2019年08月18日
『喜び、悲劇、裏切り』【樋口一葉】(十五歳〜)
『萩の舎』の新年発会の日
九段にある料亭『万源』に、艶やかな振袖を着こなした令嬢達が次々と到着する。夏子は、自分が着ている古びた黄八丈(きはちじょう)の着物と赤い帯が恥ずかしくなった。母が夏子の為に用意してくれた今まで着たどんな晴れ着より華やかで贅沢なものだったが、この上流社会の人々の中にあっては、その足元にも及ばないのだ
全ての人が揃い、にぎやかな昼食会が行われた。その後、いよいよ歌を競い合う事となる。本日のお題は『春の夜』
夏子の頭の中に浮かぶ、おぼろにかすむ月、小川、そのほとりに立つ柳の木、揺れる葉、、、
集まった人々が息を潜めて見守る中、それは発表された
打ちなびく 柳を見ればのどかなる
おぼろ月夜も 風は在りけり
この歌は、この日の最高位となった。夏子はまるで夢の中にいるかのような気持ちになっていた、と同時にその胸には誇らしさが湧き上がり、令嬢達の華やかな振袖の事などはもう気にならなくなっていた。伊藤夏子も「おめでとう樋夏ちゃん!」と夏子を褒め称えてくれた
まもなく中島歌子は、夏子に随筆の書き方を教え始め、源氏物語や古今和歌集も教えていった。十五歳の少女の胸に王朝文学への憧れが膨らんでいった
(黄八丈・・・東京都の八丈島の特産)
夏子十七歳。この年、父の則義が荷車請負業の事業にしくじり莫大な借金を抱えた直後、不治の病にかかってしまった。長兄の泉太郎(せんたろう)は一昨年病気で亡くなり、次兄の虎之助は数年前に勘当同様に家を出て行ったきり。夏子はそんな中、去年十六歳で樋口家の戸主となっていた。戸主となった時には、樋口の家が今日のように落ちぶれ果てるなど夢にも思っていなかっただろう
そこへ婚約者の三郎が、父に急用があると呼ばれてやって来た
「まったく困るよなおじさんにも」
三郎の言葉がするどいトゲとなって夏子の胸を突き刺す。父のいる部屋へ通された三郎を、不安になりながらも外でお茶など用意しながら待つ夏子。話しを終えた三郎は用意したお茶もそこそこに、あわただしく帰って行った。いったいどういう話しだったのか母に尋ねると、夏子の婚約の件をどうするのかハッキリ聞くために父は三郎を呼んだという事、そして三郎はその問いに対し、たしかに自分が夏子さんを幸せにすると答えたという事を夏子に話した。それを聞いた夏子は安心した。が、さっきの三郎のあのするどい言葉。その時の様子を思い出す夏子の胸の中に一抹の不安がよぎるのだった
その数日後、明治二十二年七月十二日。父、則義は五十八歳の生涯を閉じた。最愛の父を失った夏子は、その遺骸にすがりつきいつまでも泣き続けた。と同時に、その両肩には戸主という重荷が重くのしかかっているのを感じていた。とりあえず夏子は母と邦子と女三人で、虎之助を頼ってそこへ引き移って行くのだった
それから間もなく、三郎が使いの者を通し信じられないほど高額な結納金を母に要求してきた。無一文の樋口家にとってとても出せるような金額ではない。それをわかっていて要求してきたのだ。たき(母)は怒りと共にその書状を破り捨てた。このような三郎の裏切りを夏子は腹わたの煮える思いで見ていたのだった
〜つづく
参考引用資料
『樋口一葉ものがたり』
(日野多香子作・山本典子絵)
教育出版センター
画像
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