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2014年03月19日
お彼岸
3月も半ばになってお彼岸の季節ですね
お彼岸とは…
彼岸(ひがん)は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼ぶ。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
※Wikipedia引用
Twitter、Facebookで知り合いになり、一緒にラウンドさせてもらった事のある方がFacebookで亡くなられた父親について記事を書いておられたので、今回は自分も父親について書かせてもらうことにしました。
自分が高校3年になったばかりの4月中旬に話しは遡ります。
天気のいい土曜日
この日は昼過ぎから、親友と家から自転車で10分のところにあるパチンコ屋に居ました
高校生なのにパチンコ?と思われた方もいると思いますが、そこはさらりと流してください(笑)
先に帰るで!と言ってパチンコ屋を後にした近所のおじさんが慌てた様子でパチンコ屋にUターンしてきて、僕の顔を見るや否や
『おんし(お前の方言)のオヤジが倒れて救急車で運ばれたぞ。直ぐに帰らなかん!』
俺は急いで出ていた球を換金して(ここはちゃっかりしていた)友人と一緒にニケツして帰宅した。
家に着くとすでに母は救急車に同乗して病院に向かっていた。
家に着いた俺はそんなに大した事はないだろうと勝手に決め込み(そう思いたかった)ワリと冷静な状態で自宅待機していると、別の病院で看護婦をしていた『いとこ』から電話があった
そして俺にこう告げた
『落ち着いて聞いて。親父は脳の太い血管か切れてとても危険な状態になっている。もし手術出来たとしても植物人間になる可能性が高い。男なんだからお母さんを支えてあげて』
電話を切った後の俺のアタマの中はホワイトアウトした
しばらくして向かいの家のおじさんが車で俺を病院まで連れて行ってくれた。
病院に着いて家族控え室に入ると、そこには泣き崩れている母がいた。
今までに見たこともないほど、小さく弱々しい母の姿だった
家族4人が祈る気持ちで父の回復を願っていた。
しかし3時間が経過した時、父は帰らぬ人となった。享年50歳。
死因は脳溢血。
暑かったこの日、両親はゴルフのショートコースでラウンドしていた。
ラウンドを終えて自宅に帰宅し、父は直ぐに仕事をする為にマイナス25度のプレハブ式冷凍庫に入り、しばらくして冷凍庫を出た時に急変したらしい。
急激な気温差が祟ったのだろう。
病室に入るとそこには色んな管を繋がれたままの父が横たわっていた。
俺はまだ暖かみの残る父の手をギュッと握りしめ、喉が枯れるほど泣きじゃくった。
信じられないだろうが、父が他界して4時間も経たないうちに俺は布団に潜り込んでいた
これは夢だ!
起きたら父が生きていてくれるはずだと信じて…
しかし、朝になって目が覚めるとそこには泣いている母がいた。
やはり、夢ではなかった…
仕事がやすみの時にキャッチボールをしてくれた父。
競馬が大好きな父はよく俺を競馬場に連れて行ってくれた。
夏休みには車で全国各地を走り回って色んなところに連れていってくれた。
俺の前でもおちゃらけた姿を見せて笑わせてくれた父。
そんな父が大好きだった。
あれからもう23年が経とうとしている。
父の死はとても辛かったけど、今となってはとても感謝している。
もし今も父が生きていたなら、今も脛をかじっていただろう。
ただなんとなく日々を過ごしていただろう。
TwitterやFacebookで知り合いになれた皆さんとも出会う事は無かっただろう。
色んな人と出会い、色んな経験をさせてもらった。
今の自分があるのは父が俺に試練を与えてくれたからだと思っている。
父さん、本当にありがとう
最後に…
酷い奴だと思われるかもしれないが、俺は仏壇やお墓に手を合わせることはしない。
俺の父さんは、今でも俺の心の中で生き続けているから…
長文、駄文、失礼しましたm(__)m
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お彼岸とは…
彼岸(ひがん)は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼ぶ。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
※Wikipedia引用
Twitter、Facebookで知り合いになり、一緒にラウンドさせてもらった事のある方がFacebookで亡くなられた父親について記事を書いておられたので、今回は自分も父親について書かせてもらうことにしました。
自分が高校3年になったばかりの4月中旬に話しは遡ります。
天気のいい土曜日
この日は昼過ぎから、親友と家から自転車で10分のところにあるパチンコ屋に居ました
高校生なのにパチンコ?と思われた方もいると思いますが、そこはさらりと流してください(笑)
先に帰るで!と言ってパチンコ屋を後にした近所のおじさんが慌てた様子でパチンコ屋にUターンしてきて、僕の顔を見るや否や
『おんし(お前の方言)のオヤジが倒れて救急車で運ばれたぞ。直ぐに帰らなかん!』
俺は急いで出ていた球を換金して(ここはちゃっかりしていた)友人と一緒にニケツして帰宅した。
家に着くとすでに母は救急車に同乗して病院に向かっていた。
家に着いた俺はそんなに大した事はないだろうと勝手に決め込み(そう思いたかった)ワリと冷静な状態で自宅待機していると、別の病院で看護婦をしていた『いとこ』から電話があった
そして俺にこう告げた
『落ち着いて聞いて。親父は脳の太い血管か切れてとても危険な状態になっている。もし手術出来たとしても植物人間になる可能性が高い。男なんだからお母さんを支えてあげて』
電話を切った後の俺のアタマの中はホワイトアウトした
しばらくして向かいの家のおじさんが車で俺を病院まで連れて行ってくれた。
病院に着いて家族控え室に入ると、そこには泣き崩れている母がいた。
今までに見たこともないほど、小さく弱々しい母の姿だった
家族4人が祈る気持ちで父の回復を願っていた。
しかし3時間が経過した時、父は帰らぬ人となった。享年50歳。
死因は脳溢血。
暑かったこの日、両親はゴルフのショートコースでラウンドしていた。
ラウンドを終えて自宅に帰宅し、父は直ぐに仕事をする為にマイナス25度のプレハブ式冷凍庫に入り、しばらくして冷凍庫を出た時に急変したらしい。
急激な気温差が祟ったのだろう。
病室に入るとそこには色んな管を繋がれたままの父が横たわっていた。
俺はまだ暖かみの残る父の手をギュッと握りしめ、喉が枯れるほど泣きじゃくった。
信じられないだろうが、父が他界して4時間も経たないうちに俺は布団に潜り込んでいた
これは夢だ!
起きたら父が生きていてくれるはずだと信じて…
しかし、朝になって目が覚めるとそこには泣いている母がいた。
やはり、夢ではなかった…
仕事がやすみの時にキャッチボールをしてくれた父。
競馬が大好きな父はよく俺を競馬場に連れて行ってくれた。
夏休みには車で全国各地を走り回って色んなところに連れていってくれた。
俺の前でもおちゃらけた姿を見せて笑わせてくれた父。
そんな父が大好きだった。
あれからもう23年が経とうとしている。
父の死はとても辛かったけど、今となってはとても感謝している。
もし今も父が生きていたなら、今も脛をかじっていただろう。
ただなんとなく日々を過ごしていただろう。
TwitterやFacebookで知り合いになれた皆さんとも出会う事は無かっただろう。
色んな人と出会い、色んな経験をさせてもらった。
今の自分があるのは父が俺に試練を与えてくれたからだと思っている。
父さん、本当にありがとう
最後に…
酷い奴だと思われるかもしれないが、俺は仏壇やお墓に手を合わせることはしない。
俺の父さんは、今でも俺の心の中で生き続けているから…
長文、駄文、失礼しましたm(__)m
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