自身が仙次郎からお仙と変わる実感が湧くからかもしれない。
今日は何を着るかねぇ。
特に何を着るでもよいのだ。基本的に、お仙自身は興業に出ることもなければ、裏方もしない。一日中縁側でゆったり構えて、誰かが尋ねてきたり助けを求めてきた時だけ、出ればいい。だから、何を着ようが構いやしないのだ。
それでも着物に想いを寄せるのは、お仙の中にあるおなごの心が、そうさせているのかもしれない。
お仙は衣装棚から黒に菖蒲の着物を出すと、襦袢を着、山吹の半襟を仕込ませると、黒にそっと袖を通した。
そうして、お仙はお仙として、出来上がるのである。




お妲はたいそう多くの反物を持っていた。
遊び女時代の名残である。
多くの男がこれに袖を通してくれと貢いで寄越したが、全てが全てを仕立てられるはずもなく、そのままにしているものの方が多いほどである。
対して、お仙はさして物を持っている方ではなかった。
着物も普段使いが四、五着と、振袖が一つ。化粧の道具も、蒔絵細工の小さな文箱に貝の紅が二色と、白粉だけ。他には、鞠と煙管、そしてささやかながらの茶道具と、白磁器の一輪挿し。それだけだった。
そしてそれらは全て、昔お仙を飼ってくれていた太郎の遺した、大事な大事な形見であった。
着物などは、お妲と揃いが欲しいとねだった物もあるが、他は太郎がお仙のためにと買い与えたものだった。
太郎はたいそう、お仙を気に入っていた。
「お仙、珍しいねぇ、」
後ろから声が掛かって、お仙は振り向いた。そこにはいつもどおりのゆったりした面持ちで、お妲が立っていた。
目が合うや否や、お妲はお仙に抱き着いてくる。
いつものことだ。
そう、何にも変わらない。小さい頃から何にも。
「おはようさん、お妲」
「おはようねぇ、お仙」
二人は名もない頃からの仲だった。
親は誰とも知らない。気がつきゃ捨てられ、山でも人里でも生きていかれないから、二人、初めて出会った時からずっと、協力して生きようねと約束していた。
まぁそんな些細な約束はさっさと消えてしまったわけだが、何度か離れた後にこうしてまた一緒にいるのだから、面白い話である。
そうしていつもどおり二人で抱き合っていると、からんからんからんっ、いきなり近くで手桶が落ちる音がするもんだから、二人は音の方に目を向ける。
そこには、口をあんぐり開けた銀と、何も考えてなさそうに突っ立っている紀伊。手桶を落としたのは、どうやら銀のようだ。
そのまま銀が固まっている隣を、鴉がそのまますり抜けていって、
「いつものことだろ」
と吐き捨てて行くので、ハッとして銀は手桶を拾って、紀伊の手を無理矢理取って、おじゃましましたっ、と、わけのわからないことを口走りながら、そのまま風呂場に駆けて行った。
そんな後ろ姿を見送りながら、
「銀の字可愛いねぇ、」
と、嬉しそうにお妲が言うもんだから、本当に救えないねこの子は、と、お仙は苦笑いを漏らした。




廓座は一日に二度、妖怪による興業を行っていた。
蛇女や河童といった如何にも妖怪の出で立ちの者から、お妲のように完全に人に化けられる者から。昼の部は河童の傘回しから始まり、夜の部は蛇女が客席後ろから現れる。そして中身がいろいろその時々で変わり、最後はお妲の三味線で締める。そんな感じだった。
しかし、興業内容にはほとんど関わらないのがお仙の立ち位置だった。
いくらで券を売るやら何処ぞで地方公演だなどを取り決め、帳面をつける。帳面つけの金勘定はお仙の大好きな分野だ。暇があれば猫の姿で券売所に座り、券を買いに来た客達に幸運を呼ぶ猫又だなどとの名目で撫でてもらうのが趣味だった。
そう、あくまで趣味だった。
いつだったか銀が聞いてきたことがある。
「座長、あそこで何やってるんですか?」
どんな人間が俺達妖怪を見に来てるか確かめてるんですか?
それを聞いてつい大笑いしたものだ。
「いいや、人間に撫でてもらうのは気持ちいいだろう?」
「は?」
「誰だって、優しく撫でられるのは嬉しいだろう、だからだよ」
そう返すと、唖然とした顔で口を開けて、何も言わなくなったっけ。
でも、それが本当の答えだった。
そもそもお仙は、裏で支えたい性分なのだ。だから前に出るのは嫌なのだ。
だから、一座の者に頼られれば頭も捻るし力も貸す。元々誰よりも妖力が強いもんだから、それが誰かのためになるなら喜んで使いたいのだ。そして、いつもお節介。
紀伊を預かった時、これはいい機会だと思った。
銀はどこかここに馴染めないところがある。輪の中にいても、何故か不意に何処かに行ってしまいそうな目をする。馴染んだようでいて、ここが大切だと言っておいて、ここが大切だと思っておいて、不意に何処かに行ってしまいそうな……。
お仙は思う。
本当に自分はお妲にとことん甘いんだから、と。
新しい存在を自分で育てることで、その存在と一緒に、もっとここに寄り添ってもらえたら、それがお仙が銀に禍因を託した本当の理由だった。
子育てならもっと適任がいる。棗は赤子が好きだし、鴉は何だかんだで面倒見がいい。しつけだって彦爺に頼んだ方が賢い子になるだろう。実際、銀が育てて数週間、未だにあの子は言葉すら覚えてない。銀には向いてない。そんなことは最初から判りきっていたことだ。
「お紀伊をきっかけに、銀の字がここを、本当に自分の居場所だと思ってくれたらねぇ……、」
そう思うと、本当に自分はお節介が過ぎるんだからと、苦い笑いが漏れるのだった。




「お仙、これ見ておくれよ」
夕餉も終わり、さて庭でも眺めながら煙管を燻らせようかと思って広間を後にすると、すぐにお妲が追ってきた。
「?」
一瞬、お妲が何を言っているのか判らず顔をしかめる。そしてすぐに、あぁ、と気付いて髪を撫でてやった。そう、小さな花冠のついたその髪を。
「どうしたんだい?」
「お紀伊がくれたのさ。銀の字が洗濯の合間に教えたみたいでねぇ」
嬉しそうにお妲が言うので、つい、お仙の顔も綻んだ。
「お紀伊、あの子教えたらなんでもできるんじゃないのかい? あぁ、いつか三味線を教えてやりたいねぇ!」
「そうだねぇ……、でも今のままじゃあ、銀に似て家事ばっかな子になっちまうから、そうなる前に教えておやり」
楽しそうに笑うお妲に言うと、そうだねぇ、と嬉しそうに返すもんだから、つい愛おしくなって、お仙はお妲を抱きしめてやった。
身長こそお妲に及びはしないが、その強い腕は、おなごの恰好をしていてもやはり、お妲を安心させるに足るものだった。だからお妲は甘えてしまう。その力強さに。
「お仙……、」
銀の字もこれぐらい抱きしめてくれたらねぇ、
そう、お妲が言葉を続けようとしたその時、からんからんからんからんっ、今朝方聞いたような音がまた響いて。
お仙とお妲が同時に音の方を見ると、今度は銀だけでなく紀伊まで手桶を落としてあんぐり口を開けている。
「銀の字……、」
そう、お妲が声を掛けようとする一足早く、
「おっ、お紀伊はまだ子供なんだからそういうのは部屋でお願いしますっ!」
泣きそうな声で言いながら、紀伊の手をまた無理矢理引っ張って、銀は風呂場に駆けて行った。
その後ろ姿を見送りながら。
「本当に、世話が焼けるねぇ」
そう言って二つの手桶を拾うと、お仙はお妲におやすみを告げて、風呂場にそれを持っていってやるのだった。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【四夜目】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月22日投稿。




「なぁに、お紀伊ちゃん」
紀伊がじっと見つめてくるので、お愁は首を傾げた。
すると、ぐっと着物の裾を握って、なぁー、なぁー、と声をあげた。
「なぁに? お着物、欲しいの?」
こくこくこく。
お愁の言葉に、紀伊は思いっきり頷いた。それを見て、お愁はにっこりと笑う。
お愁は、ずっとこの長屋に住んでいる小さな童女である。肩までの髪の一部を三つ編みして、きらきら飾り紐で結わえている、どこにでもいそうな童女だ。身体は僅か三尺余りしかなく、紀伊よりも少し小さく見えるぐらいである。二人にさして差はないのだが、やはり紀伊は角がある分お愁より大きく見えるのだ。
お愁は自分の着物を見た。赤に桔梗の入った、可愛らしい着物だ。
座長がここを買い取ってくれた時、これからお世話になるねとくれた、上物の着物だ。
大好きな座長に貰ったものだから、それだけでも嬉しゅうて嬉しゅうて、お愁はとても大切に着ていた。
そんな着物が、お紀伊ちゃんも欲しいのね。
そう思うとお愁は嬉しくなって、紀伊の頭を撫でて言った。
「お兄ちゃんに頼んでみようか」
すると紀伊は嬉しそうににこにこして、それからぎゅっとお愁に抱き着いた。それを優しく撫で撫でしてから、お愁は紀伊の手を取って、ぽてぽてと離れへと歩いていった。
離れに着くと、普段は茶室の中にいるか縁側でひなたぼっこをしている座長が、今日は珍しく離れの前で煙管を燻らせていた。
「あぁ、お愁、お紀伊、どうしたんだい」
言うと、座長は優しくお愁の頭を撫でてやった。
それにお愁が嬉しそうに目を閉じるのを見て、紀伊も座長をじっと見る。すると、今度はその手が紀伊の頭を撫でるので、紀伊は嬉しそうに喉をごろごろと鳴らした。
「お紀伊ちゃん、お兄ちゃんみたいね、ごろごろごろごろ、可愛い」
お愁は嬉しそうに笑った。
「さて、二人とも、どうしたんだい?」
そんなお愁をもう一度撫でてやってから、座長は尋ねた。
すると、紀伊はお愁の着物を引っ張って、じっと座長の顔を見る。
それに少し首を傾げて、
「ん、どした?」
座長はもう一度尋ねた。
すると、やっぱり紀伊は同じように着物を引っ張って自分を見るもんだから、座長は困ったように苦笑いを浮かべた。
それを見てお愁は、口を挟む。
「お兄ちゃん、お紀伊ちゃんね、お着物が欲しいみたいなの」
「着物?」
お愁は自分の着物を広げて見せた。
「お紀伊ちゃんも、お着物が着たいみたいなの」
「はぁ……、」
すると座長は困ったように腕を組んだ。
「着物、ねぇ……、」
そして溜め息を吐くと、紀伊をまじまじと見つめる。
「つまりあれかい、反物のお召しを着たいってことかい」
座長がぽつりと言うと、紀伊はこくこくと頷いて、またお愁の着物を引っ張った。
お愁は上目遣いで座長を見る。
「お兄ちゃん、お着物買ってあげて」
すると座長はもう一度溜め息を吐き、こつんとお愁の頭に拳を置いた。
「お愁、この子はお前と違って成長途中なんだよ。だから上物の着物を買ってやっても、すぐに着れなくなっちまうんだ。それに……、」
言い掛けて、口を閉ざす。
それにね、お愁、この子はまだ性別がないんだよ。
銀に育てさせて銀と一緒に風呂に入って、そんなこの子は、きっとそのうち男の容姿をとるだろう。自分が言うのもなんだが、そんなこの子が童女の恰好を、ねぇ……。
そう思うと先が憂えて、また、自然と溜め息が出た。
すると、お愁も紀伊も同じようにしょぼくれた目をするもんだから、また、溜め息が出る。
「そうさねぇ……、」
「お兄ちゃん……、」
まぁ、したい恰好をすることに反対はできないさね。
あまりにしょげる二人が可愛らしいもんだから、座長は肩を竦めた。
お古でよければ用意してやれんこともないか。
そう考え直すと、
「うっし、何とかしたら。おいで」
もうすっかり煙の落ちた煙管の屑を捨て、それを懐にしまった。
「じゃあ、ちょっと見に行ってみようかね。見るだけだよ、今日見て、どうしても欲しけりゃ、これからちゃんと手伝いを頑張るんだ、そうしたら、お前の頑張りによっては、買ってやらんでないよ」
言って、座長はまた、紀伊の頭を撫でてやった。
すると二人が顔を見合わせあまりに嬉しそうに笑うもんだから、座長は、まぁ、たまにはいいかと苦笑いを浮かべるのだった。
さて、どこぞ行こうかね。
そう思って、ふと、紀伊を見る。
あぁ、これじゃあ、外には出せないねぇ……。
座長は溜め息を吐いた。
そう、ここに来てから二週ばかりになるのに、紀伊は来たときのまんま、青肌に角と、誰から見ても鬼子の姿なのである。感情表現こそ多くはなったものの、喋ったりもしないし、このままじゃ、外に出ても人に忌まれるだけである。
「お紀伊、外に行くにはそのまんまじゃあ、ダメだ」
「なぁ?」
紀伊は不安そうに座長を見る。
そんな紀伊に、座長はお愁をぽんぽんと叩いて見せる。
「人の容姿になれなきゃ、外には出られないんだよ、お紀伊」
人とはね、そう、お愁みたいに角がないんだ。肌だって、お愁と同じ色なんだよ。
「お前、人に化けられるだろう。外に出るときは、お愁みたいにならなけりゃいけない。ほら、やってごらん」
紀伊はお愁を見つめた。
そんな紀伊を見て、お愁も言う。
「お紀伊ちゃん、お角、ないないよ、ないない」
お愁が自分の頭を叩いてしめすので、紀伊も自分の頭に手をおいて、角をぽんぽん触ってみた。
確かに、これはお愁にはないものだ。
なぁー、なぁー。
紀伊は目を瞑って、頭をぽんぽん叩いてみる。
すると、するすると角が小さくなって、しまいには本当に消えてしまったもんだから、これにはさすがに座長も驚いた。
なぁー、なぁー。
そして次には、肌の色も、お愁のように人と同じそれになって、しまいには髪も真っ黒に変えてしまったもんだから、感心して頭を撫でてやった。
「お紀伊、やればできるじゃないか」
すごいねぇ、こんな変化が、ちょいと教えただけで出来ちまうなんて。よくもまぁこんなものを作れるもんだよ、あれは。
座長はまじまじ紀伊を見つめながら思った。
そんな紀伊を見てお愁もはしゃぐ。
「お紀伊ちゃん、私たち、お揃いね」
そんなお愁を見て、紀伊も、嬉しそうになぁーなぁー鳴いた。
そんな二人を見て、ならまぁいっかと肩を竦め、
「じゃ、遅れないようについて来るんだよ」
と、先々歩き出した。
それを見て、お愁と紀伊も、嬉しそうに手を繋いでついていった。
そうして外に出て、三人いろいろ呉服を見て回ったが、やっぱり童用の上物の着物なんて、今時分どこに行っても見当たらない。
「小さい子も最近は洋装をすることが多いからねぇ」
呉服はめっぽう売れいきも悪くなったから、童女用の小さな反物は仕入れなくなったんでさぁ。
言われて、お愁も紀伊もまた、しょぼくれた。
当の座長はというと、まぁそんなもんだろうと鼻を鳴らして、じゃ、他を当たるよとそのまま店を後にするもんだから、お愁も紀伊も仕方なく、ぽてぽてとついて歩いていくしかなかった。
何軒か回った後、座長はふと立ち止まる。
急に立ち止まったりするもんだから、紀伊はそのままぶつかってしまい、なぁーなぁーと抗議の声を上げた。
すると座長は一軒の店を指差した。
「蜜豆だ、あそこのは美味しいんだ、どれ、ちょっと休んで行くかね」
そう言って二人の手を取って、座長は甘味屋ののれんをくぐった。
「主人、蜜豆三つ、」
座長は言いながら近場に腰を据える。
それに倣って二人も座長の前に腰掛けると、そわそわと辺りを見回しながら蜜豆を待つものだから、つい、座長の顔も綻んだ。
「いやぁ、驚いた。そらお仙さんの子供かい?」
暫くしてから蜜豆を運んできた若い男が、吃驚して声を掛ける。
それを聞いて、お仙は、くすくすと笑った。
「いややわぁ、文治郎はん、私にそんな宛があるわけないでっしゃろう?」
一座で預かってる子です、そう言うと、文治郎と呼ばれたその男は慌てて顔を真っ赤にし、いやぁそうですよね安心しました、と、わけの分からないことを呟いて店の奥に引っ込んでいった。
それを見てお愁はぽつり、
「お兄ちゃんって本当に……、」
と言って肩を竦めてみせた。
それにまたくすくすと笑いながら座長は、蜜豆美味しいねぇと優雅に口に運ぶもんだから、お愁もそれ以上は言わないことにしておいた。
そうして蜜豆を食べ終わる頃、座長は言う。
「さてね、これだけ歩いてもう見つからなかったからね、今日はもうお開きさね」
その言葉にお愁も紀伊もまたしょぼくれるけれど、座長はくすくすと笑って言った。
「お紀伊、せいぜい頑張って銀の字の手伝いをしてやんな。お前の頑張りによっては特注で仕立ててやるから」
そうしてすくっと立ち上がると、座長はまた先々行くもんだから、お紀伊ちゃん、お着物はまた今度だね、と、お愁は紀伊の手を引いて、座長に続いて、ぽてぽてと家路についたのだった。




「お仙、どこ行ってたんだい」
長屋にお愁と紀伊を送っていざ離れに戻ろうとすると、お妲が嬉しそうに抱き着いてきた。
本当に気儘に何処かに行っちまうんだから、寂しいったらないねとお妲があまりにもじゃれるので、お仙は肩を竦めて言った。
「お紀伊が着物が欲しいって言うもんだからね、ちょいと街を歩いてきたんだが、良いものは見つからなくてねぇ」
疲れ損だよ。
言うと、お妲はきょとんとした目でお仙を見つめる。
「着物? なんだいそんなもの、アタシのお古でよければなんぼだって紐解いてやったのに! 馬鹿だねぇ、お仙」
それを聞いて、お仙は口をあんぐりと開けた。
そんなお仙を見てお妲はくすくすと笑い、まぁたまには散歩もいいもんじゃないかと言うもんだから、お仙も肩を竦めて、そうさね、と返すしか出来なかった。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【番外編/鴉の話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月21日投稿。




鴉は人であった。
幼少のみぎりに幕末の動乱で父母を亡くし、そこを天狗に拾われ、人であることを辞めた。少年と呼ばれる年の瀬に天狗道の修行を始め、それでも数年、そうして天狗となった頃には二十歳を越えていた。
元の名前は誰も知らなかった。
だから、鴉は鴉と名乗っていた。
誰にも自分を、知られぬように。




朝日が顔を焼く頃、鴉は目を覚ます。
何度か布団の中でごろごろ寝返りを打ってから、鴉は大きく伸びをした。
「眠い……、」
そうして鴉は起き上がると、自慢の黒髪を無造作に団子にし、手拭きを取って風呂場に向かった。
と、その時。
「あー、鴉、おはよー、」
後ろから間延びした声がする。嫌な声だ。そう、銀だ。
鴉は一瞥をくれてやると、何も言わずに風呂場の中へ入っていった。
そして戻ってきた手には、湯の入った手桶が一つ。
鴉は、ぬるま湯で顔を洗うことを日課としていた。
すると、それを見た影が、いきなりすっとんで風呂場に消えていく。
「おいこら、お紀伊!」
慌てて銀が追い掛けるのを気にも止めず、鴉はぬるま湯でゆったりと顔を洗う。
長屋の洗い場は、今の時間こそ日当たりが悪いが、昼過ぎになるとよく日が当たる。鴉はこの場所がたいそう気に入っているので、毎朝ここから一日を始めることに決めていた。
そして、その平穏を毎日のように乱していく、銀とその連れに、辟易していた。
そして、今日も。
どん!
顔を洗ってぼんやりしていた鴉の横に、ふてぶてしい音を立てながら、紀伊が手桶を置いた。
それに不機嫌を顕にして鴉が視線をやると、一丁前に睨み付けてくるもんだから、鴉は不愉快そうに溜め息を吐いた。
「育てた奴に似るもんだな、お前とおんなじ、ふてぶてしい睨み方してくるぜ」
紀伊より少し遅れてやって来た銀に目もくれず、鴉は悪態だけをくれてやると、残った水を手桶から流して立ち上がった。
「おい、ちっこいの、そのまんまだと熱ぃからちゃんと水でぬるま湯にしてから使いぃさ」
それだけ言うと、鴉はその場を後にした。




鴉は、ゆったり生きるのが好きだった。
時間なんて要らない。もうずっとずっと、同じような毎日を続けたい、そう思いながら生きていた。だので一日の大半はぼんやり過ごしていた。慌ただしいのは嫌いだし、叶うなら、必要最低限の会話だけで生きていたいと思っていた。
もちろん、興業なんて煩わしいものはしない。人から天狗に堕ちた身の自身を見世物にするような酔狂な趣味は、生憎持ち合わせていなかった。
ここにいるのだって、仙次郎が今まで通りに生きていい、ただ必要な時だけ力を貸してほしいと言ったからいるだけだ。もっとも、仙次郎が自分の力を無理に使おうなんてしないことは知っているし、たまにひなたぼっこの相手をさせられるぐらいが、せいぜいだ。そんなわけで、鴉はここの暮らしは気に入っていた。
だから、鴉はあの鬼子が気にくわなかった。
育てた奴に似たんだろう、まず、慌ただし過ぎる。あとあの自己主張するように睨む癖。どうしてそういうところばかり銀に似たんだかね。
鴉は溜め息を吐いた。
銀も拾ってやったばかりのころは、そんな目をしてよく自分を睨んでいたものだ。
そんなことをぼんやり考えていたら、何だか眠たくなってきた。
仕方ないので鴉は、仙次郎のところに昼寝でもしに行こうと、自分の部屋を後にした。




どうしてこんなことに……。
くそっ、鴉は心の中で悪態を吐いた。
そうだ、鬼子だ。人が離れに向かっていたら、ふらふら歩いてやってきて、かち合ったが最後、子鴨のごとくついてきやがる。仕方ないので仙次郎のところに行くのを止めて、まいてやろうと意味もなく敷地を徘徊していたら、早足になってまでついてくるもんだから、仕方ないしまくのも面倒臭いしで鴉も諦めた。
「ちっこいの、何か用か」
ないならあっち行きぃさ、銀のところに帰りぃさ。
鴉が言う。と、鬼子は何も言わずに、くっついてきたもんだから、さすがの鴉も吃驚した。
おいっ、離れぇさ!
腰回りにしがみつく小さいのをぐいぐい押し戻すが、なかなか離れない。それどころか、押せば押すほど強くしがみついてくるもんだから、もうどうしようもない。
鴉は諦めた。
しかし、このまま引っ付かせておく気も、さらさらなかった。
鴉は溜め息を吐く。
「餓鬼は嫌いなんだわ」
そう言ってばさりと赤黒い翼を出し、人ならざる力を行使する。びりりりっ、全身に雷が走ったかのような衝撃を受けた鬼子は、吃驚して離れ、その上尻餅をついて倒れた。
それをぼんやり見てから、溜め息を吐き、
「餓鬼は嫌いなんだわ」
もう一度言うと、鴉は翼をばたつかせ、そのまま何処かに飛んで行ってしまった。
そう、尻餅をついたまま、なぁーなぁーと鳴く鬼子を後に残して。




「おい、仙次郎、」
いつものように縁側で鞠を弄びながらごろごろしていると、空から声が聞こえてきた。
それを見て、目を丸くして言葉を返す。
「鴉、お前が飛んでくるなんて珍しいじゃないか。何かあったのかい?」
「何かもくそもねぇよ、あれさ、あの鬼子さ」
「お紀伊かい」
「それさ」
言いながら鴉はゆっくり降り立ち、庭先の腰掛け岩にちょこんと座った。
「なんなん、いきなり掻きついてきたりして。俺は餓鬼は嫌いなんだ」
「お紀伊かい」
「それさ」
そんな鴉を尻目に、仙次郎は鞠を愉しげに弄んでいる。
いつものことだが、何故か今日は気に食わない。
鴉は舌打ちをして、そっぽを向いた。
すると、仙次郎はくすくすと笑って言った。
「気に入られちまったねぇ、可愛がっておやりよ」
「はぁ? 何で俺が気に入られんのさ」
鴉が嫌そうに尋ねると、尚も仙次郎はくすくすと笑う。
「そんなのも判らないのかい。簡単だろう、銀の字がお前を好きだからだよ。無意識に同じものを追い掛けたいのさ」
その言葉に、鴉はうんざりしたように溜め息を吐いた。
何でぇさ、俺は餓鬼は嫌いなんだ。
「お前は子供に好かれるからねぇ……、」
愉しそうにごろごろ喉を鳴らしながら仙次郎が鞠を鴉にやって寄越した。それを片手で受け取ると、それをまた仙次郎に返してやる。寝転がったまま仙次郎がそれを受け取ると、また、鴉は溜め息を吐いた。
「鴉、可愛がっておやりよ」
「何で俺が……、」
そもそもあの餓鬼はお前が引き受けたんじゃねぇか。
悪態を声にしないまま、鴉はまた舌打ちをした。
そんな鴉を見て、仙次郎は苦笑いを隠しきれなかった。
お前のそういうところが、銀もお紀伊も気に入ってるんじゃないか、ねぇ、と。




「鴉、おい鴉!」
またか。
鴉は溜め息を吐く。
そしてそっぽを向いたまま、煩わしそうに手を振った。
「なんだよ、何でそんな不機嫌なんだよ」
寂しそうに銀が言うのに一瞥をくれてやってから、またそっぽを向いて、鴉は言った。
「餓鬼に付き合ってやるほど暇じゃない」
「なんだそれ」
言いながらも銀は、洗濯物を脇に置くと、鴉の横に腰掛けた。
見てみると、鴉は自慢の簪を並べて弄んでいる。
「お前暇なんじゃん!」
銀は頬を膨らませて言った。
「なんさ」
「いや、部屋でお紀伊がねんねしてて部屋じゃ畳めないんだよ」
言いながらも、せっせと勝手に人の部屋で畳み始めるもんだから、鴉は顔をしかめて銀を見た。が、銀はもちろん動じることもなく、それどころか口をぺちゃくちゃ動かしながらどんどん洗濯を畳んでいる。本当に、図太い餓鬼だ。
鴉は目の前の簪を億劫そうに端にやると、銀の持ってきた洗濯物に手を伸ばし、ごそごそ自分の着物だけを抜き取って、しまった。
それを見て銀がまた頬を膨らませる。
「手伝ってくれるんじゃないのかよ」
「誰が。これはお前の仕事だろ」
そう言って鴉は横になると、大きく伸びをした。
「んで?」
すると銀は嬉しそうに話を続ける。
「っていうかお紀伊寝てばっかなんだけど、あれ誰に似たんだろな」
「仙次郎」
「……、」
「んで?」
「そういえばお紀伊さ、やっと洗濯干せるようになったんだよ」
「あっそ」
「……、」
「んで?」
「ただ取り込む時に引っ張るのは止めてほしいよな、何回か言ってるんだけどさぁ」
「ふーん」
そんな感じで。
いつもどおりに銀が言いながらそれをただ聞くだけ。それが二人の、ちょうどいい距離だった。なんだかんだで鴉は銀を拒んだりしない。
そして銀は、鴉のそういう自分本位なところは、嫌いじゃなかった。
「しっかし、お紀伊の世話はやればやるほどどうしようもなくて疲れるんだけど」
「ま、気張りぃ。言っておくが俺は、手伝わんからな」
「誰も鴉に手伝ってくれなんて言ってないし。と、」
話もそこそこに銀は立ち上がると、畳み終わった洗濯物を抱えて、じゃあ配ってくる、と、鴉の部屋を後にした。
そんな銀の後ろ姿を見送ってから、鴉は大きく伸びをして、目を瞑った。
まぁ、気張りぃさ。
もう一度、心の中で声を掛けて。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【三夜目】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月18日投稿。




紀伊を世話し始めてから数日が経った。
堅いものが好きなのかと思ったら何でも食べてしまうらしく、食べるものに関してはお前がちゃんと管理しておやり、と、座長に言われた。もちろん鰹節を盗んだこともバレているようだった。怒られこそしなかったが、次はないよ、と、あの目が語っていた。
そもそもそういうことは早く言ってくれよ思いながら、そういうことなら、と、とりあえず雑炊やうどんといった、安易に食材が手に入るものを作って与えることにした。
今のところ不満の声はない、が、何でも食べるから言わないだけで、やはり一番美味しそうに食べていたのは鰹節のような気もしなくもない。
いやでも勘弁してくれ、座長は普段優しいが本当に怒ると怖いんだ。
そんなこんなで数日世話をしているわけだけど、とりあえず家事を覚えさそうと毎回家事に同行させてみるのだけど、じっと見つめるだけで同じことをしようとしない。
銀はいつも紀伊に話し掛けながら家事をしてみるが、言葉を覚えてくれなくて、声は返ってこない。たまに、子猫のようになぁー、なぁー、と鳴いているけれど。なので、傍から見たら銀は独り言を漏らしながら家事をしているようにしか見えないのである。
もしかしてこのまま何も家事を覚えてくれないんじゃないだろうか。そう思うと、銀の気も自然と重くなり、溜め息しか出なかった。
だが、そんな紀伊にも率先してすることがあった。
布団引きである。
「でも……、」
洗濯物を畳みながら、銀はちらりと横を見る。
「自分が寝たくなったらすぐに布団を引くのは止めてくれないか、お紀伊。見たら判るだろ、洗濯物畳むのには広い場所がいるんだよ」
はぁああああぁ、と、銀はまた溜め息を吐いた。
しかし紀伊は布団を引いて、毛布を抱き締めたまま、ずっと、ずっと、こちらを見ているのである。
そうまるで添い寝を催促するかのように。
「ダメだよ、お紀伊。そもそもお前が手伝ってくれないから時間が掛かるんだ」
銀は憎まれ口を叩いてから、再び洗濯物を畳み始める。総勢二十人弱の廓座の座員達の洗濯は銀の仕事だ。毎日毎日こなしているけれど、さすがにこの人数分一人で洗って干して畳んで部屋に持っていって。
はぁああああぁ、銀は大仰に溜め息を吐いた。
せめてお紀伊がちょっとでも手伝ってくれりゃあなぁ。
そう思いながらまた横目で紀伊を見ると、やっぱり添い寝を催促するかのようにこちらを見たまんまだった。
なぁー、なぁー、なぁー。
銀は顔を逸らす。
ダメだよ、そんな声出したって。
振り払うかのように首を振って、銀は手を動かした。
今は紀伊の相手より、早く洗濯物を畳むことが大切なのだ。
「特にあの鴉の野郎、ちょっと遅れただけでうるさいんだから」
そう言いながら、せっせと洗濯物を畳み出す。と。
なぁー、なぁー、なぁー、なぁー、なぁー。
また、紀伊が鳴き始めた。心なしか、その鳴き声が激しくなっている気がするもんだから、救えない。
はぁああああぁ、
銀は溜め息を吐いた。
「お紀伊、眠いならお前だけ寝ればいいよ。俺はさ、まだ洗濯物畳んで皆の部屋に持ってかないといけないから」
言って銀は紀伊を無理矢理布団に押し倒して、毛布もふんだくり、それを紀伊に掛けてやった。
すると、一丁前にこちらを睨み付けてくるもんだから、それにはさすがにびっくりして、銀は目を丸めた。
こいつ、こんな表情したっけ。
そう思いながらも、
「お紀伊、後で遊んでやるから、ねんねしてな」
睨み付けるその眼に気付かないふりをして、銀は背を向けて、洗濯物を畳むのに集中することにした。
そうして暫くが経った。ようやく全ての洗濯物を畳み終わって、各部屋に持っていくのを紀伊に手伝ってもらおうと振り向いたその時。
ん?
銀は血の気が引くのを感じた。
紀伊が、いないのである。
銀は急いで立ち上がり、
「お紀伊!」
叫びながら部屋を出たところで、冷静になる。
いや、あの眠たがりの紀伊が、わざわざ長屋の外に行くとは考えにくい。行動範囲など、所詮自分が連れて歩いた程度だろう。
そう考えると、銀は部屋に取って返し、洗濯用の大きな煮柳籠に畳んだ洗濯物を詰め込んで、よし、と気合いを入れて持ち上げた。
どうせ洗濯物を配らなきゃいけないのだ、そのうち何処かで紀伊に遭遇するはずだ、と。
そうして銀はあっちこっちそっちへと、どんどん洗濯物を配達していく。
しかし、ほぼ配り終えた時点で、まだ見つからない。
さすがの銀も、少し焦りを覚える。
もしかして外に出たりしていたら……。
昨今、妖怪に対する風当たりは、消していいものではない。我々のように妖怪であることを売りにして興業をやっているものや、人の姿になれるものならまだしも、外を妖怪が彷徨いているなど、見つかりでもしたらどのような目に合うか。
銀はその身をもって重々思い知らされていた。
紀伊はあんな見た目だから、鬼だ鬼だと蔑まれてしまうかもしれない。
そう思うと、手伝いもせずに添い寝を催促してきた紀伊を放ったらかしにしたことを後悔する気持ちが生まれてくるのだから、不思議なものである。
ごめんな。
銀は泣きそうになりながら、残りの部屋へと洗濯物を運んで、とうとう残りは最奥の部屋、お妲の部屋だけになった。
ここにいてくれますように……!
祈るような気持ちで銀は戸を開ける。
が、
「……、」
そこはがらんとしていて、もちろんな話、興業で舞台に立っているであろうお妲の姿もない。
「お紀伊……?」
いや、声を掛けたところで返る言葉があるわけではないのだが。
銀は泣きそうになった。
俺が、俺が構ってやらなかったばっかりに、紀伊が消えてしまった!
銀は、急いで座長の部屋へと走った。こういう時は、座長に頼るしかない。世話をしてやってくれと座長に頼まれておきながら、不注意で紀伊がいなくなってしまって、怒られるもはもちろんそうだろうが、今はそれ以上に紀伊を早く探してやらないとという思いでいっぱいいっぱいだった。
長屋から少し離れたところにあるこじんまりとした茶室の戸を慌ただしく開けると、銀は叫ぶ。
「座長! 座長! もうっ、お仙さんどこにいるんだよぅ!」
いや、分かっている。
部屋にいないなら庭にでも出ているに違いない。
座長は日向ぼっこが好きなのだ。
「お仙さん!」
銀は小さな茶室を抜け、枯れ水を望む縁側へと身を乗り出す。と。
「うるさいねぇ、銀の字。お紀伊が起きちまうだろうが」
襦袢姿の座長が膝枕に紀伊を寝かせてやりながら、不機嫌そうに声を出した。
銀は肩の力が抜けた。そしてへなへなと、その場にへたりこんで。
「おせんさぁあああん」
ぽろぽろと雫を零しながら、安堵の息を漏らした。
それを見て、不機嫌そうな視線を浴びせていた座長も、溜め息を吐く。そして銀の頭を撫でてやった。
「そんな心配するんなら目を離すでないよ」
尚も雫を零しながら、銀はこくこくと頷いた。
「この子ったらここに来るなりアタシを睨み付けて膝に陣取るもんだから、アタシも何も出来やしないし、」
座長はわざとらしく息を吐く。
「しかしこの子は寝てばかりだねぇ。銀の字、お前ちゃんとしつけてやってんのかい」
「……、」
「まぁいいさ。夕餉まで、お前は暫く部屋で休んでな。膳の用意ができる頃に、お紀伊連れて迎えにいくから」
座長の手は大きくて、銀は安心に身体の力が抜けるのを感じた。
そしてぽつり。
「俺もお紀伊とここで寝る」
「は?」
言って、そのまま座長にしがみついた。
不機嫌そうな声は聞かなかったことにして、暫しの間、おやすみなさい。




右には紀伊、左には銀。
お仙は苦々しげに悪態を吐いた。
「お前等なぁ、人を枕と勘違いしやがって」
そう言いながらも銀を撫でてやる手を止めないもんだから、自分もたいがいお人好しが過ぎるな、と、鼻で笑った。
「しかし本当に、アレが寄越しただけあって、一日中寝てばっかとはな。さすがに困るわ。そろそろ調教してやらんとな、なぁ、お紀伊」
お仙のにやりと笑うその顔を見るものは、今は誰もいなかった。


続く






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