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2017年12月27日
新しい年のはじめに贈りたい
『万葉集の最後を飾る歌』
今年もあとわずか
年賀状などすでに書き終え郵便に出した人も多いのではないでしょうか
新しい年のはじめ、元日に詠めば今年一年良いことが重なっていきそうな、そんな歌を紹介したいと思います
今日降る雪の いや重け吉事
けふふるゆきの いやしけよごと"
歌の意味
「新年の元日のこの日、雪が降っている。
その降りつもる雪のように、ますます
今年もいいことが重なっておくれ」
この歌は今から遡ること千三百年前、万葉の時代に、歌人"大伴家持"が詠んだ歌です。そして万葉集二十巻(四千五百首)の最後を飾る歌でもあります
雪の降り積もるさまを見て、そのように吉事の重なりを願った歌なのです
千三百年前の万葉人(まんようびと)の心が、今に受け継がれていることがすでに奇跡のようなことですが、せっかくこのような素晴らしい歌があるのなら、新年を迎えたその日に読んでみる、想いを馳せる、それだけでも新しい年の初めに、どこか心が晴れ晴れとする気持ちになれることでしょう
この記事の参考にさせていただいた万葉のふるさと(清原和義著)は万葉集や万葉の時代背景、歌人のことなど、とても丁寧に誰にでもわかりやすく紐解いた本で、とてもおすすめです。図書館でも借りられますので、興味をもった方はこの機会に千三百年の時を超え、日本の雅な世界へ旅してみてはいかがでしょうか
本を購入される場合はこちらにも出ています
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2018年01月06日
一千年の時を越える言の葉の響き
『言はで思ふぞ』
現代では人へ想いを伝える時、その手段といい言葉といい実に様々なものがあります
電話やメールはもちろんLINEなど、いわゆるSNSと言われるものもその手段のひとつでしょう
使われる言葉も軽いものから深いものまで実に様々
ですが、言葉が溢れる今の世でもこう思う時はないでしょうか
とても大切に思っているけど言葉では言い尽くせない
言葉にするよりその思いはもっと深く激しい
この思いをいったいどうやって伝えよう
口にするより深く激しい想いを
今回は、今より遥か一千年も前にそんな『思い』のやり取りをしていた女性二人と一首の和歌をとりげたいと思います
その和歌とは
心には 下行く水のわきかへり
言はで思ふぞ 言ふにまされる
こころには したいくみずの わきかえり
いわでおもうぞ いうにまされる
心に秘めた思いは口にするより ずっと深く激しい
この歌にはそんな意味がこめられています
そして、この歌をやり取りしていた二人の女性、それは平安の世に生きた清少納言と妃(きさき)定子(ていし)です
定子の父(藤原道隆)亡き後、新たに最高権力の座についた藤原道長
その道長のスパイではないかと疑惑を持たれた清少納言。それが原因で清少納言は宮中を離れ実家に戻ってしまいます。実家に戻った清少納言に対して妃(きさき)定子(ていし)は『もう一度自分に仕えて欲しい』とたびたび手紙を送ります。その送られてきた手紙の中にあったものが、くちなしの花びら一枚に書かれた一文
『言はで思ふぞ』
これを見た清少納言は定子の想いに心動かされ、もう一度宮中に戻り定子に仕えることになったのです(NHK100分de名著より)
定子は清少納言のことを誰よりも慕い、清少納言は定子を尊敬し、敬い、慕い、貴い人だと心から思い全身全霊をかけて尽くしました
だから定子は里へ帰ってしまった清少納言へこの歌を送り、清少納言はこのわずかな言葉だけでその思いを受け止め、再び定子のもとへと戻っていったのです
今の私達も、言葉では言い尽くせない言い表せられない程の想いも、この歌のように伝えられる誰かがいて、それを互いに受け止め合える、そんな関係を築けていけたらいいですね。
2018年02月06日
『競技かるたの父』黒岩涙香
漫画や映画【ちはやふる】など、それまで以上に多くの人の視線が注がれることになった『競技かるた』
今や日本のみならず海外にも多くのファンがいて、日本と外国との良い繋がりがまたひとつ増えている事にワクワクしている今日この頃
以前投稿した記事「宮崎駿初監督作品”ルパン三世カリオストロの城”の元になった小説」の中で、小説【幽霊塔】を翻案小説にしたのが【黒岩涙香氏】だという話しをしたのだけど、実はその黒岩涙香氏こそ『競技かるたの父』と呼ばれる人だったのです
明治期のジャーナリストだった黒岩涙香はそれまで統一したルールが存在していなかった「かるた競技」の競技方法統一を図るべく、明治37年(1904年)に「東京かるた会」を結成。自らが主催する新聞「萬朝報」に広告を出し選手を募り、同年2月11日日本橋常磐木倶楽部にて「第一回かるた大会」を開催する。その他、同新聞に 「小倉百人一首かるた早取り秘伝」を掲載したり、現在のかるた競技の基底となるもの「最も公平なる歌留多」を提唱している。
それ以前のかるた競技において、かるた札の並べ方は2段から4段と各自まちまちだったが、それを行儀上3段に統一。持ち札の枚数を各自25枚と定めたのも「東京かるた会」であった(ただし当時4開戦までは予選で予選での持ち札は16枚だった)。など
(競技かるたの夜明参照)
『競技かるた』についてより詳しく知りたい方は”たこるさん”のサイト競技かるたのページ(日本競技かるた史(2))で沢山学べます
早すぎて手が見えない。。。
最新作映画【ちはやふる-結び-】が春に公開される事で更に注目度が上がりそうな『競技かるた』
その競技かるたには『競技かるたの父』と呼ばれる人がいて、それが「幽霊塔」に繋がる『黒岩涙香』氏だったというのが意外性特大で驚きました。幽霊塔を元に『カリオストロの城』が作られているなど、ひとつを深く掘り下げていくと、意外なものが意外な繋がりを見せてくれたりするので、そこがまた面白い所です
『競技かるたの父』についてはここまでですが、『競技かるた』に使われる『小倉百人一首』についてもまた別の機会に投稿できたらいいなと思います
<かるた関連サイト>
全日本かるた協会
小倉百人一首を見て聞いて遊べる百人一首
2019年07月01日
『七夕の恋の調べ』
雨は、彦星が漕ぐ船の水しぶき。千三百年前の日本人の感性
七月七日の『七夕の日』
晴れたら『織姫』と『彦星』は逢える
雨が降ったら逢えない
そんな事を思い浮かべつつ空を見上げ、天の川の川向かいに光る二つの星を探す人、短冊に自分の思いを乗せて笹に結ぶ人、思い思いに楽しむ七夕
『七夕』は幻想的であり、人の『思い』が、いつも以上にやさしく現れる日
それぞれに思いを馳せながら楽しむ『七夕』ですが、雨の降る日、はたして織姫と彦星は逢えているのでしょうか?
有名な『かささぎ伝説』では、雨で水かさの増した川に、かささぎの群れがやって来て、翼を広げて橋を作り、織姫と彦星が逢えるようにしてくれたり
また、『催涙雨(さいるいう)』といって、七夕の日に降る雨は、織姫と彦星が、逢えた喜びに流す、『うれし涙』だ、というお話しもあります
どちらのお話しも、七夕の日に雨が降っても、『織姫と彦星は逢える』という、嬉しい内容です
そのような、有名なお話しがある中、それとはまた違う、全く別の解釈をしていた人達が、遥かむかしの日本にいました
『万葉人(まんようびと)』です
今より約千三百年前の日本で、万葉人は『七夕』に独自の感性を取り入れ、それを『歌(和歌)』に詠んでいます
雨の日も含め、空の色々の様子を、広い心で詠んだ万葉人の『七夕の歌』を、『万葉のふるさと(清原和義著)』の中で紹介されている歌の中から、三首あげたいと思います
まず初めに気になる『雨の日』の歌を
続けて、『雲』、『霧』、と詠んでいきます
早漕ぐ船の 櫂の散沫かも
"このゆうべ ふりくるあめは ひこぼしの
はやこぐふねの かいのちりかも"
一年に一度のこの夜に降ってくる雨は、彦星が織姫のもとへ早く漕いでいる船の
櫂(かい)の上げる水しぶきであろうか
織女の 天つ領布かも
"あきかぜの ふきただよわす しらくもは
たなばたつめの あまつひれかも"
この秋風に吹き漂っているあの白雲は、織女の領布だろうか
※領布(ひれ)は、肩から掛ける
ショールの様なもの
天の河原に 霧の立てるは
"ひこぼしの つまむかえぶね こぎづらし
あまのかわらに きりのたてるは"
織姫を迎えに行く彦星の船が漕ぎ出したらしい。天の川の河原に霧が立っている
空を見上げ、秋風に漂う白雲を見ては『あれは織姫の領布(ひれ)かも』と、想い描いてみたり
天の川に霧が立っていれば、それは彦星が織姫を迎える船を漕ぎ出した為に立っているのだな、と想い
そして『雨』は、彦星が織姫に逢いたくて逢いたくて、早く船を漕ぐものだから、その櫂(かい)が水しぶきを上げてそれが降って来ているのだと、そんな風に想いを馳せているのです
星は、遥か彼方にあるもの
雨が降っても、それが天の川に降るなどとは思いもせず、『七夕の日に降る雨は、きっと天の川から降ってきているのだ』。そう、万葉人は思い描いたのではないでしょうか
元々、中国から来た『七夕』
それを万葉人が、日本人ならではの解釈をし『歌(和歌)』に残してくれていた事で、今から千三百年前という遥か昔に、祖先が『七夕』へ馳せた想いというものを、感じる事ができます
そして、これからは、『七夕の日』に、もし雨が降ったとしても
あぁ、これは、彦星が織姫に早く逢いたくて、急いで船を漕いでいるんだなぁ
と、思う事ができそうです
更に、降る雨が激しければ激しいほど、彦星の織姫に対する想いが、より伝わってくる気がします
参考引用文献(図書館利用)
『万葉のふるさと』清原和義著
ポプラ・ブックス
画像
photographer『torstensimon』
by pixabay
<追記>
記事にある『かささぎ伝説』は、中国の伝説にある「かささぎが翼を広げて作った橋」とか「宮中の階段」とかいう意味で、それが七夕に融合されたものだと思われるのですが、この中国の『かささぎ』の伝説を、見事に『和歌』に取り入れたものが、残されています
詠んだ人は『壬生忠岑(みぶのただみね)』古今集の四人の選者のうちの一人です
時の右大臣、藤原定国(ふじわらさだくに)に仕えていた忠岑。ある夜、酒に酔った勢いで、定国が左大臣藤原時平の屋敷へ押しかけました。酔った定国に対し、時平は「今頃、どこの帰りなのだ」と定国に問いただしました。その時、定国に代わって忠岑が、
かささぎの 渡せる橋の 霜の上を
夜半(よは)に踏み越え ことさらにこそ
「夜中に霜の降りた橋を踏み越えてわざわざやってきたのです」
という意味の歌を詠みました。それを聞いた時平はすっかり関心し、そのあと定国、忠岑、時平の三人で夜通し酒を飲んだという事です
古今集の選者でもあり、小倉百人一首にも歌が入っている壬生忠岑ですが、生まれた年も、亡くなった年もわかっていないという事です
(参考引用文献『百人一首物語(司代隆三著)』)
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2021年03月28日
うららかな春を詠んだ歌【源氏物語(胡蝶の巻)】より
「春の日の うららにさして ゆく舟は 棹(さお)のしづ(ず)くも 花ぞちりける」
春の日の光がうららかにさし、花の影の映っている池の面(おも)をゆるやかに棹(さお)さしてゆく舟は、棹をつたってこぼれ落ちるしずくまでが、花のちるのかと思われる。
源氏物語
源氏物語の中には、七百九十余首の歌が入っています。ここにあげたのは、源氏物語の中の胡蝶(こちょう)の巻にのっている歌で、物語のなかで姿も心も一番美しい紫上(むらさきのうえ)という夫人の住む六条院(ろくじょういん)の庭に、秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)という、これも美しいお后(きさき)を迎えて、花の盛りに池に舟をうかべてお遊びのあった日に、女官の一人が詠んだことになっています。
「さしてゆく舟」の「さして」には、日がさすことと、棹(さお)をさすこととが、つながるようになっています。
(引用「和歌ものがたり」佐佐木信綱著)
「うらら」「うららか」という言葉の響きは、千年という時を経てもなお日本人の心に心地良くおだやかに沁み渡り、平安の世の人が見たであろう眺めを今も感じさせてくれます