2017年11月14日
東海道本線 大船〜戸塚
どうもです。
今回はいつもと少し趣旨を変えて、子供の頃から親しんでいた線路際での日々について書いてみようと思います。
私は子供の頃から割と長期間、国鉄東海道本線(現JR)の大船と戸塚の間辺りに住んでいた関係で、小さい頃から線路際で電車ウォッチングをしておりました。
小さな頃は一人で、小学生の頃になると友人と平日は学校が終わったら夕方まで、日曜日は朝から午前中一杯くらいまで線路側に張り付いて、九州方面からやって来るブルートレインなどを堪能していたんですね。
そんな思い出の中で、一番古い記録としては(自分では覚えていない時代のことなので「記憶」ではなく記録)、3〜4歳の頃に祖母の家へ遊びに来ていた際に(大船の近くに住んでいた・・・過去のブログ昔の話をダラダラと・・・を参照)一人で勝手に線路際へ行って電車を見ていたらしく、居なくなっていることに気が付いた母親が交番に駆け込んだところ、その交番でお巡りさんに保護された自分が座ってアイスを食べていたらしい・・・
小さな子供が一人で線路際に居たので、お巡りさんにまんまと保護されて交番へ連れて来られたようです・・・
当の本人である自分には全く記憶に無い出来事なんだけれど、ただ当時の断片的な記憶では祖母と一緒に電車を見に行っていたのは覚えてるので、道を覚えてある時一人で行っちゃったんでしょうね。
思い立ったら我慢ができない性格は未だに直ってないです(汗)
そんな昔からの電車ウォッチですが、一時期線路から離れた場所に引っ越したために中断する事になります。
幼稚園の年長から小学2年生一杯までは藤沢の片田舎に住んでいたので(過去記事の スーパーカーブームの頃 を参照)その頃は全く鉄道とは縁の無い暮らしでした。
正確には数ヶ月に一度くらいの頻度で藤沢駅近辺に行く事があったので、稀に小田急に乗る機会はあったんですけど、何故か当時の国鉄以外への興味があまり無かったんですね。
まあ、国鉄なら何でも良かったのかといえばそうでもなく、電車ウォッチといいながらもお目当ては貨物列車とか特急列車とかブルートレインなど、非日常的なものへの興味が強かったです。
後年になって、プラレールを卒業してNゲージを始めた際にも、普段見ていた湘南電車や横須賀線の111/113系や根岸線の103系には見向きもせずに貨車とか旧型客車などのほうにばかり興味が向かっていたので、小遣いも少ない事もあって普段は安いトミックスの香港製貨車やローカルな車両ばかり購入していました。
まあ、Nゲージを始めるのは小学生になってからなのですが、その頃には再び横浜に戻ってきていたこともあって以前よりも頻繁に線路際へ出掛けるようになっていました。
再び横浜での生活が始まるわけですが、その頃には新しい友達も出来て、割と家も近かったのと趣味が合うこともあってその友人とは良く遊んでいました。
また、この友人はその後しばらく通う事になる線路際の「いつもの場所」に最初に連れて行ってくれた奴でもあり、子供時代の一番の思い出として今でも鮮明に覚えている事のひとつです。
時期としては昭和54年の半ば頃から数年間の出来事です。
「いつもの場所」は大船から走ってきた根岸線が右へカーブして東海道線と分離していく辺り、昔の有名撮影地だった近辺でしたが、その頃はまだ東海道線と横須賀線の分離運転の前だったので横須賀線が行った後に同じ線を153系が走ってくる、なんていう状況でした。
ちょうどいつも見ていた場所に横須賀線上り方面の高架を作っていて、まだ線路敷設工事の真っ最中でした。
そこは今では当然立ち入り禁止になっていますが、その頃はまだ柵の前が空き地で自由に出入りが出来ました。
電車を見に行くということが特別な出来事ではなく、平日午後の普段の遊びのひとつとして当たり前の事でした。
しかしまだ子供なので門限が厳しく、当時は17時までに帰らないといけなかったんですね。
そうなると、夕方まで線路際に立って下りのブルートレインを見ようと思っても可能なのはギリギリ「はやぶさ」まででした。
「みずほ」まで見てしまうと5時までには帰宅できなくなってしまうので夕方に堪能するのはそもそも無理のある事だったんです。
それでも気が向くと自転車でやって来ては暗くなるまで線路際で遊んではいましたが・・・
でもやっぱりブルートレインをしっかり見たいということになると朝しかないわけで、自分の子供の頃は今のように土曜日は休みでは無かったですから必然的に日曜の朝しかないわけです。
そうなると話は早く、土曜日の授業の終わりとかに、
「明日ブルトレ見に行かない?」
みたいな話になり、当日は早起きして朝飯も食わずに見に行くんですよ。
うまくいけば「出雲」辺りから見ることが出来て、最後の「さくら」まで堪能すると11時を回っているので、
「腹も減ったし帰ろうか?」
となるのでした。
しかし、子供にとっても朝の早起きはなかなか厳しく、出雲から見ることが出来るのはせいぜい夏休みの期間中くらいで、普段の日曜日は寝坊して滅多に拝めなかったですね。
しかも「瀬戸」にいたっては結局一度もしっかり見ることが出来ませんでした。(通過時刻が朝の5時台なので見るためには4時台には起きなければならずかなり厳しい・・・)
それでも懲りずに何度か頑張って早起きを目指したんですが、たった一度だけ遠くから後姿を拝む事ができた事がありました。
走り去る「瀬戸」のテールマークを遠くに見ながらまだ薄暗い線路際で友人と悔しがったのを、今になって思い出しました。
この頃には線路の反対側(上り側)に跨線橋を渡って見に行くことが増えて、今は無くなってしまった住友電工への引込み線のある場所で、いつも置いてあった入替用の小型DLの脇でよく見ていました。(今ならアウトですね・・・当時も本当は駄目なはずでしたが割りと大目に見てくれていました。)
その友人とは小学校の3年生の後半くらいから6年生の1学期一杯まで一緒に行動していましたが、お父さんの仕事の都合で6年生の夏休みを前に引っ越してしまったんです。
まあその後も交流は続きまして、未だに友人として付き合いがあるのはとても嬉しい事なんですけどね。
今でもその友人は乗り物好きで、プラモデル等も結構な頻度で現在進行形で作り続けてます。
現在は地元の模型クラブに入って活動しているとの事。
当時から自分よりもマメにいろいろな事をやっていまして、ずいぶんと刺激を受けたんですが、こっちは数十年前に買ったプラモデルが箱なんて焼けて黄色くなったまま未だにいくつも押入れに仕舞われていますんで・・・刺激だけ受けて行動が伴わなかったということですね(泣)
・・・実は後に高校生になってから一度しっかり「瀬戸」を見ることが出来ていたようです。
昭和61年にプリントされた「瀬戸」の写真が出てきました。
住友電工の引込み線側で撮影した瀬戸が出てきたので見たことは間違いないのですが、全く覚えていなかったです。
あと、滅多に行く事はなかったのですが、大船駅の下り側には踏切手のいる大踏切があって、そこから見ることもありました。
そこは東海道本線と東海道貨物線のほかに大船電車区へ出入りする線路もあったので、一度職員輸送用に配置されていたクモハ40が通るのを見たことがありました。
情報の無い当時のことだったので、そんな車両がいるとは知らずに感動したのを思い出しました。
その後暫くは運用されていたようでしたが、あるとき大船駅の横須賀線ホームで職員輸送用の茶色い電車を見つけて近寄ったらクモヤ90になっていて凄くがっかりしたということもありました。
まあ、こんな子供時代ではありましたが、残念な事に(?)そのまま中学生になり不健全な思春期を過ごす事になります(笑)
中学になると、中古ではありましたが一眼レフを入手した事もあって、今までとは違い見るだけではなく撮影する機会がぐっと増えました。
この頃は、小学生時代から付き合いのあるもうひとりの友人と同じようなことを続けていました。
その友人とは自転車で大踏切に行ったり、もう少し足を伸ばして国鉄大船工場の裏手まで行き、フェンス越しに中にある車両を見たりしてましたね。
今回いくつか晒している写真は殆ど全て中学生から高校1年生の頃までに大船〜戸塚間の「いつもの場所」の近辺で撮影したものです。
当時のプリントをスキャンしたものなので見れたもんじゃないんですが、まあ若気の至りということで・・・
残念ながら一眼レフでの撮影を始めた頃にはEF58+20系寝台の急行「銀河」やマンモス電機のEH10等は既に無く、貨物列車のメインはEF65で、EF60はかろうじて運用に付いている状態、貨物列車自体も昭和59年の改正でヤード方式が廃止された事により、以前のような雑多な貨車を連結した列車は消滅してしまい、EF66は殆どコンテナ専門な感じで楽しさは半減していました。
EF66がブルートレインの牽引を始めるのはこの後昭和60年の改正後の事ですが、機関車牽引列車も少ないながらもまだ残っていましたし、画一化は進んでいたものの今に比べればまだ良い時代でした。
線路を走る車種のバラエティではカメラを持って撮影するようになる前の時代には敵いませんが、それでも今よりも情報も少なく、今日の臨時列車の牽引機は何だ?などといった情報は一部のマニアしか知り得ないことで、そこまで本気ではない自分はもっとお気楽なスタンスで楽しんでました。
もうあと5年早く生まれていたらもっと色々な車両を撮影できたのに・・・という思いは今でもありますが、この気持ちは今の若い鉄道ファンの人の中にも同じ思いの人はいるでしょうね。
自分より少し上の世代なら、もうあと少し早ければ「青大将つばめ」や151系「こだま」が見れたのに、とか思っているかもしれないですね。
実際には見ているのに、記録には残せなかった車両はたくさんあります。
東海道線に限ってもEH10を筆頭に、EF15、153系、167系修学旅行色、20系寝台(特急時代)、黒貨車色々・・・
見たことはあっても全ては記憶の彼方です。
でも今のファンの方には申し訳ないですが、EF58が東海道線で定期運用を持っていた最後のほうが見れたのは幸いだったかも知れないです。
実際に運用を調べて撮影に行ったりしたのは最後の数年間だけですが、それでも毎日荷物列車を牽引して東海道を上下していたのを子供時代には当たり前のように見ていたのですから今となっては贅沢な事です。
本当にこれで最後・・・ということになった昭和59年の春、各地に散らばっていたゴハチを全て下関に集結させて集中運用をしていたあの時期、毎日学校にコンパクトカメラを持ち込んで、帰りに夕方の荷物列車を撮影していました。
学校から走れば16時近辺にやって来る荷物列車の撮影が出来たことから、最後の約一ヶ月間は毎日学校帰りには小走りで線路際へ向かってました。
あの最後の運用はかなり過酷だったそうで、EF58に故障が続発していたそうですね。
ひどいものだと故障して動けなくなった先でそのまま廃車になった機関車もいたそうで、あまりに故障が多かったので所要数が足りなくなり急遽廃車予定だった他のゴハチを代わりに運用に駆り出したりということも行われたそうです。
その後春のダイヤ改正でEF58は東海道からは引退して臨時運用のみとなり、定期運用は宇都宮所属の東北線と竜華所属の紀勢線のみとなったわけです。
その頃になると休みの日には品川や上野辺りまでゴハチの撮影に行く事がありました。
その際には、先ほど出てきた千葉に引っ越した友人と、もう一人の小学校時代からの友人3人で一日がかりで撮影に出掛けてましたね。
そんな生活も、昭和62年の国鉄分割民営化を機に、一気に醒めてしまいます。
自分でも理由は本当に良く分からないんですけど、鉄道好きと言ってもその中で特に「国鉄」が好きだったんですね。
だから国鉄が無くなった事により急激に興味が薄れてしまったんです。
もちろん、JR化後はいつもの線路際に行く事も殆ど無くなり、好きだったNゲージも仕舞いっぱなしでいつしか存在すら忘れてしまってました。
国鉄がJRになったのは、自分が高校2年になる年の事でした。
一年生の夏休みに原付きの免許を取って行動半径が飛躍的に広がり、本来ならば写真撮影に行くにも便利になっていたのですが、それを機に鉄道趣味は長い休みに入ってしまいました・・・
原付きの免許を取ってからはバイクが楽しく、二年生になってからは中免を取るために「二俣川」へ通い(神奈川県免許試験場)一発試験を受ける事数回、何とか自動二輪中型の免許を取得することに成功。
三年生になると友人と夏休みに思い切って北海道へのツーリングを敢行。
そこで当時復活運転中だった生きているC62に初めて出会うのですが、これは今でも良い思い出になっています。。。
それから社会人になった頃には、以前のブログに書いたように旧車の世界へ足を踏み込んでしまったために鉄道とは縁の無い暮らしをしていたのですが、ひょんなことから模型屋でNゲージを見たときに、当時働いていた某運送会社のロゴの入った貨車を偶然見つけて勢いで購入してしまいました。
実に10年ぶりくらいのNゲージ購入でした。
それからは急に火がつき、今までのブランクを埋めるべくカタログを購入して欲しい車種の在庫を探しにあちこちの模型店を探索し始めました。
・・・が、「欲しいものがいつも在庫しているわけではない」という現実を知り、改めてこの10年間のブランクを実感する事になりました。。
昔だったら、基本的にはカタログに記載されていれば在庫があるというのが当たり前でしたが、出戻りで再スタートを切った頃にはメーカーの方針が変わり、市場在庫がなくなってもすぐに再生産を行わなくなっていました。
そんな事とは知らずに、最初の頃は結構あちこちの模型店を捜し歩きましたね。
それでも数年後には今でもお付き合いのある老舗模型店を見つけて、ある程度の古いものだったら入手できる状況になりました。
まあ、今では古いものを必要とすることが滅多にないので、お店にも無茶な事はお願いしなくなりましたけど。
最近は本当にNゲージも変わりましたね。
子供の頃と今ではあらゆる面で雲泥の差です。
もちろんモデルの再現度については現在のほうが圧倒的ですが、それでも昔頑張ってお小遣いを貯めて買った貨車の価値が下がるわけではないんですよね。
不要なものはかなり処分もしましたが、それでも手元に残したいと思う物は少なからずあるものです。
それらは滅多に箱から出す事はなくなりましたが、今でも棚に仕舞ってあります。
最近はお小遣いが子供の頃並みに少ないので(泣)滅多に新製品を買う事もないのですが、それでも年に数回は欲しいアイテムが発売になるので、頑張って買えるように努力してます(笑)
今は横浜から離れて暮らしていますが、たまに当時住んでいた場所に近いところへ行く事があります。
子供の頃に通っていた線路際の「いつもの場所」は既に住宅が立ち並び、当時の面影は殆どありません。
走っている列車も殆どがステンレスの無機質な電車ばかりですし、貨物列車もコンテナばかりでつまらないです。
(好きな人ごめんなさい・・・オヤジの戯言と思って聞き流してもらえるとありがたいです)
なので今はせめて模型の世界でだけでも思い出として残したいという思いもあって、Nゲージだけは続けています。
(Nゲージをやめられない屁理屈ですけどね・・・)
そんな気持ちでやっているので、基本的に今でも購入しているのは旧国鉄車両のみです。
まあ、東海道線を走っていなくても関係なく好きな車両を集めているので、思い出云々は完全に言い訳ですね(汗)
でも、子供の頃に見に行きたくても遠くにあって見る事が適わなかった車両や、既に引退していて見ることの出来なかった車両等が手軽に手にする事が出来るのはNゲージの醍醐味かも。
先の老舗模型店も今の家からではかなりの距離ですので滅多に行けなくなってしまいました。
本当は実際に見てから買いたい派なんですが、最近は殆どネット通販での購入ですね。
ネット通販の強みは営業時間等を気にせず購入できるところですが、ポチッと簡単に買えてしまうのは危険です(笑)
話が脱線しましたが、今でも極たまに当時撮影した写真を見ると何がどうとかではなく、「昔は良かったな〜」なんて考えてしまいます。
当時は何気なく撮影したものでも、何十年も経つと貴重な記録になっていますね。
もう少しちゃんと撮影しておけば良かったと、今になって後悔しても後の祭り・・・
当時は本当に何にも考えないで撮影していたので、今見ると酷い写真ばかりで本来なら人様に見せられるようなもんじゃないんです・・・父ちゃん情けなくて涙が出てくらぁ!(byあばれはっちゃく)
こんな事を考えるようになってくるといよいよオヤジだな〜と思いますが、いくら願っても子供の頃には戻れないので、これからも現実としっかり向き合って生きて行こうと思います。(なんの話だ?)
当時遊んだ線路際はもうありませんが、思い出はいつまでも残ります。
今の人は、これから数十年後に「あの頃はよかったな」とやっぱり自分と同じように思うのかもしれないですね。
最近はまた少しずつですが実物の鉄道にも再び触れる機会が増えてきました。
以前のように積極的に行動しているわけではないのですが、SL列車を乗りに行ったり大宮の鉄道博物館に行ったりと、多少の鉄分補給はしています(笑)
今はまだ子供が小さいので、もう少し大きくなったらあちこち連れて歩きたいです。
まあ、本人が嫌がったらそれまでですけどね・・・
ではまた
今回はいつもと少し趣旨を変えて、子供の頃から親しんでいた線路際での日々について書いてみようと思います。
私は子供の頃から割と長期間、国鉄東海道本線(現JR)の大船と戸塚の間辺りに住んでいた関係で、小さい頃から線路際で電車ウォッチングをしておりました。
小さな頃は一人で、小学生の頃になると友人と平日は学校が終わったら夕方まで、日曜日は朝から午前中一杯くらいまで線路側に張り付いて、九州方面からやって来るブルートレインなどを堪能していたんですね。
そんな思い出の中で、一番古い記録としては(自分では覚えていない時代のことなので「記憶」ではなく記録)、3〜4歳の頃に祖母の家へ遊びに来ていた際に(大船の近くに住んでいた・・・過去のブログ昔の話をダラダラと・・・を参照)一人で勝手に線路際へ行って電車を見ていたらしく、居なくなっていることに気が付いた母親が交番に駆け込んだところ、その交番でお巡りさんに保護された自分が座ってアイスを食べていたらしい・・・
小さな子供が一人で線路際に居たので、お巡りさんにまんまと保護されて交番へ連れて来られたようです・・・
当の本人である自分には全く記憶に無い出来事なんだけれど、ただ当時の断片的な記憶では祖母と一緒に電車を見に行っていたのは覚えてるので、道を覚えてある時一人で行っちゃったんでしょうね。
思い立ったら我慢ができない性格は未だに直ってないです(汗)
そんな昔からの電車ウォッチですが、一時期線路から離れた場所に引っ越したために中断する事になります。
幼稚園の年長から小学2年生一杯までは藤沢の片田舎に住んでいたので(過去記事の スーパーカーブームの頃 を参照)その頃は全く鉄道とは縁の無い暮らしでした。
正確には数ヶ月に一度くらいの頻度で藤沢駅近辺に行く事があったので、稀に小田急に乗る機会はあったんですけど、何故か当時の国鉄以外への興味があまり無かったんですね。
まあ、国鉄なら何でも良かったのかといえばそうでもなく、電車ウォッチといいながらもお目当ては貨物列車とか特急列車とかブルートレインなど、非日常的なものへの興味が強かったです。
後年になって、プラレールを卒業してNゲージを始めた際にも、普段見ていた湘南電車や横須賀線の111/113系や根岸線の103系には見向きもせずに貨車とか旧型客車などのほうにばかり興味が向かっていたので、小遣いも少ない事もあって普段は安いトミックスの香港製貨車やローカルな車両ばかり購入していました。
まあ、Nゲージを始めるのは小学生になってからなのですが、その頃には再び横浜に戻ってきていたこともあって以前よりも頻繁に線路際へ出掛けるようになっていました。
再び横浜での生活が始まるわけですが、その頃には新しい友達も出来て、割と家も近かったのと趣味が合うこともあってその友人とは良く遊んでいました。
また、この友人はその後しばらく通う事になる線路際の「いつもの場所」に最初に連れて行ってくれた奴でもあり、子供時代の一番の思い出として今でも鮮明に覚えている事のひとつです。
時期としては昭和54年の半ば頃から数年間の出来事です。
「いつもの場所」は大船から走ってきた根岸線が右へカーブして東海道線と分離していく辺り、昔の有名撮影地だった近辺でしたが、その頃はまだ東海道線と横須賀線の分離運転の前だったので横須賀線が行った後に同じ線を153系が走ってくる、なんていう状況でした。
ちょうどいつも見ていた場所に横須賀線上り方面の高架を作っていて、まだ線路敷設工事の真っ最中でした。
そこは今では当然立ち入り禁止になっていますが、その頃はまだ柵の前が空き地で自由に出入りが出来ました。
電車を見に行くということが特別な出来事ではなく、平日午後の普段の遊びのひとつとして当たり前の事でした。
しかしまだ子供なので門限が厳しく、当時は17時までに帰らないといけなかったんですね。
そうなると、夕方まで線路際に立って下りのブルートレインを見ようと思っても可能なのはギリギリ「はやぶさ」まででした。
「みずほ」まで見てしまうと5時までには帰宅できなくなってしまうので夕方に堪能するのはそもそも無理のある事だったんです。
それでも気が向くと自転車でやって来ては暗くなるまで線路際で遊んではいましたが・・・
でもやっぱりブルートレインをしっかり見たいということになると朝しかないわけで、自分の子供の頃は今のように土曜日は休みでは無かったですから必然的に日曜の朝しかないわけです。
そうなると話は早く、土曜日の授業の終わりとかに、
「明日ブルトレ見に行かない?」
みたいな話になり、当日は早起きして朝飯も食わずに見に行くんですよ。
うまくいけば「出雲」辺りから見ることが出来て、最後の「さくら」まで堪能すると11時を回っているので、
「腹も減ったし帰ろうか?」
となるのでした。
しかし、子供にとっても朝の早起きはなかなか厳しく、出雲から見ることが出来るのはせいぜい夏休みの期間中くらいで、普段の日曜日は寝坊して滅多に拝めなかったですね。
しかも「瀬戸」にいたっては結局一度もしっかり見ることが出来ませんでした。(通過時刻が朝の5時台なので見るためには4時台には起きなければならずかなり厳しい・・・)
それでも懲りずに何度か頑張って早起きを目指したんですが、たった一度だけ遠くから後姿を拝む事ができた事がありました。
走り去る「瀬戸」のテールマークを遠くに見ながらまだ薄暗い線路際で友人と悔しがったのを、今になって思い出しました。
この頃には線路の反対側(上り側)に跨線橋を渡って見に行くことが増えて、今は無くなってしまった住友電工への引込み線のある場所で、いつも置いてあった入替用の小型DLの脇でよく見ていました。(今ならアウトですね・・・当時も本当は駄目なはずでしたが割りと大目に見てくれていました。)
その友人とは小学校の3年生の後半くらいから6年生の1学期一杯まで一緒に行動していましたが、お父さんの仕事の都合で6年生の夏休みを前に引っ越してしまったんです。
まあその後も交流は続きまして、未だに友人として付き合いがあるのはとても嬉しい事なんですけどね。
今でもその友人は乗り物好きで、プラモデル等も結構な頻度で現在進行形で作り続けてます。
現在は地元の模型クラブに入って活動しているとの事。
当時から自分よりもマメにいろいろな事をやっていまして、ずいぶんと刺激を受けたんですが、こっちは数十年前に買ったプラモデルが箱なんて焼けて黄色くなったまま未だにいくつも押入れに仕舞われていますんで・・・刺激だけ受けて行動が伴わなかったということですね(泣)
・・・実は後に高校生になってから一度しっかり「瀬戸」を見ることが出来ていたようです。
昭和61年にプリントされた「瀬戸」の写真が出てきました。
住友電工の引込み線側で撮影した瀬戸が出てきたので見たことは間違いないのですが、全く覚えていなかったです。
あと、滅多に行く事はなかったのですが、大船駅の下り側には踏切手のいる大踏切があって、そこから見ることもありました。
そこは東海道本線と東海道貨物線のほかに大船電車区へ出入りする線路もあったので、一度職員輸送用に配置されていたクモハ40が通るのを見たことがありました。
情報の無い当時のことだったので、そんな車両がいるとは知らずに感動したのを思い出しました。
その後暫くは運用されていたようでしたが、あるとき大船駅の横須賀線ホームで職員輸送用の茶色い電車を見つけて近寄ったらクモヤ90になっていて凄くがっかりしたということもありました。
まあ、こんな子供時代ではありましたが、残念な事に(?)そのまま中学生になり不健全な思春期を過ごす事になります(笑)
中学になると、中古ではありましたが一眼レフを入手した事もあって、今までとは違い見るだけではなく撮影する機会がぐっと増えました。
この頃は、小学生時代から付き合いのあるもうひとりの友人と同じようなことを続けていました。
その友人とは自転車で大踏切に行ったり、もう少し足を伸ばして国鉄大船工場の裏手まで行き、フェンス越しに中にある車両を見たりしてましたね。
今回いくつか晒している写真は殆ど全て中学生から高校1年生の頃までに大船〜戸塚間の「いつもの場所」の近辺で撮影したものです。
当時のプリントをスキャンしたものなので見れたもんじゃないんですが、まあ若気の至りということで・・・
残念ながら一眼レフでの撮影を始めた頃にはEF58+20系寝台の急行「銀河」やマンモス電機のEH10等は既に無く、貨物列車のメインはEF65で、EF60はかろうじて運用に付いている状態、貨物列車自体も昭和59年の改正でヤード方式が廃止された事により、以前のような雑多な貨車を連結した列車は消滅してしまい、EF66は殆どコンテナ専門な感じで楽しさは半減していました。
EF66がブルートレインの牽引を始めるのはこの後昭和60年の改正後の事ですが、機関車牽引列車も少ないながらもまだ残っていましたし、画一化は進んでいたものの今に比べればまだ良い時代でした。
線路を走る車種のバラエティではカメラを持って撮影するようになる前の時代には敵いませんが、それでも今よりも情報も少なく、今日の臨時列車の牽引機は何だ?などといった情報は一部のマニアしか知り得ないことで、そこまで本気ではない自分はもっとお気楽なスタンスで楽しんでました。
もうあと5年早く生まれていたらもっと色々な車両を撮影できたのに・・・という思いは今でもありますが、この気持ちは今の若い鉄道ファンの人の中にも同じ思いの人はいるでしょうね。
自分より少し上の世代なら、もうあと少し早ければ「青大将つばめ」や151系「こだま」が見れたのに、とか思っているかもしれないですね。
実際には見ているのに、記録には残せなかった車両はたくさんあります。
東海道線に限ってもEH10を筆頭に、EF15、153系、167系修学旅行色、20系寝台(特急時代)、黒貨車色々・・・
見たことはあっても全ては記憶の彼方です。
でも今のファンの方には申し訳ないですが、EF58が東海道線で定期運用を持っていた最後のほうが見れたのは幸いだったかも知れないです。
実際に運用を調べて撮影に行ったりしたのは最後の数年間だけですが、それでも毎日荷物列車を牽引して東海道を上下していたのを子供時代には当たり前のように見ていたのですから今となっては贅沢な事です。
本当にこれで最後・・・ということになった昭和59年の春、各地に散らばっていたゴハチを全て下関に集結させて集中運用をしていたあの時期、毎日学校にコンパクトカメラを持ち込んで、帰りに夕方の荷物列車を撮影していました。
学校から走れば16時近辺にやって来る荷物列車の撮影が出来たことから、最後の約一ヶ月間は毎日学校帰りには小走りで線路際へ向かってました。
あの最後の運用はかなり過酷だったそうで、EF58に故障が続発していたそうですね。
ひどいものだと故障して動けなくなった先でそのまま廃車になった機関車もいたそうで、あまりに故障が多かったので所要数が足りなくなり急遽廃車予定だった他のゴハチを代わりに運用に駆り出したりということも行われたそうです。
その後春のダイヤ改正でEF58は東海道からは引退して臨時運用のみとなり、定期運用は宇都宮所属の東北線と竜華所属の紀勢線のみとなったわけです。
その頃になると休みの日には品川や上野辺りまでゴハチの撮影に行く事がありました。
その際には、先ほど出てきた千葉に引っ越した友人と、もう一人の小学校時代からの友人3人で一日がかりで撮影に出掛けてましたね。
そんな生活も、昭和62年の国鉄分割民営化を機に、一気に醒めてしまいます。
自分でも理由は本当に良く分からないんですけど、鉄道好きと言ってもその中で特に「国鉄」が好きだったんですね。
だから国鉄が無くなった事により急激に興味が薄れてしまったんです。
もちろん、JR化後はいつもの線路際に行く事も殆ど無くなり、好きだったNゲージも仕舞いっぱなしでいつしか存在すら忘れてしまってました。
国鉄がJRになったのは、自分が高校2年になる年の事でした。
一年生の夏休みに原付きの免許を取って行動半径が飛躍的に広がり、本来ならば写真撮影に行くにも便利になっていたのですが、それを機に鉄道趣味は長い休みに入ってしまいました・・・
原付きの免許を取ってからはバイクが楽しく、二年生になってからは中免を取るために「二俣川」へ通い(神奈川県免許試験場)一発試験を受ける事数回、何とか自動二輪中型の免許を取得することに成功。
三年生になると友人と夏休みに思い切って北海道へのツーリングを敢行。
そこで当時復活運転中だった生きているC62に初めて出会うのですが、これは今でも良い思い出になっています。。。
それから社会人になった頃には、以前のブログに書いたように旧車の世界へ足を踏み込んでしまったために鉄道とは縁の無い暮らしをしていたのですが、ひょんなことから模型屋でNゲージを見たときに、当時働いていた某運送会社のロゴの入った貨車を偶然見つけて勢いで購入してしまいました。
実に10年ぶりくらいのNゲージ購入でした。
それからは急に火がつき、今までのブランクを埋めるべくカタログを購入して欲しい車種の在庫を探しにあちこちの模型店を探索し始めました。
・・・が、「欲しいものがいつも在庫しているわけではない」という現実を知り、改めてこの10年間のブランクを実感する事になりました。。
昔だったら、基本的にはカタログに記載されていれば在庫があるというのが当たり前でしたが、出戻りで再スタートを切った頃にはメーカーの方針が変わり、市場在庫がなくなってもすぐに再生産を行わなくなっていました。
そんな事とは知らずに、最初の頃は結構あちこちの模型店を捜し歩きましたね。
それでも数年後には今でもお付き合いのある老舗模型店を見つけて、ある程度の古いものだったら入手できる状況になりました。
まあ、今では古いものを必要とすることが滅多にないので、お店にも無茶な事はお願いしなくなりましたけど。
最近は本当にNゲージも変わりましたね。
子供の頃と今ではあらゆる面で雲泥の差です。
もちろんモデルの再現度については現在のほうが圧倒的ですが、それでも昔頑張ってお小遣いを貯めて買った貨車の価値が下がるわけではないんですよね。
不要なものはかなり処分もしましたが、それでも手元に残したいと思う物は少なからずあるものです。
それらは滅多に箱から出す事はなくなりましたが、今でも棚に仕舞ってあります。
最近はお小遣いが子供の頃並みに少ないので(泣)滅多に新製品を買う事もないのですが、それでも年に数回は欲しいアイテムが発売になるので、頑張って買えるように努力してます(笑)
今は横浜から離れて暮らしていますが、たまに当時住んでいた場所に近いところへ行く事があります。
子供の頃に通っていた線路際の「いつもの場所」は既に住宅が立ち並び、当時の面影は殆どありません。
走っている列車も殆どがステンレスの無機質な電車ばかりですし、貨物列車もコンテナばかりでつまらないです。
(好きな人ごめんなさい・・・オヤジの戯言と思って聞き流してもらえるとありがたいです)
なので今はせめて模型の世界でだけでも思い出として残したいという思いもあって、Nゲージだけは続けています。
(Nゲージをやめられない屁理屈ですけどね・・・)
そんな気持ちでやっているので、基本的に今でも購入しているのは旧国鉄車両のみです。
まあ、東海道線を走っていなくても関係なく好きな車両を集めているので、思い出云々は完全に言い訳ですね(汗)
でも、子供の頃に見に行きたくても遠くにあって見る事が適わなかった車両や、既に引退していて見ることの出来なかった車両等が手軽に手にする事が出来るのはNゲージの醍醐味かも。
先の老舗模型店も今の家からではかなりの距離ですので滅多に行けなくなってしまいました。
本当は実際に見てから買いたい派なんですが、最近は殆どネット通販での購入ですね。
ネット通販の強みは営業時間等を気にせず購入できるところですが、ポチッと簡単に買えてしまうのは危険です(笑)
話が脱線しましたが、今でも極たまに当時撮影した写真を見ると何がどうとかではなく、「昔は良かったな〜」なんて考えてしまいます。
当時は何気なく撮影したものでも、何十年も経つと貴重な記録になっていますね。
もう少しちゃんと撮影しておけば良かったと、今になって後悔しても後の祭り・・・
当時は本当に何にも考えないで撮影していたので、今見ると酷い写真ばかりで本来なら人様に見せられるようなもんじゃないんです・・・父ちゃん情けなくて涙が出てくらぁ!(byあばれはっちゃく)
こんな事を考えるようになってくるといよいよオヤジだな〜と思いますが、いくら願っても子供の頃には戻れないので、これからも現実としっかり向き合って生きて行こうと思います。(なんの話だ?)
当時遊んだ線路際はもうありませんが、思い出はいつまでも残ります。
今の人は、これから数十年後に「あの頃はよかったな」とやっぱり自分と同じように思うのかもしれないですね。
最近はまた少しずつですが実物の鉄道にも再び触れる機会が増えてきました。
以前のように積極的に行動しているわけではないのですが、SL列車を乗りに行ったり大宮の鉄道博物館に行ったりと、多少の鉄分補給はしています(笑)
今はまだ子供が小さいので、もう少し大きくなったらあちこち連れて歩きたいです。
まあ、本人が嫌がったらそれまでですけどね・・・
ではまた
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/6967829
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック