2007年05月23日
■ 5月の恋-2
5月の恋-1、を読んでから、お読みください。
片瀬良は4年前、ガン新薬の共同開発事業の折、プロジェクトの一員として、
アメリカのボストンに2年間赴任した。その折千鶴は、学生時代に培ったリンパ系の知識を買われ、アシスタントとしてプロジェクトに同行したのだ。
良と千鶴は寒いボストンでお互い肩を寄せ合った。
そして帰国して半年後、二人は結婚したのだった。
ボストン時代の一線を越えた二人の関係は本社にも知れ渡っていた。
結婚は成り行きであったと噂さする人もいた。
出世を考え、品行方正のイメージを崩したくないと、良が思ったのも事実だった。
「仕方が無いじゃないか」
一馬はビントロにハッキリとした口調でいった。
でもそれが、何を意味する言葉か、ビントロは飲み込めなかった。
「好きな人がいるとして、それが本気なら、その気持ちを大切に育てるべきだ」一馬はもう一度、説明を加えるようにいった。
人の心の中は見えない。
でもその中身は必ず外に表れるものだ。
人に対する「想い」が強ければつよいほど、それは顕在化する。
「好き」という感情は余計そういうものだ。
そして、その想いが深ければふかいほど近視眼的にもなる。そして、その他の人に向けられている気持ちが、朝日とともに消える星のように、淡い存在になっていく。そんなことはよくあることで、それがまた、人間関係を厄介なものにもしているのだ。
「千鶴がもし、ビントロに好意を抱いていたとしたらどうか」「それは、良に対する裏切りになるのか」「いや、そうではないだろう」「好きになる感情は、だれにも抑えることはできないはずだ」「むしろ抑えようとする方が不正直であり、自分に対する裏切りといえまいか」「それとも失せてしまった良に対する気持ちの方を、大事に引きずることが大切なのだろうか」一馬の勝手な想像は社会的良識といったものを無視して行った。
人は一人で生きていくことはできない、社会的動物だ。
無数に織り成す、社会の構成の中で生きているのが現実だ。
衣食住を、そして人間らしく生きていくための恩恵を、社会から受け、又自らも与える存在となっている。誰しもが、その現実から逃れて暮らすことはできない。夫婦という接点もその構成要素の一つといえる。
ときにその構成し合う接点が、自分の本意でない場合もある。
本意でなくとも、保たなければならないバランスというものがあるのだ。
「ビントロ、もしそうなら、おまえ、かっこつけるなよ、こんどは」
一馬は、例のビントロの十八番に水を差すような言い方で、うながした。
「おまえに正直に生きてもらいたい、ということだよ」
「そして、相手にもその気持ちを知ってもらわなければな」
「そうでなければ、何の発展も無いわけだ」
「もちろん発展させてはいけない関係もあるかもしれない」
「でもそれはしょせん結果論だ。何が一番よい結論かなど、誰にも分からない」
「だからギリギリの所まで行くんだ」
「でもそれは決して無謀なことではない」
「人はちゃんと理性というものがあるんだ。理性によって一方的な感情はコントロールされ、行き着く先で、一番ふさわしい道を選択しようとするはずだ」
「相手を想うとは、そういうことだと思う」
一馬は、そこまで一気に話を進めると、椅子に深く座りなおした。
そして背もたれに寄りかかりながら、グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
「もう一杯いかがですか」
店の店主が、ワインボトルを片手に近寄ってきた。
そしてもう一方の手は、細長いガラスの脚を指の間で挟み、ワイングラス二客を吊るすようにしていた。
「最近日本にも入りだした、シチリアのプラネータという白です」
断ろうとしたタイミングを外され、一馬の目の前に、PLANETAと書かれた白いラベルがよく見えるように、ボトルが差し出された。ボトルは水玉の汗をかいていて、よく冷やされていることが分かった。透けて見えるボトルの中身は、普通よりも濃い黄金色のように見えた。「定番のハウスワインに加えようと思って、現在お客様に試飲をお願いしているところなんです」と店主が愛想よく、勧めてきた。
一馬は、タダならと思い、ワインをもらうことにした。
キーンと冷えたワインがすべるように咽を通っていった。
胃の中に流れ込むまで意識できるような、しっかりとした味わいだった。
「いいね」一馬は、グラスをかざしながら、店主に笑顔を返した。
ビントロも一馬に習って、店主に乾杯をするしぐさをみせた。
でも、焼酎の好きなビントロにとって、ワインの味はどうでもよかった。
窓越しに外を見ると、陽はすでに、道一つ挟んだ新宿御苑の森の向こうに落ちている。「シチリアか」一馬は、ワイングラスを透かすように見ながら言った。
「ああ」っと、ビントロも相槌をうった。
シチリアは、卒業旅行でイタリアに行った折、最後に訪ねた地中海の島だった。
当初ビントロも一緒に行く予定だった。しかし、バイトがあるといって、結局参加しなかった。
「おまえ、本当にバイトだったのか」一馬はその時のことをまた、ビントロに尋ねた。もともとビントロを励ますために企画した旅行であったのに、土壇場で当の本人が行けないと言い出したのだ。「本当にバイトだった。すまなかった」ビントロは、そう答えて、口をつぐんだ。そして、卒業を間近に片想いの彼女を忘れようと、かさかさに乾いた気持ちを、何とか潤わそうと必死になっていた、その時のことを思い返した。また、気持ちを察して、平静を装う仲間達の態度を余計刺々しく感じ、一緒にいることが息苦しかったことを思った。
そして今「あの時必死になっていた、片想いは一体なんだったのかな」と思ったのだった。
ビントロはさっき一馬が言った「おまえに正直に生きてもらいたい、ということだよ」という言葉を反芻してみた。そして「そうだな、傷つくのを怖がったり、めそめそすることを思えば、俺はもっと率直であるべきなんだな」と、結論じみたことを思った。
「一馬、今度給料が出たら俺がおごるから、寿司でも喰いに行かないか」
ビントロは顔を上げて、一馬に言った。
そしてその精気の戻った声を合図に「そろそろ出るか」と、一馬はビントロを促がした。そして「じゃ、今日は俺がおごる」そう言って、一馬は伝票を持ってレジに進んだ。
一馬はレジで店主に「ワイン美味しかったよ」と告げた。
そして、この店の「アッディーオ」とはどんな意味かを聞いてみた。
「イタリア語で、サヨナラっていう意味です」店主はそう答えた。
店主は、辞書ではサヨナラとなっていますが、出会いの数だけサヨナラがあるっていう意味です、と、付け加えた。
外に出ると、御苑の緑の臭いが風にふかれて、二人の間を流れていった。
一馬は「五月はやっぱり恋の季節だな」と思った、そして「五月の恋は、やがて秋に、愛となって実るのだ」と祈った。
一馬とビントロは再会を約し「アッディーオ」をあとに、別々の方向に歩いて行った。
つづく。。。
2007.05.23
シュー