唐津城(からつじょう)は、佐賀県唐津市東城内にあった日本の城である。別名は、舞鶴城(まいづるじょう)。
概要
唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られる。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。
江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。
廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化している。現存する遺構としては石垣・堀がある。1966年(昭和41年)10月に天守台に慶長様式の天守(模擬天守)が建てられた。このほか櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されている。麓から舞鶴公園上段広場までは高低差が34mあるため、有料の斜行エレベーター(2016年4月時点100円)が備えられている。
沿革
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
交通
JR唐津駅から徒歩15分、もしくは同駅より唐津市内線循環バス東コースで8分「唐津城入口」下車
昭和自動車高速バス「からつ号」終点「宝当桟橋」下車、徒歩5分(昭和自動車唐津大手口バスセンターから徒歩10分)。
駐車場 - 道路向かい側に市営の東城内駐車場が設けられている(有料)
別名 舞鶴城
城郭構造 連郭式平山城(海城[1])
天守構造 不明
複合式望楼型5層5階地下1階(1966年 RC造模擬)
築城主 寺沢広高
築城年 1608年
主な城主 寺沢氏、土井氏
水野氏、小笠原氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀
2023年03月01日
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