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2015年07月04日
今週の全力!脱力タイムズ
2週間ぶりに見れました。
やっぱり週の終わりにはこれを見ないと何か落ち着かない、そんな人も結構増えてきたんじゃないでしょうか。
今週は天海祐希さん。
赤いスーツにメガネが格好良い!!
途中、天海さんがコメンテーターを叱るという良く分からないコーナーがありましたが、
「岸くん、しっかりしなさい!」と言われて静かに笑いをこらえる経済学者の岸さんがとても面白かったです。
カメラが引くと、天海さん、コメンテーター全員が静かに笑いをこらえていて・・・またその感じがひしひしと伝わってくるんです。もう貰い笑い必死でした。
驚いたのは天海さんの黒柳徹子のモノマネのグレードの高さです。
めっちゃ似てますよ!友近の黒柳さんのモノマネくらい似てるんじゃないでしょうか?
天海さんがやっているというギャップに、鼻に手を当てて声を変えているというあからさまなテクニックも面白く、これらを総合すると友近さんを超えているかもしれません。
何か長いなーと思ったら、今週は1時間スペシャルだったんですね。
ちょっと1時間は重たい・・・気がします。
味の濃いステーキってあんまり量を食べられないですよね?
今回はちょっとそんな感じでした。
この番組は30分が丁度良いと思います。
「え?もう終わり??」っていう腹八分目が脱力には似合いますね。
また来週が楽しみです!面白い!
やっぱり週の終わりにはこれを見ないと何か落ち着かない、そんな人も結構増えてきたんじゃないでしょうか。
今週は天海祐希さん。
赤いスーツにメガネが格好良い!!
途中、天海さんがコメンテーターを叱るという良く分からないコーナーがありましたが、
「岸くん、しっかりしなさい!」と言われて静かに笑いをこらえる経済学者の岸さんがとても面白かったです。
カメラが引くと、天海さん、コメンテーター全員が静かに笑いをこらえていて・・・またその感じがひしひしと伝わってくるんです。もう貰い笑い必死でした。
驚いたのは天海さんの黒柳徹子のモノマネのグレードの高さです。
めっちゃ似てますよ!友近の黒柳さんのモノマネくらい似てるんじゃないでしょうか?
天海さんがやっているというギャップに、鼻に手を当てて声を変えているというあからさまなテクニックも面白く、これらを総合すると友近さんを超えているかもしれません。
何か長いなーと思ったら、今週は1時間スペシャルだったんですね。
ちょっと1時間は重たい・・・気がします。
味の濃いステーキってあんまり量を食べられないですよね?
今回はちょっとそんな感じでした。
この番組は30分が丁度良いと思います。
「え?もう終わり??」っていう腹八分目が脱力には似合いますね。
また来週が楽しみです!面白い!
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2015年07月03日
信頼関係・・・?
人と人との信頼関係を作るためには、段階を踏んでいくことが必要なのだそうです。
その一番最初の段階として、
「挨拶をする」
「名前を呼ぶ」
ということが挙げられる、という話を聞きました。
理由はよく分かりませんが、納得できる話だと思います。
挨拶をしない、会釈をしない、名前を呼ばないという人に対して、自分が信頼を置くことができるかどうかを少し考えてみると感覚的に分かる気がします。
逆に、挨拶をしてくる人に対しては、特に根拠もないのに「挨拶ができていい人だ」というような印象を持ってしまうのではないでしょうか。
このことを考えているときに、はっとすることがありました。
実は、私の苦手な行動の一つに「人の名前を呼ぶのが苦手」という事があります。
恥ずかしい・・・という訳ではありません。
良く知らない人に対して、名前を呼ぶ直前に、名前を忘れてしまうことが多いのです。
または、名前を覚えていても、急に「本当にこの名前で合っていただろうか??」と不安になってしまうことがあります。
その結果、名前を呼べない→苦手意識が植えつけられる、という状態になっています。
これは記憶力の問題なのかと思っていましたが、ひょっとすると、人間に対しての無意識下の信頼のなさが、自分自身に他人の名前を呼ぶことを避けさせているのではないか、と思ったのです。
まずは他人を信頼するよう努めることが、自分自身の第一歩なのかもしれません。
少し面白い気付きでした。正解なのかどうかは分かりませんが・・・。
無意識のうちに他人への不信感を積み上げていき、気が付けば自分自身を縛る鎖にしてしまっているのかもしれません。
その一番最初の段階として、
「挨拶をする」
「名前を呼ぶ」
ということが挙げられる、という話を聞きました。
理由はよく分かりませんが、納得できる話だと思います。
挨拶をしない、会釈をしない、名前を呼ばないという人に対して、自分が信頼を置くことができるかどうかを少し考えてみると感覚的に分かる気がします。
逆に、挨拶をしてくる人に対しては、特に根拠もないのに「挨拶ができていい人だ」というような印象を持ってしまうのではないでしょうか。
このことを考えているときに、はっとすることがありました。
実は、私の苦手な行動の一つに「人の名前を呼ぶのが苦手」という事があります。
恥ずかしい・・・という訳ではありません。
良く知らない人に対して、名前を呼ぶ直前に、名前を忘れてしまうことが多いのです。
または、名前を覚えていても、急に「本当にこの名前で合っていただろうか??」と不安になってしまうことがあります。
その結果、名前を呼べない→苦手意識が植えつけられる、という状態になっています。
これは記憶力の問題なのかと思っていましたが、ひょっとすると、人間に対しての無意識下の信頼のなさが、自分自身に他人の名前を呼ぶことを避けさせているのではないか、と思ったのです。
まずは他人を信頼するよう努めることが、自分自身の第一歩なのかもしれません。
少し面白い気付きでした。正解なのかどうかは分かりませんが・・・。
無意識のうちに他人への不信感を積み上げていき、気が付けば自分自身を縛る鎖にしてしまっているのかもしれません。
2015年07月01日
ONE OK ROCK とかけて・・・
一人でも大丈夫だぜと解く。
その心は?
ONE ・・・一人?
OK ・・・オーケーだよ。
ROCK ・・・それがロックだ!!
な〜んてことを、ワンオクのアルバム・ジャケットをぼーっと見ていて思い付きました。
でも自分にとってはいい励ましだなと思います。
ワンオクが後押ししてくれているような、そんな言葉なんだと、勝手に思うことにしました!
その心は?
ONE ・・・一人?
OK ・・・オーケーだよ。
ROCK ・・・それがロックだ!!
な〜んてことを、ワンオクのアルバム・ジャケットをぼーっと見ていて思い付きました。
でも自分にとってはいい励ましだなと思います。
ワンオクが後押ししてくれているような、そんな言葉なんだと、勝手に思うことにしました!
2015年06月30日
弱虫ペダル 渡辺航(11〜31巻)
※一応ですが・・・ネタばれありです。
先週借りた弱虫ペダルを返しに行った際に、つい、勢いで借りてしまいました。
こんなに借りるつもりは無かったんですけどね。
「30冊で1200円(税抜)」のポスターが目に飛び込んできた瞬間、自然にレンタルコミックコーナーに足がいっちゃった訳です。
30冊借りるのはなかなか大変なんですが、こういうシリーズものを読んでいる時であれば、何も考えずに1冊1冊カゴに放り込むことができるので楽です。
さて、前巻に引き続きインターハイの戦いが繰り広げられます。
10巻では最初のスプリント勝負が終わり、いよいよ箱根の山に差し掛かろうというところでした。
主人公、坂道の得意分野です。そこに主将から「巻島と小野田で坂を引っ張れ」というオーダーが告げられます。さらにここで巻島のエピソードとして「去年はクライマーが一人だったため山岳賞の勝負が出来なかった。今年は小野田に任せて、思う存分山道で踏める!!」という話が展開され、ストーリーは一気に期待感を煽り、盛り上がりを予期させます。
さあ!!
箱根の上り!!
行け、巻島!!
引っ張れ坂道!!
というところで、
あれ?
坂道がいない!??
・・・
落車してんじゃん!!坂道!!
そんでもって最後尾かよ!!
という凄まじいアクシデントが総北を襲うんですね。
さっきまでの盛り上がりはどこへやら、一転して大ピンチです。
「山でみんなを引っ張る!!」といった坂道の思いや、
「今年は思う存分山道で踏める!!」といった巻島の猛る気持ちも、
全部パー・・・
巻島はチーム勝利のために自分の山岳勝負を捨て、チームを引っ張ることに専念するよう切り替えます。しかしそこに巻島のライバルである箱学の東堂が表れ、
「勝負しようぜ、巻ちゃん!!」と煽ります。
ここで二人のこれまでのエピソードが挿入され、戦い続けたライバルであること、前の戦いで巻島の自転車がパンクして最後まで勝負出来なかったこと、二人ともがこの最後の戦い(3年生のため)を心底楽しみにしていたこと・・・が読者に明らかになります。
それでも巻島はチームを優先して勝負しません。
東堂は繰り返し煽ります。勝つための戦術として煽っているのではなく、ただ巻島と勝負したいがゆえの純粋な煽りで、だからこそ巻島を強く揺さぶります。
それでも、巻島は勝負しませんでした。
東堂は悲痛な叫びを上げながら一人箱根を登っていく・・・
熱い。
熱いですよ!!
巻島は言います。
「3分だ。3分なら、追いつけるっショ」
3分て何のこと?
一方坂道は・・・?呆然と自転車を前へ進めています。
ああ、坂道のインハイはここで終わったのか・・・と思いましたが、ここでサポートに回っていた先輩の手嶋から「100人抜け!!」と背中を押され、再びペダルを回し始めます。
途中集団の壁(道いっぱいを集団で自転車を走らせているため後ろからでは抜けない)が立ち塞がるも、道路の側溝の溝を走って抜き去るというイニシャルDの拓海も驚きの戦法を使って切り抜けます。
突如として現れた御堂筋も振り切り、ついに、総北チームのもとに追いつきます!!
どうです?この展開。
多分日本全国の読者のほとんどが、この瞬間、「行け!!巻島ーーーー!!」と心の中で叫んだんじゃないでしょうか!?
そして一気に物語は佳境へ。
頂上へ向かって虚しくペダルを回す東堂のもとに、巻島が姿を現します。
「俺は今、絶好調になった!!」
そう言い放つ東堂と巻島の頂上に向けてのデッドヒート。一旦先頭に立った他の選手をあっという間に抜き去る!さあ、山を制するのはいったいどっちだ!?
どっちだ!!??
というところで箱根の山岳勝負編はラストを告げます。
ふう・・・凄い勝負だった。。。
(ここで自分は一旦燃え尽きました)
しかし、そう思ったのもつかの間、金城が「このジャージを一番のゴールに叩きこむ!!」とか言い出します。
え、今日のレースはこれで終わりじゃないの??
まだ続くの??
そうなんです。私自身、自転車ロードレースのルールを全然知らなかったんですけれど、前巻のスプリント勝負も、今回の山岳勝負も、レースの勝敗を決める勝負では無かったんです。
(大事なエッセンスではあるようですが)
本当の勝負は、「1日目のラストのゴールを誰が最初に切るか」という事だったんです。
そうとは知らない私としては気分的にさっきまでの山岳勝負で完全に燃え尽きていたわけで、再度心を奮い立たせ、めくるめく金城と福富との勝負に進んでいかないといけません。
実際に箱根を登り切ったような疲労感を覚える中、そこへ迫る御堂筋にハラハラさせられ、そして1日目のゴールへ・・・。
そしてレースは2日目、そして3日目と続きます。
この3日目のゴールを最初に切ったチームが勝つ訳です。
まだドラマは全然これからなんですよ。これだけ熱い戦いを繰り広げたにも関わらず。
それにしても、自転車ロードレースって独特ですね。
通常のスポーツ漫画なら、インターハイに出て、一回戦で強敵とあたり、次に二回戦、三回戦・・・と次々と違うチームと戦っていくという展開になります。野球やサッカー、柔道、バスケ、種目は違ってもこの展開は基本的に共通で、読者としても読み慣れているんですよね。
でも自転車レースは違うんですね。
1日目、2日目、3日目と一つのレースを全チーム・全出場選手が一斉に走る。
しかもずっと走りっぱなし。
そういえば作中でインターハイが始まる前に「20チーム・6人が一斉に走る。120人だ。こんなスポーツ、他には無え!!」と誰かが言っていました。あ、あれって、こういうことなんだ、と初めて体で理解することが出来ました。
6人それぞれが役割を持ち、最後3日目のゴールにその中のたった1人を誰よりも早く送り届けるために全力を尽くす。
これまでのスポーツ漫画にない新しい展開に、最初は戸惑いながらも、気が付けば初めての興奮を覚えている。これが、この「弱虫ペダル」が伝えようとする魅力そのものなんだな、と感じました。
一応31巻までには最初のインターハイ編は終わりますが、まとめて読むの、結構大変です。
過酷なロードレースの時間をずっと追っていく訳ですから、言うなれば読者も長い長いロードレース競技の間ずっと自転車を走らせている訳です。
疲労感は凄いものでした。
読み終えると同時に、倒れるように寝てしまったことからも、分かると思います。
続きを読むには少し体調を整えないといけないと感じる、こんな漫画は初めてでした。
面白さのあまり、読み手も疲労する漫画。
それが弱虫ペダルです。
というところで今日のまとめにしたいと思います。
長くなってしまいすみませんでした。
※読んでいただいた方、ありがとうございました。
2015年06月24日
弱虫ペダル 渡辺航(1〜10巻)
巷では自転車ブームが起きていますが、その火付け役の一つとして大きな役割を果たしていると言われている(注:私の想像です)この「弱虫ペダル」。
すごい流行っています!面白いと私の周りでも評判でした。
というわけで遅ればせながら、いつものようにレンタルコミックで読んでみました。
【結論】
面白い!
自転車が買いたくなる!
以上!ではちょっと本読みとして物足りないので、10巻までしか読んでいない身ではありますが、この漫画の面白さを考えてみたいと思います。
◯初心者な主人公
主人公(小野田)・・・初心者だけど、潜在能力が凄い
サブ主人公(今泉)・・・自転車一筋のエリート。無愛想でイケメン。
どうでしょう。この構成見たことありませんか?
そうです。スラムダンクと同じ構成です。主人公がオタクかヤンキーかという違いはありますが、桜木と流川のコンビにとても良く似ています。
この構成のいいところは、主人公が「素質のある」初心者であるため、あっという間に成長をしていく話を描けるということです。ちょっとしたことをきっかけに、また、努力により、ぐんぐん成長していく主人公を見るのは誰でも楽しいでしょう。
また、「競技自転車」というあまり知られていないジャンルを漫画化するにあたって問題となる、「素人に競技自転車の面白さをどう分かってもらうか」ということについても、この構成は有効です。
なぜなら主人公が読者と同じく素人であるため、競技自転車というものを一つ一つ一緒に知っていくことができるからです。
今泉君や女の子(名前忘れた・・・)などの登場人物を助言者として、最初は「ペダルの高さ」、次は「フロントギヤ」、次は「ロードレーサー」というように、競技自転車ワールドに少しずつ連れて行かれていく構成となっており、自然に世界に入って行くことができるように工夫されています。
◯試練→挫折→助力者→獲得→克服のサイクル
物語の基本的な構成ですが、これを(今のところ)忠実に繰り返しています。
この構成はとてもメリハリが効いて面白いです。
デメリットはあまりに続くとマンネリ化してしまうところですが、競技自転車の要素を一つ一つ小出しにしていくことで、上手くそれを避けているのはなかなか上手いなーと思います。
◯画力
上手いです。
◯自転車の魅力
誰でも乗ったことがある「ママチャリ」をスタートにしているところが上手いです。
ママチャリとロードレーサーを上手く対比させ、ロードレーサーの魅力を最大限に見せている気がします。そして不思議なのは、描かれているその魅力が、すっと自分の中に入ってくるところです。
ロードレーサーって面白いんじゃないのか・・・?と気が付けば「買いたい」と考えるようになっていました。
「踏めば前へ進む」という自転車の魅力を多くの読者が本来知っているんでしょうね。特定のスポーツであれば競技人口・やったことのある人はある程度限られますが、自転車はかなり多くの人が乗ったことはあるものなので、そういう魅力ある題材を選んだことも面白さのベースになっているんだと思います。
こんなところでしょうか?
とにかく想像以上に面白かったです。
早く続きが読みたい!そしてロードレーサー買いたい!ヾ(゚Д゚ )ォィォィ
【追記】
サブ主人公である1年生の今泉と鳴子のコンビ、どこかで見たことある感じだなーと思っていたんですが・・・
今日、それをふと思いつきました。
特徴を整理すると次のとおりです。
◯今泉・・・長身、つり目、無愛想
◯鳴子・・・小柄、関西弁、よく喋る、自転車にアツい思い入れがある
そう、バリバリ伝説のグンと秀吉のコンビに似てるんです。グンは長身でつり目で無愛想で、秀吉は小柄で関西弁でよく喋ります。それにライバル心がものすごく強く、競り合うことでお互いが成長していきました。いやー、懐かしい。
この組み合わせは王道なのかもしれないですね。
お笑いコンビでいうとナインティナインでしょうか。
ちょっと面白い思いつきだな−と思いました。
すごい流行っています!面白いと私の周りでも評判でした。
というわけで遅ればせながら、いつものようにレンタルコミックで読んでみました。
【結論】
面白い!
自転車が買いたくなる!
以上!ではちょっと本読みとして物足りないので、10巻までしか読んでいない身ではありますが、この漫画の面白さを考えてみたいと思います。
◯初心者な主人公
主人公(小野田)・・・初心者だけど、潜在能力が凄い
サブ主人公(今泉)・・・自転車一筋のエリート。無愛想でイケメン。
どうでしょう。この構成見たことありませんか?
そうです。スラムダンクと同じ構成です。主人公がオタクかヤンキーかという違いはありますが、桜木と流川のコンビにとても良く似ています。
この構成のいいところは、主人公が「素質のある」初心者であるため、あっという間に成長をしていく話を描けるということです。ちょっとしたことをきっかけに、また、努力により、ぐんぐん成長していく主人公を見るのは誰でも楽しいでしょう。
また、「競技自転車」というあまり知られていないジャンルを漫画化するにあたって問題となる、「素人に競技自転車の面白さをどう分かってもらうか」ということについても、この構成は有効です。
なぜなら主人公が読者と同じく素人であるため、競技自転車というものを一つ一つ一緒に知っていくことができるからです。
今泉君や女の子(名前忘れた・・・)などの登場人物を助言者として、最初は「ペダルの高さ」、次は「フロントギヤ」、次は「ロードレーサー」というように、競技自転車ワールドに少しずつ連れて行かれていく構成となっており、自然に世界に入って行くことができるように工夫されています。
◯試練→挫折→助力者→獲得→克服のサイクル
物語の基本的な構成ですが、これを(今のところ)忠実に繰り返しています。
この構成はとてもメリハリが効いて面白いです。
デメリットはあまりに続くとマンネリ化してしまうところですが、競技自転車の要素を一つ一つ小出しにしていくことで、上手くそれを避けているのはなかなか上手いなーと思います。
◯画力
上手いです。
◯自転車の魅力
誰でも乗ったことがある「ママチャリ」をスタートにしているところが上手いです。
ママチャリとロードレーサーを上手く対比させ、ロードレーサーの魅力を最大限に見せている気がします。そして不思議なのは、描かれているその魅力が、すっと自分の中に入ってくるところです。
ロードレーサーって面白いんじゃないのか・・・?と気が付けば「買いたい」と考えるようになっていました。
「踏めば前へ進む」という自転車の魅力を多くの読者が本来知っているんでしょうね。特定のスポーツであれば競技人口・やったことのある人はある程度限られますが、自転車はかなり多くの人が乗ったことはあるものなので、そういう魅力ある題材を選んだことも面白さのベースになっているんだと思います。
こんなところでしょうか?
とにかく想像以上に面白かったです。
早く続きが読みたい!そしてロードレーサー買いたい!ヾ(゚Д゚ )ォィォィ
【追記】
サブ主人公である1年生の今泉と鳴子のコンビ、どこかで見たことある感じだなーと思っていたんですが・・・
今日、それをふと思いつきました。
特徴を整理すると次のとおりです。
◯今泉・・・長身、つり目、無愛想
◯鳴子・・・小柄、関西弁、よく喋る、自転車にアツい思い入れがある
そう、バリバリ伝説のグンと秀吉のコンビに似てるんです。グンは長身でつり目で無愛想で、秀吉は小柄で関西弁でよく喋ります。それにライバル心がものすごく強く、競り合うことでお互いが成長していきました。いやー、懐かしい。
この組み合わせは王道なのかもしれないですね。
お笑いコンビでいうとナインティナインでしょうか。
ちょっと面白い思いつきだな−と思いました。
2015年06月22日
「原因」と「結果」の法則についてB
ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則」』(訳:坂本貢一 サンマーク出版)の続きです。
「思いと環境」の章の続き
P33
”「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して前で報いたり、前に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。”
の解説の箇所の続きからです。
対比する例としてトウモロコシやイラクサの話に触れ、続けて
P34
”この法則が自然界のなかで機能していることは、誰もが知っています。でも、それが個人の人生のなかでもまったく同じように機能している人は、とても少数です。”
また出てきました。「個人の人生のなかで」という言葉です。
法則は世界の中で成り立っているのではなく、あくまで「個人の人生のなかで」機能しているということを説明しています。
これは一見見落としがちな箇所かもしれませんが、ここをしっかり捉えておかないと「そうは言っても自分が善い行いをしても、不運続きで全然善いことが自分に帰ってこないじゃないか」という誤った認識につながり、「原因と結果の法則」を意味のない理想論として見限ってしまうことになりかねない、重要な箇所だと思いました。
P35
”私たちに苦悩をもたらす環境は、私たち自身の精神的混乱の結果です。私たちに喜びをもたらす環境は、私たち自身の精神的調和の結果です。”
この箇所は、P22の
”人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。”
という箇所の言い換えだと考えられます。
ここでようやく、この章の主題の分かりやすい形での提供が行われたと見ていいでしょう。
筆者が真実として紹介した「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」のうち、「人格の製作者」「環境の設計者」の2つの箇所については説明がされました。
なるほど、これが原因と結果の法則ということなのですね。
この真実のうち、残るは「運命の設計者」です。
これはどの箇所で説明されていくのでしょうか、しっかりと読んでいきたいと思います。
P37
”この宇宙を動かしているのは、混乱ではなく秩序です。”
という言葉が唐突に出てきますが、これは筆者の信念だと考えるべきでしょう。なぜならこの内容についてこれまで一切論じられていませんし、引用もありませんし、この章においてはこの点に関する説明はありません。
あるいは宗教的な共通認識として西洋にある考え方なのかもしれません。
ここは、「このような考え方に立つと」というくらいで留めておいたので良いと思います。
・・・そしてここから先は、「思いが環境をつくる」ということの例示が続きます。例を重ねることで、主張をより分かりやすい形で見せようとしている部分でしょう。
という事で、この章「思いと環境」は一旦幕を閉じます。
この章では、「運命の設計」というところまでは論が進まなかったようです。そりゃそうですね。
次の章は「思いと健康」。
さて、次は環境ではなく健康。一体どのような論が展開されるのか、しっかりと読んでいきたいと思います。
「思いと環境」の章の続き
P33
”「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して前で報いたり、前に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。”
の解説の箇所の続きからです。
対比する例としてトウモロコシやイラクサの話に触れ、続けて
P34
”この法則が自然界のなかで機能していることは、誰もが知っています。でも、それが個人の人生のなかでもまったく同じように機能している人は、とても少数です。”
また出てきました。「個人の人生のなかで」という言葉です。
法則は世界の中で成り立っているのではなく、あくまで「個人の人生のなかで」機能しているということを説明しています。
これは一見見落としがちな箇所かもしれませんが、ここをしっかり捉えておかないと「そうは言っても自分が善い行いをしても、不運続きで全然善いことが自分に帰ってこないじゃないか」という誤った認識につながり、「原因と結果の法則」を意味のない理想論として見限ってしまうことになりかねない、重要な箇所だと思いました。
P35
”私たちに苦悩をもたらす環境は、私たち自身の精神的混乱の結果です。私たちに喜びをもたらす環境は、私たち自身の精神的調和の結果です。”
この箇所は、P22の
”人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。”
という箇所の言い換えだと考えられます。
ここでようやく、この章の主題の分かりやすい形での提供が行われたと見ていいでしょう。
筆者が真実として紹介した「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」のうち、「人格の製作者」「環境の設計者」の2つの箇所については説明がされました。
なるほど、これが原因と結果の法則ということなのですね。
この真実のうち、残るは「運命の設計者」です。
これはどの箇所で説明されていくのでしょうか、しっかりと読んでいきたいと思います。
P37
”この宇宙を動かしているのは、混乱ではなく秩序です。”
という言葉が唐突に出てきますが、これは筆者の信念だと考えるべきでしょう。なぜならこの内容についてこれまで一切論じられていませんし、引用もありませんし、この章においてはこの点に関する説明はありません。
あるいは宗教的な共通認識として西洋にある考え方なのかもしれません。
ここは、「このような考え方に立つと」というくらいで留めておいたので良いと思います。
・・・そしてここから先は、「思いが環境をつくる」ということの例示が続きます。例を重ねることで、主張をより分かりやすい形で見せようとしている部分でしょう。
という事で、この章「思いと環境」は一旦幕を閉じます。
この章では、「運命の設計」というところまでは論が進まなかったようです。そりゃそうですね。
次の章は「思いと健康」。
さて、次は環境ではなく健康。一体どのような論が展開されるのか、しっかりと読んでいきたいと思います。
2015年06月21日
ONE OK ROCK 35xxxv JAPAN TOUR
に行ってきました。
突然ですが今日は音楽についての記事です。
実は私にとっては人生ほぼ初となるライブでして、ライブのDVDなんかを見ていて「あんなノリに付いて行けるんだろうか・・・」「あんなに手を振ったり、頭を激しく振ったりして大丈夫なんだろうか・・・」と音楽を楽しむというよりも変な心配ばかりをして会場に向かった訳なんですけれど・・・。
もうね。最高でした。
Takaの声、ドラム、ギター、ベース、全ての音が存在感をもって全身を叩きつけてくる2時間ちょっと。
会場の視覚効果とも相まってもう本当にカッコ良いとしか言えない素晴らしいライブでした。
会場(愛媛県武道館)が小さいのでしょうか?Takaも「このライブツアーの中で多分一番近い」と言っていましたが、演奏者の姿がしっかりと肉眼で見え、動きのほぼ全てが手に取るように感じ取れました(後ろの方の席だったので表情までは分かりませんでしたが)。
気が付けば手も体も振りまくりで、あーこれは確実に筋肉痛だなーと思いはしましたが、ぶんぶん振り回してしまいました。普段は相当重く感じる腕ですのに不思議です。人間の体なんて気持ち一つでどうにでもなっちゃうんですね。
音を全身で感じるだけでなく、振動、匂い、暑さ、会場の雰囲気、観客の動き、いろいろなものがライブではいっぺんに押し寄せてきます。そして「音楽を一緒に作り上げていく」という一体感。クラシックの演奏会には割と行きましたが、やっぱりロック音楽も、ライブで聞くのが一番面白いんですね。
この瞬間にしかない音を聞く。
この音、この曲、この雰囲気は、今のこの瞬間にしか存在しない、そして次の瞬間には消えていく。
舞台芸術の素晴らしさは、やっぱりライブで確かめるしかないんだなあと痛感しました。
目を閉じると、ライブでのTakaの美しく、時にはかすれるほど乱暴な、パワーのある声が蘇ってくるようです。
「パワーを届けます」とTakaが言っていました。
人には会うことでしか感じられないパワーがあると私も思います。
ライブの参加者の一員として、TakaたちONE OK ROCKのメンバーのパワーがわずかですが自分にも宿った気がしました。
突然ですが今日は音楽についての記事です。
実は私にとっては人生ほぼ初となるライブでして、ライブのDVDなんかを見ていて「あんなノリに付いて行けるんだろうか・・・」「あんなに手を振ったり、頭を激しく振ったりして大丈夫なんだろうか・・・」と音楽を楽しむというよりも変な心配ばかりをして会場に向かった訳なんですけれど・・・。
もうね。最高でした。
Takaの声、ドラム、ギター、ベース、全ての音が存在感をもって全身を叩きつけてくる2時間ちょっと。
会場の視覚効果とも相まってもう本当にカッコ良いとしか言えない素晴らしいライブでした。
会場(愛媛県武道館)が小さいのでしょうか?Takaも「このライブツアーの中で多分一番近い」と言っていましたが、演奏者の姿がしっかりと肉眼で見え、動きのほぼ全てが手に取るように感じ取れました(後ろの方の席だったので表情までは分かりませんでしたが)。
気が付けば手も体も振りまくりで、あーこれは確実に筋肉痛だなーと思いはしましたが、ぶんぶん振り回してしまいました。普段は相当重く感じる腕ですのに不思議です。人間の体なんて気持ち一つでどうにでもなっちゃうんですね。
音を全身で感じるだけでなく、振動、匂い、暑さ、会場の雰囲気、観客の動き、いろいろなものがライブではいっぺんに押し寄せてきます。そして「音楽を一緒に作り上げていく」という一体感。クラシックの演奏会には割と行きましたが、やっぱりロック音楽も、ライブで聞くのが一番面白いんですね。
この瞬間にしかない音を聞く。
この音、この曲、この雰囲気は、今のこの瞬間にしか存在しない、そして次の瞬間には消えていく。
舞台芸術の素晴らしさは、やっぱりライブで確かめるしかないんだなあと痛感しました。
目を閉じると、ライブでのTakaの美しく、時にはかすれるほど乱暴な、パワーのある声が蘇ってくるようです。
「パワーを届けます」とTakaが言っていました。
人には会うことでしか感じられないパワーがあると私も思います。
ライブの参加者の一員として、TakaたちONE OK ROCKのメンバーのパワーがわずかですが自分にも宿った気がしました。
2015年06月20日
アイムホーム#10(最終回)
毎週楽しみにしていたドラマが終わったときは、嬉しさや感動、寂しさを覚えたりと色々な感情が沸き起こるものだと思います。
中には「エヴァンゲリオン」の時のように「何だよコレ!!!」と呆然とすることなんかもある訳ですが、まあ、こういうのは比較的少数派でしょう。
アイムホームは・・・
良かったですね。(*^^)v
ドラマのストーリーやメッセージについては色々ありますが、このドラマのメインは何と言っても「木村拓哉」です。
最終回で沢村一樹がひょいと出てきて、抜群の存在感で持ってかれそうになりますが、彼の前で複雑な立ち回りを求められる「家路久」をしっかりと演じていたなーと思いました。
少々オーバーに見えるところもあったかな?とは思いますが、「キムタク」ではなく「家路久」をしっかりと見せていて、格好良かったなーと素直に思いました。
昔、同じ木村拓哉の記憶喪失ものドラマで「ギフト」という作品がありました。
だいぶ前ですね。
このときはどっから見ても「キムタク」にしか見えず、また、最終回で出てきた父親役の緒形拳に存在感をごっそり持っていかれるみたいな感じもしましたが、今回は違いました。
まあ、年数が経ちましたが、いちファンとして「成長したなあ〜〜」と思いました。
子どもに黙って遺伝子検査をするときの顔、悪そーーーな顔でした。最高!!
ドラマの謎は一応全て明かされ(細かくチェックしていないので)、かつての自分と決別して、人を愛すること、信じることに希望を見出すというテーマも描かれ、後味の良いドラマでした。
でも最終回よりかは、途中の幾つかの回に記憶に残るエピソードがあった気がします。
ま、それが「いいドラマ」であることの証でしょうね。
ドラマはひとつひとつのエピソードの積み重ねですから。
アイムホーム製作者、出演者の皆様、ありがとうございました!!
中には「エヴァンゲリオン」の時のように「何だよコレ!!!」と呆然とすることなんかもある訳ですが、まあ、こういうのは比較的少数派でしょう。
アイムホームは・・・
良かったですね。(*^^)v
ドラマのストーリーやメッセージについては色々ありますが、このドラマのメインは何と言っても「木村拓哉」です。
最終回で沢村一樹がひょいと出てきて、抜群の存在感で持ってかれそうになりますが、彼の前で複雑な立ち回りを求められる「家路久」をしっかりと演じていたなーと思いました。
少々オーバーに見えるところもあったかな?とは思いますが、「キムタク」ではなく「家路久」をしっかりと見せていて、格好良かったなーと素直に思いました。
昔、同じ木村拓哉の記憶喪失ものドラマで「ギフト」という作品がありました。
だいぶ前ですね。
このときはどっから見ても「キムタク」にしか見えず、また、最終回で出てきた父親役の緒形拳に存在感をごっそり持っていかれるみたいな感じもしましたが、今回は違いました。
まあ、年数が経ちましたが、いちファンとして「成長したなあ〜〜」と思いました。
子どもに黙って遺伝子検査をするときの顔、悪そーーーな顔でした。最高!!
ドラマの謎は一応全て明かされ(細かくチェックしていないので)、かつての自分と決別して、人を愛すること、信じることに希望を見出すというテーマも描かれ、後味の良いドラマでした。
でも最終回よりかは、途中の幾つかの回に記憶に残るエピソードがあった気がします。
ま、それが「いいドラマ」であることの証でしょうね。
ドラマはひとつひとつのエピソードの積み重ねですから。
アイムホーム製作者、出演者の皆様、ありがとうございました!!
2015年06月17日
今週のビートたけしのTVタックル
”今、日本の動物園が揺れている!!
動物園はいる? いらない?
動物愛護家と名物園長が激突!!”
というタイトルで、
「動物園は檻に閉じ込めて動物を虐待している」というアニマルライツセンター代表 岡田千尋氏
「動物を絶滅から救うのが動物園だ」という旭山動物園 前園長 小菅正夫氏
をはじめとする動物関係者が討論を行っていました。
全く異なる2つの立場からの討論がとても興味深かったです。
短い番組の放送時間(のさらに一部のコーナー)では、それぞれの主張を完全に理解するためには時間が短すぎるとは思いますが、私は小菅氏の「動物園は必要」という主張に賛成だなーと思いました。
岡田氏の主張は凄かったです。
「動物園で見られるのは動物の真の姿ではないから誤った認識を持たせる。見せないほうがいい」
「ライオンはアフリカに行って見ればいい」
「行けない人はテレビで見ればいい」
というようなことを言っていたと思ったのですが、中でも「テレビで見ればいい」っていうのはちょっと極論だなと思いました。
大竹さんが「テレビじゃ臭いもないんだよ!?」とツッこんでいた感覚が、実は大切なんじゃないかなーと思うんですよね。
もちろん岡田氏の主張にも正しい点はあると思います。
閉鎖された飼育空間の中で動物本来の動きや機能を発揮できる訳はないと思います。
でも本やテレビで得られる知識と、動物園で間近に見て得られる感覚とでは情報量が圧倒的に違います。人間だって動物ですから、五感を使って得られる情報の方が圧倒的に多いんです。
こんな話をしていた方がいたのですが、
「好きにならないと本気で守れない。知らないと好きになれない。自分の体で触れ、知るきっかけになる施設の意義は大きい」
これは動物の事ではなかったのですが、動物についても全く同じことが言えると思います。
でも一つのことについて、やはり色々な考え方があるということは当然なことで、それはとても興味深いことです。
考えるいいきっかけになる番組でした。
それにしても深夜枠に移動してからのTVタックル(たまにしか見ないのですが・・・)は、ぐんと面白くなった気がします。
動物園はいる? いらない?
動物愛護家と名物園長が激突!!”
というタイトルで、
「動物園は檻に閉じ込めて動物を虐待している」というアニマルライツセンター代表 岡田千尋氏
「動物を絶滅から救うのが動物園だ」という旭山動物園 前園長 小菅正夫氏
をはじめとする動物関係者が討論を行っていました。
全く異なる2つの立場からの討論がとても興味深かったです。
短い番組の放送時間(のさらに一部のコーナー)では、それぞれの主張を完全に理解するためには時間が短すぎるとは思いますが、私は小菅氏の「動物園は必要」という主張に賛成だなーと思いました。
岡田氏の主張は凄かったです。
「動物園で見られるのは動物の真の姿ではないから誤った認識を持たせる。見せないほうがいい」
「ライオンはアフリカに行って見ればいい」
「行けない人はテレビで見ればいい」
というようなことを言っていたと思ったのですが、中でも「テレビで見ればいい」っていうのはちょっと極論だなと思いました。
大竹さんが「テレビじゃ臭いもないんだよ!?」とツッこんでいた感覚が、実は大切なんじゃないかなーと思うんですよね。
もちろん岡田氏の主張にも正しい点はあると思います。
閉鎖された飼育空間の中で動物本来の動きや機能を発揮できる訳はないと思います。
でも本やテレビで得られる知識と、動物園で間近に見て得られる感覚とでは情報量が圧倒的に違います。人間だって動物ですから、五感を使って得られる情報の方が圧倒的に多いんです。
こんな話をしていた方がいたのですが、
「好きにならないと本気で守れない。知らないと好きになれない。自分の体で触れ、知るきっかけになる施設の意義は大きい」
これは動物の事ではなかったのですが、動物についても全く同じことが言えると思います。
でも一つのことについて、やはり色々な考え方があるということは当然なことで、それはとても興味深いことです。
考えるいいきっかけになる番組でした。
それにしても深夜枠に移動してからのTVタックル(たまにしか見ないのですが・・・)は、ぐんと面白くなった気がします。
2015年06月15日
「原因」と「結果」の法則についてA
ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則」』(訳:坂本貢一 サンマーク出版)の続きです。
「思いと環境」の章
前章で筆者が真実として紹介された「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」のキーワードの一つである「環境」が出てきました。
環境というのは、一人の人間を取り巻く外的環境のことでしょう。私は「環境が人を作る」というように考えています。全てでは無いですが、大きな要因の一つだと考えています。恵まれた環境は恵まれた人格を形成すること、また逆に、不幸な環境は不幸な人格を形成することは多いのではないかと。
さて、この章は”人間の心は庭のようなものです。”という例えから始まります。
P21
”すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に、私たちも、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育みつづけなくてはなりません。”
なるほど。
これは何となく分かる話です。
”思いと人格はひとつです。そして、人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。”
良く分かりません。自分自身の人格と、それを取り巻く外部環境は全く別の要因によって構成されるものではないのでしょうか?
ひょっとすると、自分の考える「環境」と、筆者が言う「環境」の定義は異なるのかもしれません。読み進めていきます。
P22
”そうではなく、「私達の環境を構成しているさまざまな状況は、どれもがみな、それぞれに、私たちの人格を構成する特定の重要な要素のあらわれである」という意味です。そして、それらの状況のすべてが、私たちのその時点以降の進歩にとって、決定的に重要なものです。”
更に筆者は
”よって、人生には、偶然という要素はまったく存在しません。私たちの人生を構成しているあらゆる要素が、けっして誤ることを知らない法則が正確に機能した結果なのです。”
と続けます。
これは筆者の考えですね。私は人生には偶然という要素が少なくとも存在すると考えます。でも筆者のような考え方を持つとすると、一体どのようになるというのでしょうか。
そういえば、先ほど出てきた「私たちの人格を構成する特定な重要の要素」とは何なのでしょうか?何となく読み飛ばしましたが、よく考えてみるとはっきりとはまだ分かりません。今までの原因と結果の法則からいえば、「人格を構成する」ということはすなわち「結果」であり、今まで「結果」として語られたのは「思いの結果としての人格」です。
・・・まだ良くわかりません。この疑問点は一旦置いておき、進めましょう。
あ、ありました。
”私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。しかし、「自分は創造のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる」ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。”
”環境を育むための土壌と種(心と思い)”と、先ほどのP22からの引用部分とは対比になっていると考えられます。ここから考えられることは、私たちの人格を構成する特定の重要な要素=「心と思い」であり、これらが環境を育むのだ、と筆者は考えているということです。
P24
”そして環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体です。”
環境についての筆者の考えが出されました。
筆者はこのように考えているのだと理解します。
「環境は自分自身の心と思いにより育まれたものであり、心とともに変化するものである。そしてさらに、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体である」
「媒体である」という表現から考えられるのは、筆者が環境そのもの自体にはあまり意味を見ていないということです。自身を取り巻く環境が一体どういうものであるかということではなく、環境を通じて自分自身が何を受け取るのか、という行為と内容にこそ環境の存在意義があるのだ、と考えているのでしょう。
続いて書中では「原因と結果の法則」のしくみが説明されます。
「心の中に蒔かれた思い→同種のものを生み出す→行いとして花開く→環境という実を結ぶ」
良い思いは良い環境を、悪い思いは悪い環境を生み出すというのがこのくだりです。
まあ、良く言われていることだと思います。このあたりは事実がどうかという事ではなく、事実を見て真実をどのように考えるかということの解釈の一つ、という事でしょう。
しばらくはこの点の説明が繰り返されます。
ふと、話が展開します。
P28
”この真実の光のもとで眺めたとき、「環境と戦う」とは、どういうことなのでしょう。それは、自分自身の内側で「原因」を養いながら、外側の「結果」に戦いを挑むことにほかなりません。”
ちょっと興味を引くフレーズです。人は自分にとって不利益な環境下にあると気づいた時、一般的には、その環境を変えようと奮闘するか、あるいはその環境から逃避するか、環境への耐性を獲得しようとするか、いずれかの行動を取ろうとするのではないでしょうか?少なくとも私はそう考えていました。けれども筆者は、その行為は、自分で原因を作りながら一方ではそれに戦いを挑むという、無意味で限度のないものだと指摘しています。
筆者にとって環境はあくまで自分自身の思いの「結果」だとこれまで述べられてきました。結果である環境に戦いを挑むことは無意味な行いであると述べている訳です。そしてここからは、「原因」こそが改善されなくてはならないものだと話を展開します。自分自身の原因により、どのような結果が得られているのかという例をいくつか紹介していきます。
P31
”また、環境はきわめて複雑です。そこには、個人のさまざまな思いが深く根づいています。幸せの条件は個人によってさまざまである、という事実もあります。よって、私たちの魂の総合的な状態を、私たちの人生の外面的特徴のみからほかの誰かが知ることは(私たち自身は知ることができるかもしれませんが)、とうてい不可能なことです。”
これは逆に言えば、他人の魂の総合的な状態(思いとそれによって発生した結果の複合体とでも考えるものべきものでしょうか?)を、他人の外面的特徴や環境から知ることは不可能なことだということでしょう。そして筆者は、「特定のことに正直→全てに正直」ではない、「特定のことに不正直→全てに不正直」ではないと続けます。思いとその現れは複雑なものだと。
しかし筆者は次のように続けます。
P33
”「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して善で報いたり、善に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。”
これを知識として筆者は表します。
何かよく言われている綺麗ごとだな・・・と思いますが、丁寧に見てみると、完璧で公正なのは「自分の心と人生内で機能している法則」と言っているのに過ぎないのですね。なるほど。世界がどうこうという話ではなく、あくまで自分の中で機能する法則(原因と結果の法則のことでしょう)が完璧で公正だと言っているのですね。
・・・むむむ。
なかなか薄い本だと思いましたが、こうやってゆっくり考えながら読んでいくと、なかなか味があります。最初に「良く分からない」と感じたのは、スルメを噛まずに飲み込んで「味がなく、美味しいかどうか分からなかった」と言っていたのと同じということなんですね。
熟読すべきかどうかを判断するかどうかの方法の一つとして速読があげられていますが、速読では、慣れている人でなければその判断もなかなか難しいと思います。しかし、多くの人に認められている「古典」は、やはり何らかの価値が多くの人に見出されている訳であり、そのような本は迷わず熟読してもいいのかもしれません。
とりあえず今日はここまで。熟読って大変だなあ。。。でもこうすることで本当の味が分かるかと思うと、やっぱりよく噛まないといけないなーと思います。
「思いと環境」の章
前章で筆者が真実として紹介された「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」のキーワードの一つである「環境」が出てきました。
環境というのは、一人の人間を取り巻く外的環境のことでしょう。私は「環境が人を作る」というように考えています。全てでは無いですが、大きな要因の一つだと考えています。恵まれた環境は恵まれた人格を形成すること、また逆に、不幸な環境は不幸な人格を形成することは多いのではないかと。
さて、この章は”人間の心は庭のようなものです。”という例えから始まります。
P21
”すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に、私たちも、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育みつづけなくてはなりません。”
なるほど。
これは何となく分かる話です。
”思いと人格はひとつです。そして、人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。”
良く分かりません。自分自身の人格と、それを取り巻く外部環境は全く別の要因によって構成されるものではないのでしょうか?
ひょっとすると、自分の考える「環境」と、筆者が言う「環境」の定義は異なるのかもしれません。読み進めていきます。
P22
”そうではなく、「私達の環境を構成しているさまざまな状況は、どれもがみな、それぞれに、私たちの人格を構成する特定の重要な要素のあらわれである」という意味です。そして、それらの状況のすべてが、私たちのその時点以降の進歩にとって、決定的に重要なものです。”
更に筆者は
”よって、人生には、偶然という要素はまったく存在しません。私たちの人生を構成しているあらゆる要素が、けっして誤ることを知らない法則が正確に機能した結果なのです。”
と続けます。
これは筆者の考えですね。私は人生には偶然という要素が少なくとも存在すると考えます。でも筆者のような考え方を持つとすると、一体どのようになるというのでしょうか。
そういえば、先ほど出てきた「私たちの人格を構成する特定な重要の要素」とは何なのでしょうか?何となく読み飛ばしましたが、よく考えてみるとはっきりとはまだ分かりません。今までの原因と結果の法則からいえば、「人格を構成する」ということはすなわち「結果」であり、今まで「結果」として語られたのは「思いの結果としての人格」です。
・・・まだ良くわかりません。この疑問点は一旦置いておき、進めましょう。
あ、ありました。
”私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。しかし、「自分は創造のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる」ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。”
”環境を育むための土壌と種(心と思い)”と、先ほどのP22からの引用部分とは対比になっていると考えられます。ここから考えられることは、私たちの人格を構成する特定の重要な要素=「心と思い」であり、これらが環境を育むのだ、と筆者は考えているということです。
P24
”そして環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体です。”
環境についての筆者の考えが出されました。
筆者はこのように考えているのだと理解します。
「環境は自分自身の心と思いにより育まれたものであり、心とともに変化するものである。そしてさらに、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体である」
「媒体である」という表現から考えられるのは、筆者が環境そのもの自体にはあまり意味を見ていないということです。自身を取り巻く環境が一体どういうものであるかということではなく、環境を通じて自分自身が何を受け取るのか、という行為と内容にこそ環境の存在意義があるのだ、と考えているのでしょう。
続いて書中では「原因と結果の法則」のしくみが説明されます。
「心の中に蒔かれた思い→同種のものを生み出す→行いとして花開く→環境という実を結ぶ」
良い思いは良い環境を、悪い思いは悪い環境を生み出すというのがこのくだりです。
まあ、良く言われていることだと思います。このあたりは事実がどうかという事ではなく、事実を見て真実をどのように考えるかということの解釈の一つ、という事でしょう。
しばらくはこの点の説明が繰り返されます。
ふと、話が展開します。
P28
”この真実の光のもとで眺めたとき、「環境と戦う」とは、どういうことなのでしょう。それは、自分自身の内側で「原因」を養いながら、外側の「結果」に戦いを挑むことにほかなりません。”
ちょっと興味を引くフレーズです。人は自分にとって不利益な環境下にあると気づいた時、一般的には、その環境を変えようと奮闘するか、あるいはその環境から逃避するか、環境への耐性を獲得しようとするか、いずれかの行動を取ろうとするのではないでしょうか?少なくとも私はそう考えていました。けれども筆者は、その行為は、自分で原因を作りながら一方ではそれに戦いを挑むという、無意味で限度のないものだと指摘しています。
筆者にとって環境はあくまで自分自身の思いの「結果」だとこれまで述べられてきました。結果である環境に戦いを挑むことは無意味な行いであると述べている訳です。そしてここからは、「原因」こそが改善されなくてはならないものだと話を展開します。自分自身の原因により、どのような結果が得られているのかという例をいくつか紹介していきます。
P31
”また、環境はきわめて複雑です。そこには、個人のさまざまな思いが深く根づいています。幸せの条件は個人によってさまざまである、という事実もあります。よって、私たちの魂の総合的な状態を、私たちの人生の外面的特徴のみからほかの誰かが知ることは(私たち自身は知ることができるかもしれませんが)、とうてい不可能なことです。”
これは逆に言えば、他人の魂の総合的な状態(思いとそれによって発生した結果の複合体とでも考えるものべきものでしょうか?)を、他人の外面的特徴や環境から知ることは不可能なことだということでしょう。そして筆者は、「特定のことに正直→全てに正直」ではない、「特定のことに不正直→全てに不正直」ではないと続けます。思いとその現れは複雑なものだと。
しかし筆者は次のように続けます。
P33
”「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して善で報いたり、善に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。”
これを知識として筆者は表します。
何かよく言われている綺麗ごとだな・・・と思いますが、丁寧に見てみると、完璧で公正なのは「自分の心と人生内で機能している法則」と言っているのに過ぎないのですね。なるほど。世界がどうこうという話ではなく、あくまで自分の中で機能する法則(原因と結果の法則のことでしょう)が完璧で公正だと言っているのですね。
・・・むむむ。
なかなか薄い本だと思いましたが、こうやってゆっくり考えながら読んでいくと、なかなか味があります。最初に「良く分からない」と感じたのは、スルメを噛まずに飲み込んで「味がなく、美味しいかどうか分からなかった」と言っていたのと同じということなんですね。
熟読すべきかどうかを判断するかどうかの方法の一つとして速読があげられていますが、速読では、慣れている人でなければその判断もなかなか難しいと思います。しかし、多くの人に認められている「古典」は、やはり何らかの価値が多くの人に見出されている訳であり、そのような本は迷わず熟読してもいいのかもしれません。
とりあえず今日はここまで。熟読って大変だなあ。。。でもこうすることで本当の味が分かるかと思うと、やっぱりよく噛まないといけないなーと思います。