建築的思考のゆくえ 内藤廣 王国社 20040630 早稲田大学出身
建築家嫌いの人は一度読んでみて欲しい。
○建築は時間の流れの中で育まれる
・建築とは時間をつくりだすこと;僕は立てた瞬間がいちばん美しい建築をつくりたいとは思っていないんです。50年、100年、人の一生の時間をはるかに超えて存在し、使われ続けることによって、何かを生み出すような建築を作りたいと思っています。
・「時間」を排除してきた20世紀:いわゆる「モダン」と呼ばれる近代建築の多くは白を基調にした建物が多いですよね。なぜ白かといえば、時間がゼロだからです。白という色は完成した瞬間が最も美しい色であり、時間が經つに連れて確実に汚れていきます。今日から明日、明日から明後日になるについて価値が下がっていくのです。つまり20世紀の建築は瞬間的な価値を追求しました。要するに、出来上がった瞬間に最も価値が高くなるもの、完成した時点で最も高く売れるものを目指してきたのです。時間が短ければ建築に現れる形は多様化します。でも、時間をぐーっと引き伸ばしていくと非常に限られた答えしか出せなくなるのです。
・かかわった全員に誇りがもてれば力強い建築が生まれる:一番いい建築のあり方というのは、それに関わった全員が「これは俺がやったんだ」と言えることではないかと、僕は思っています。発注している役人も、県知事も「あれは俺がやった」、工事事務所の人も現場の人たちも、「建築家はなんだかんだ言ってたけど、あれは俺がやったんだ」と言える。そいう人間が多いほど成功だし、建築としては力強いものができるのだと思います。
・建てる人との無意識を共有する:個人住宅も手がけていますが、住宅の設計はあらゆる種類の建築の中で最も難しいものだと思います。本当に満足のいくものを作り上げるには、これほど難しい物はないと思います。
・「海の博物館」は伊勢湾に面した志摩に有ります。海に近い立地のため、風雨や塩害からどう守るかという技術面でのハードル、絶えず増え続ける膨大な資料を保管するというスペースの問題、そして究極的なローコストという予算上の問題。建築を成立させていく条件が厳しいと、余計なムダを省いて、何を中心に組み上げるか、何を最後まで確保すべきかが次第に明確になってくるのです。
○建築には環境との応答関係が必要である。
○デザインのDNAを移植する
○50年後、100年後を見据えながら設計する
・持続可能なストックマネジメントを:投下される資本やエネルギーのことを考えると、今後は、30年で建替わっていくより、長く保たせる方向へいくのだろうと私は思っています。サスティナブルとは、持続可能という事ですから、つくるものの寿命を伸ばしていくという事が都市とか建築に対するエネルギー消費を減らしていくのではないかと。つまり、ストックマネジメントをきちんとやったほうが良いわけです。そういう長いスパンで見るようになってくれば、日本の都市や建築の在り方も変わってくるのではないかと思うのです。
・伸びきったインフラをたたんでいく:50年、100年後とかの社会を考えて設計をしている人がどれぐらいいるか。本来なら建築家の役割としては、そういうヴィジョンを持って地域の区長、市長、知事、あるいは「まちづくり」をやっている一般の方々にはっきり意見を言うことが必要なんだと思います。私は、みんながスター建築家になりたいと思っていることに対して非常に危機感を持っています。スターはいらないけれど、まともな建築家が多いほうが良いと思っています。特に若い人はそういう気持ちが強すぎるというか、自分が努力した結果として注目されるということはあるけれど、今は、スター建築家になることが目的とされている。このことは、とても問題ではないかと思うんです。長期的視野を持った人たちの集団であれば、一般の人たちも信頼してくれると思います。そこのところが一番大事で、今の若い世代の建築家というのはあまりに無関心にすぎるのではないかと思います。
・まちづくりは小学生から:私は、サスティナビリティとか、エコという言葉が、本当は好きではないんです。というのも、世の中で反対できない言葉というのがあるわけです。人にやさしいとかそういう言葉というのは「原爆反対」と同じように、ある種の免罪符になってしまいますから。例えばエコという言葉がついたとたん、みんあ志向が停止するわけです。そうしたら、そういう言葉はいらないんじゃないかと。むしろそういう言葉が無くなった時に、健全な社会ができるんじゃないでしょうか。
○意気地なしの建築
○つならなくて価値のあるもの
・身体的な記憶、場所の記憶:建築家が自分の仕事を作品と呼ぶのがきらいだ。作品といえば、芸術のようでもある。そのいかがわしさわお建築という価値が帯びるのがいやだ。建築という価値は、いかに非日常的な形態を纏ったとしても、その身を日常に置かねばならないはずだ。時間を生きることこそが建築の本来的な価値であり、他の領域にない際立った特質ではないか。だから、建築は作品のようでなくても良いと思っている。作品的な価値の在り方は、建築をメディアという特殊な情報空間の中に固定する。それに過度に固執することは、建築から時間を排除することに繋がる。
そんなに新しい本ではないのだが、先見の明があると認めざるを得ないのではないでしょうか。こだわりは技術は進歩する、だから技術に信頼を置くというところ。合理的な方ですね。