2020年01月29日
国鉄B20蒸気機関車
あけましておめでとうございます。
って、既に1月も終わろうとしてますね。
こんな体たらくですが、今年もどうにかやっていこうと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。
で、今回はSLです。
しかも国鉄蒸気では異例の小型機であるB20について好き勝手に語ります。
国鉄B20形蒸気機関車は、太平洋戦争さなかの昭和19年(1944年)2月から戦後の22年(1947年)3月までの間に合計15両が作られた国鉄正式機最小の蒸気機関車です。
この辺はこのブログを見に来てくれている方ならご存じの方もいるかと思いますが、B20は太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941年)12月に、鉄道車両メーカーが集まり設立された「車両統制会」の下で規格制定された10形式の規格を元にして作られた機関車です。
(車両統制会とはいかにもな名前の通り、戦時中国策により作られたものです)
日中戦争最中の1940年ころには戦争の影響により経済は活発なおかげで輸送需要はひっ迫、しかし石油の統制が進み蒸気機関車に頼らざるを得なかったにも関わらず小型機関車は老朽車両も多く、中小の鉄道会社はかなり車両不足に悩まされていたようです。
そこで、少しでもスムーズな生産を行えるよう各製造会社ごとに規格や仕様がバラバラだったものを、少しでも効率よくするために統一規格を作ろうとなったわけです。
そしてその規格に則り最初に製造されることになったのがB20だったのです。
このB20は1944年にまず試作5両の製造が運輸通信省(当時、1943年に鉄道省から改組・統合→のちの国鉄)向けに行われることになったんですけど、製造を請け負うことになっていた立山重工業(当然車両統制会の会員)の余力がなかったのか、結局5両は運輸通信省の郡山工場での製造となりました。
その後戦後の1946年から翌年にかけて立山重工にて10両を製作。
(立山重工業は産業用蒸気機関車製造の大手でしたが、国鉄向けの納入は確かこのB20のみだったはずです)
しかし前年には既に戦争は終わり、当初予定していたような使い道はほとんどなくなってしまっているのに、なぜ戦後になってから10両も製造したのかは不明です。
本来の目的であった貨車の入換用途で使われていたのは米軍横須賀基地の貨車入換くらいで、ほとんどは機関区構内での貨車移動や点検時の無火機関車の移動などに使われる程度で早くに廃車となっています。
一部は私鉄に払い下げとなったものもあったんですけど、これは早くに改造手術を施されて内燃機関車化されました。
(当時は古くなった小型蒸気の足廻りを使いディーゼル機関車化することが中小私鉄向けに割とよく行われてました)
しかし、ほとんどが昭和30年半ばまでに廃車となる中で奇跡的に1と10の2両は後年まで生き残り、これまた奇跡的に2両とも保存されているのはご存じのとおりです。
1は1967年10月小樽築港で廃車後北海道岩見沢で静態保存、10は1972年4月に保存のため鹿児島から梅小路蒸気機関車館へ転属の後1979年に車籍を抹消されていましたが、2002年には再整備され動態保存化されて今に至ります。
しかも2006年には梅小路(現京都鉄道博物館)の他の蒸気とともに準鉄道記念物に指定されていますね。
このB20は構造的には殆ど見るべきものがないといっても良いほど簡素なつくりでした。
製造された時期からしても既に古典的な飽和蒸気式を採用(当時の国鉄正式機はすべて効率の良い加熱式を採用)しており、性能よりも生産性を最優先して設計された機関車だったんです。
使用材なども極限まで簡素化したため外観は直線的でデザイン性のかけらもなく(ある意味究極のデザインか?)仕上げも雑で、お世辞にも美しい機関車とは言えないものでした。
飽和蒸気とともにもう一つ特徴的なのは、ブレーキが蒸気式と手ブレーキのみしか装備されてなく構造上とても国鉄の本線運用ができる代物ではなかったことです。
通常ブレーキは圧縮空気を利用した空気ブレーキを装備して、自車以外の車両にもブレーキがかけられるようにしてるんですが、自車にしか作用しない蒸気ブレーキしか装備していないので入換用途以外は元から考えていなかったということでしょう。
B型の為動輪は2軸で先輪や従輪はなく、横から見ると結構なオーバーハングで何とも言えない微妙なバランス感です。
動輪径は860ミリで、これはC57などの旅客用蒸気の動輪半分以下のサイズ(通常の旅客用は1,750ミリ径)で、C62などの先輪や従輪と同じサイズでした。
全長は連結器を含めても7,000ミリで4トントラックよりも下手すると短いです。
重量は20.3トンで、形式のB20はこれに因んでいます。
しかし、国鉄の形式附番ではB11となるのが本来なんですが(既に2軸機にはB10があった為本来なら続番の11になるのが正しい)、この辺りも戦時中のゴタゴタも影響してるんでしょうかね?
で、ここからがようやく本題なんですが、自分は幸いにも両方のB20を見ることが出来まして写真にも納めているんです。
梅小路(京都)の10はまだ動態復元化以前の2000年前後の撮影なので、その頃定位置だった庫外の側線にいたところを撮影したものです。
写ルンですでの撮影なんで画質は勘弁。
この時はナンバーが現役時とは違うものが付いていましたが、動態復元の際にちゃんと現役時の形式入りナンバーに作り替えてもらったみたいですね(立山重工製のB20は何故か形式入りナンバーが奢られていました)
この時は他の保存蒸気のほうが気になって、それほど真剣に見ることもなく1枚だけ撮影して終わりでした。
岩見沢の1については全くの偶然で撮影したもので、こちらは2003年の撮影です。
これは当時夏休みを使って北海道へバイクで行った時のこと。
この時は名寄にあるキマロキを見に行きたくて、夕張から山越えをして岩見沢から高速に乗ろうと走っていた時に偶然保存されているのを見つけて撮影したものです。
事前に情報を持ってなく、保存されていたことも知らなかったのでたまたまバイクで通りかかって発見したときは驚きましたね〜。
思わず急ブレーキをかけてUターンしましたよ。
そこは万字線朝日駅跡に作られた万字線鉄道公園という場所で、国鉄旧万字線が1985年4月に廃止後に整備された公園らしく、旧駅舎がそのまま保存されています。
その裏にひっそりとB20は佇んていたんですが、線路も引かれていて屋根もあるため比較的状態は良いように見えました。
真夏の炎天下、誰もいませんでしたがひたすらシャッターを押しまくり夢中になって撮影。
夏の日差しがまぶしい
怪しげなナンバープレートが付いていますが、現役時には前部以外にはナンバーは付いていなかったはず
オーバーハングの長さがよくわかる横からのショットと1号機の最大の特徴であるドームに付いている鐘と鳩のマーク。
このマークはドーム両側についていて、ちゃんと左右対称になるように鳩の位置が違います。
アップで撮りすぎてよくわかりませんがシンプルな運転室。
蜘蛛の巣がしっかり映っちゃってますね。
X線検査プレートには当て板修理の欄に昭和27年3月の刻印があります。
公園の説明文。
よく見るとB20のことが一切書かれていませんね。
たぶんこの看板を立てた後、かなり経ってから搬入されたんでしょうか。
撮影に夢中になりすぎて、この後バイクに乗ろうとしたらキーを落としていてスゲー焦りました(笑)
幸いすぐに見つけることが出来て事なきを得ましたけど。
夢中になってとか言ってますが、気が付くと後部の写真を撮影してませんでした・・・
その後は急ぎ岩見沢まで行き、そこから高速で名寄に向かったのですがキマロキに出会えたのはすでに夕方の4時を回ってから。
本当はゆっくり堪能したかったんですが、急いで撮影をして当日宿泊しようと思っていた旭川まで戻りました。(キマロキについてはそのうち書こうと思います)
旭川に着いた時にはすでに真っ暗・・・夏でも北海道は日が暮れるのが早かったです。
そこで駅に行って案内所で宿を探して無事に一泊することが出来ました。
別の日には小樽の鉄道博物館も訪問しているので、この時の北海道バイクツーリングはほぼ鉄道巡りに終始してましたね。(小樽の件もそのうち書ければ・・・)
余談ですが、これを書いていて気が付いたんですけど、岩見沢のB20 1は1967年の廃車後から万字線鉄道公園に保存されるまではどこにあったんでしょうね?
詳しい方がいらしたら是非教えてください。
最後に趣味の鉄道模型のことなどを少しだけ書いて終わりたいと思います。
NゲージのB20は長らくその大きさが災いして模型化されない形式でしたが、2000年にワールド工芸という真鍮キットを製造しているメーカーからようやく自走する物が発売され当時は遂に出たかと驚いたもんです。
それ以前にも実は模型化されているんですが、そのときは自走しない「情景モデル」としての発売で、最大の特徴はなんと煙の出るギミック付きだったところ。
1981年〜1982年頃にかけてやはりワールド工芸が完成品として発売していたもので、当時同社が手掛けていた発煙装置をそのままボイラーに見立てたものでした。
自分もその頃模型店で売られているのを見た記憶が薄っすらありますが、子供だった当時は機関車が自走するかしないのかは大きな意味を待っていたので、自走しないこのB20は煙が出るというギミックが気になりつつも購入する気にはならなかった覚えがあります。
実はこれも製品が二種類あったそうで、初期と後期では全く見た目の作りが違って後期のほうがより正確なプロポーションで作られた別物だったようですが、自分が見ていたのは果たしてどちらだったのか?
その後2000年にようやく自走するB20が発売されたときはすかさず飛びつき、いつか作ろうと思ったまま気が付くと平成が終わってました・・・
その間にも改良品が数度にわたり発売されて、今では全くの別物となっているようです。
(モーターなども携帯用小型モーターからコアレスに変わり、ディテールも良くなり初回品とは走りもたぶん雲泥の差のはず)
悔しいのと、たぶん新たに購入しても作る可能性がほとんどないので後の製品は買ってません。
最近は模型のほうもとんとご無沙汰でして、老眼が進んだこともあって細かい作業は本当に苦手です。
完成品にナンバーを付けるだけでも四苦八苦しますんで、果たして今まで購入した大量の真鍮キットが今後完成まで持ち込めるのか?
欲しくて買ったものばかりなので何とかものにしたい気持ちは今でもあるんですけどね。
自信は全くありません(泣)
最後になりましたが、息子がもう少し大きくなったら一緒に京都へ改めてB20を見に行けたらなと思っている次第です。(今は新幹線が旬らしい)
今度は動く状態のB20を堪能出来たら嬉しいかな。
ではまた
って、既に1月も終わろうとしてますね。
こんな体たらくですが、今年もどうにかやっていこうと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。
で、今回はSLです。
しかも国鉄蒸気では異例の小型機であるB20について好き勝手に語ります。
国鉄B20形蒸気機関車
国鉄B20形蒸気機関車は、太平洋戦争さなかの昭和19年(1944年)2月から戦後の22年(1947年)3月までの間に合計15両が作られた国鉄正式機最小の蒸気機関車です。
この辺はこのブログを見に来てくれている方ならご存じの方もいるかと思いますが、B20は太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941年)12月に、鉄道車両メーカーが集まり設立された「車両統制会」の下で規格制定された10形式の規格を元にして作られた機関車です。
(車両統制会とはいかにもな名前の通り、戦時中国策により作られたものです)
日中戦争最中の1940年ころには戦争の影響により経済は活発なおかげで輸送需要はひっ迫、しかし石油の統制が進み蒸気機関車に頼らざるを得なかったにも関わらず小型機関車は老朽車両も多く、中小の鉄道会社はかなり車両不足に悩まされていたようです。
そこで、少しでもスムーズな生産を行えるよう各製造会社ごとに規格や仕様がバラバラだったものを、少しでも効率よくするために統一規格を作ろうとなったわけです。
そしてその規格に則り最初に製造されることになったのがB20だったのです。
このB20は1944年にまず試作5両の製造が運輸通信省(当時、1943年に鉄道省から改組・統合→のちの国鉄)向けに行われることになったんですけど、製造を請け負うことになっていた立山重工業(当然車両統制会の会員)の余力がなかったのか、結局5両は運輸通信省の郡山工場での製造となりました。
その後戦後の1946年から翌年にかけて立山重工にて10両を製作。
(立山重工業は産業用蒸気機関車製造の大手でしたが、国鉄向けの納入は確かこのB20のみだったはずです)
しかし前年には既に戦争は終わり、当初予定していたような使い道はほとんどなくなってしまっているのに、なぜ戦後になってから10両も製造したのかは不明です。
本来の目的であった貨車の入換用途で使われていたのは米軍横須賀基地の貨車入換くらいで、ほとんどは機関区構内での貨車移動や点検時の無火機関車の移動などに使われる程度で早くに廃車となっています。
一部は私鉄に払い下げとなったものもあったんですけど、これは早くに改造手術を施されて内燃機関車化されました。
(当時は古くなった小型蒸気の足廻りを使いディーゼル機関車化することが中小私鉄向けに割とよく行われてました)
しかし、ほとんどが昭和30年半ばまでに廃車となる中で奇跡的に1と10の2両は後年まで生き残り、これまた奇跡的に2両とも保存されているのはご存じのとおりです。
1は1967年10月小樽築港で廃車後北海道岩見沢で静態保存、10は1972年4月に保存のため鹿児島から梅小路蒸気機関車館へ転属の後1979年に車籍を抹消されていましたが、2002年には再整備され動態保存化されて今に至ります。
しかも2006年には梅小路(現京都鉄道博物館)の他の蒸気とともに準鉄道記念物に指定されていますね。
B20の構造など
このB20は構造的には殆ど見るべきものがないといっても良いほど簡素なつくりでした。
製造された時期からしても既に古典的な飽和蒸気式を採用(当時の国鉄正式機はすべて効率の良い加熱式を採用)しており、性能よりも生産性を最優先して設計された機関車だったんです。
使用材なども極限まで簡素化したため外観は直線的でデザイン性のかけらもなく(ある意味究極のデザインか?)仕上げも雑で、お世辞にも美しい機関車とは言えないものでした。
飽和蒸気とともにもう一つ特徴的なのは、ブレーキが蒸気式と手ブレーキのみしか装備されてなく構造上とても国鉄の本線運用ができる代物ではなかったことです。
通常ブレーキは圧縮空気を利用した空気ブレーキを装備して、自車以外の車両にもブレーキがかけられるようにしてるんですが、自車にしか作用しない蒸気ブレーキしか装備していないので入換用途以外は元から考えていなかったということでしょう。
B型の為動輪は2軸で先輪や従輪はなく、横から見ると結構なオーバーハングで何とも言えない微妙なバランス感です。
動輪径は860ミリで、これはC57などの旅客用蒸気の動輪半分以下のサイズ(通常の旅客用は1,750ミリ径)で、C62などの先輪や従輪と同じサイズでした。
全長は連結器を含めても7,000ミリで4トントラックよりも下手すると短いです。
重量は20.3トンで、形式のB20はこれに因んでいます。
しかし、国鉄の形式附番ではB11となるのが本来なんですが(既に2軸機にはB10があった為本来なら続番の11になるのが正しい)、この辺りも戦時中のゴタゴタも影響してるんでしょうかね?
保存されているB20
で、ここからがようやく本題なんですが、自分は幸いにも両方のB20を見ることが出来まして写真にも納めているんです。
梅小路(京都)の10はまだ動態復元化以前の2000年前後の撮影なので、その頃定位置だった庫外の側線にいたところを撮影したものです。
写ルンですでの撮影なんで画質は勘弁。
この時はナンバーが現役時とは違うものが付いていましたが、動態復元の際にちゃんと現役時の形式入りナンバーに作り替えてもらったみたいですね(立山重工製のB20は何故か形式入りナンバーが奢られていました)
この時は他の保存蒸気のほうが気になって、それほど真剣に見ることもなく1枚だけ撮影して終わりでした。
岩見沢の1については全くの偶然で撮影したもので、こちらは2003年の撮影です。
これは当時夏休みを使って北海道へバイクで行った時のこと。
この時は名寄にあるキマロキを見に行きたくて、夕張から山越えをして岩見沢から高速に乗ろうと走っていた時に偶然保存されているのを見つけて撮影したものです。
事前に情報を持ってなく、保存されていたことも知らなかったのでたまたまバイクで通りかかって発見したときは驚きましたね〜。
思わず急ブレーキをかけてUターンしましたよ。
そこは万字線朝日駅跡に作られた万字線鉄道公園という場所で、国鉄旧万字線が1985年4月に廃止後に整備された公園らしく、旧駅舎がそのまま保存されています。
その裏にひっそりとB20は佇んていたんですが、線路も引かれていて屋根もあるため比較的状態は良いように見えました。
真夏の炎天下、誰もいませんでしたがひたすらシャッターを押しまくり夢中になって撮影。
夏の日差しがまぶしい
怪しげなナンバープレートが付いていますが、現役時には前部以外にはナンバーは付いていなかったはず
このマークはドーム両側についていて、ちゃんと左右対称になるように鳩の位置が違います。
アップで撮りすぎてよくわかりませんがシンプルな運転室。
蜘蛛の巣がしっかり映っちゃってますね。
X線検査プレートには当て板修理の欄に昭和27年3月の刻印があります。
公園の説明文。
よく見るとB20のことが一切書かれていませんね。
たぶんこの看板を立てた後、かなり経ってから搬入されたんでしょうか。
撮影に夢中になりすぎて、この後バイクに乗ろうとしたらキーを落としていてスゲー焦りました(笑)
幸いすぐに見つけることが出来て事なきを得ましたけど。
夢中になってとか言ってますが、気が付くと後部の写真を撮影してませんでした・・・
その後は急ぎ岩見沢まで行き、そこから高速で名寄に向かったのですがキマロキに出会えたのはすでに夕方の4時を回ってから。
本当はゆっくり堪能したかったんですが、急いで撮影をして当日宿泊しようと思っていた旭川まで戻りました。(キマロキについてはそのうち書こうと思います)
旭川に着いた時にはすでに真っ暗・・・夏でも北海道は日が暮れるのが早かったです。
そこで駅に行って案内所で宿を探して無事に一泊することが出来ました。
別の日には小樽の鉄道博物館も訪問しているので、この時の北海道バイクツーリングはほぼ鉄道巡りに終始してましたね。(小樽の件もそのうち書ければ・・・)
余談ですが、これを書いていて気が付いたんですけど、岩見沢のB20 1は1967年の廃車後から万字線鉄道公園に保存されるまではどこにあったんでしょうね?
詳しい方がいらしたら是非教えてください。
最後に
最後に趣味の鉄道模型のことなどを少しだけ書いて終わりたいと思います。
NゲージのB20は長らくその大きさが災いして模型化されない形式でしたが、2000年にワールド工芸という真鍮キットを製造しているメーカーからようやく自走する物が発売され当時は遂に出たかと驚いたもんです。
それ以前にも実は模型化されているんですが、そのときは自走しない「情景モデル」としての発売で、最大の特徴はなんと煙の出るギミック付きだったところ。
1981年〜1982年頃にかけてやはりワールド工芸が完成品として発売していたもので、当時同社が手掛けていた発煙装置をそのままボイラーに見立てたものでした。
自分もその頃模型店で売られているのを見た記憶が薄っすらありますが、子供だった当時は機関車が自走するかしないのかは大きな意味を待っていたので、自走しないこのB20は煙が出るというギミックが気になりつつも購入する気にはならなかった覚えがあります。
実はこれも製品が二種類あったそうで、初期と後期では全く見た目の作りが違って後期のほうがより正確なプロポーションで作られた別物だったようですが、自分が見ていたのは果たしてどちらだったのか?
その後2000年にようやく自走するB20が発売されたときはすかさず飛びつき、いつか作ろうと思ったまま気が付くと平成が終わってました・・・
その間にも改良品が数度にわたり発売されて、今では全くの別物となっているようです。
(モーターなども携帯用小型モーターからコアレスに変わり、ディテールも良くなり初回品とは走りもたぶん雲泥の差のはず)
悔しいのと、たぶん新たに購入しても作る可能性がほとんどないので後の製品は買ってません。
最近は模型のほうもとんとご無沙汰でして、老眼が進んだこともあって細かい作業は本当に苦手です。
完成品にナンバーを付けるだけでも四苦八苦しますんで、果たして今まで購入した大量の真鍮キットが今後完成まで持ち込めるのか?
欲しくて買ったものばかりなので何とかものにしたい気持ちは今でもあるんですけどね。
自信は全くありません(泣)
最後になりましたが、息子がもう少し大きくなったら一緒に京都へ改めてB20を見に行けたらなと思っている次第です。(今は新幹線が旬らしい)
今度は動く状態のB20を堪能出来たら嬉しいかな。
ではまた
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