2015年06月15日
「原因」と「結果」の法則についてA
ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則」』(訳:坂本貢一 サンマーク出版)の続きです。
「思いと環境」の章
前章で筆者が真実として紹介された「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」のキーワードの一つである「環境」が出てきました。
環境というのは、一人の人間を取り巻く外的環境のことでしょう。私は「環境が人を作る」というように考えています。全てでは無いですが、大きな要因の一つだと考えています。恵まれた環境は恵まれた人格を形成すること、また逆に、不幸な環境は不幸な人格を形成することは多いのではないかと。
さて、この章は”人間の心は庭のようなものです。”という例えから始まります。
P21
”すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に、私たちも、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育みつづけなくてはなりません。”
なるほど。
これは何となく分かる話です。
”思いと人格はひとつです。そして、人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。”
良く分かりません。自分自身の人格と、それを取り巻く外部環境は全く別の要因によって構成されるものではないのでしょうか?
ひょっとすると、自分の考える「環境」と、筆者が言う「環境」の定義は異なるのかもしれません。読み進めていきます。
P22
”そうではなく、「私達の環境を構成しているさまざまな状況は、どれもがみな、それぞれに、私たちの人格を構成する特定の重要な要素のあらわれである」という意味です。そして、それらの状況のすべてが、私たちのその時点以降の進歩にとって、決定的に重要なものです。”
更に筆者は
”よって、人生には、偶然という要素はまったく存在しません。私たちの人生を構成しているあらゆる要素が、けっして誤ることを知らない法則が正確に機能した結果なのです。”
と続けます。
これは筆者の考えですね。私は人生には偶然という要素が少なくとも存在すると考えます。でも筆者のような考え方を持つとすると、一体どのようになるというのでしょうか。
そういえば、先ほど出てきた「私たちの人格を構成する特定な重要の要素」とは何なのでしょうか?何となく読み飛ばしましたが、よく考えてみるとはっきりとはまだ分かりません。今までの原因と結果の法則からいえば、「人格を構成する」ということはすなわち「結果」であり、今まで「結果」として語られたのは「思いの結果としての人格」です。
・・・まだ良くわかりません。この疑問点は一旦置いておき、進めましょう。
あ、ありました。
”私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。しかし、「自分は創造のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる」ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。”
”環境を育むための土壌と種(心と思い)”と、先ほどのP22からの引用部分とは対比になっていると考えられます。ここから考えられることは、私たちの人格を構成する特定の重要な要素=「心と思い」であり、これらが環境を育むのだ、と筆者は考えているということです。
P24
”そして環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体です。”
環境についての筆者の考えが出されました。
筆者はこのように考えているのだと理解します。
「環境は自分自身の心と思いにより育まれたものであり、心とともに変化するものである。そしてさらに、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体である」
「媒体である」という表現から考えられるのは、筆者が環境そのもの自体にはあまり意味を見ていないということです。自身を取り巻く環境が一体どういうものであるかということではなく、環境を通じて自分自身が何を受け取るのか、という行為と内容にこそ環境の存在意義があるのだ、と考えているのでしょう。
続いて書中では「原因と結果の法則」のしくみが説明されます。
「心の中に蒔かれた思い→同種のものを生み出す→行いとして花開く→環境という実を結ぶ」
良い思いは良い環境を、悪い思いは悪い環境を生み出すというのがこのくだりです。
まあ、良く言われていることだと思います。このあたりは事実がどうかという事ではなく、事実を見て真実をどのように考えるかということの解釈の一つ、という事でしょう。
しばらくはこの点の説明が繰り返されます。
ふと、話が展開します。
P28
”この真実の光のもとで眺めたとき、「環境と戦う」とは、どういうことなのでしょう。それは、自分自身の内側で「原因」を養いながら、外側の「結果」に戦いを挑むことにほかなりません。”
ちょっと興味を引くフレーズです。人は自分にとって不利益な環境下にあると気づいた時、一般的には、その環境を変えようと奮闘するか、あるいはその環境から逃避するか、環境への耐性を獲得しようとするか、いずれかの行動を取ろうとするのではないでしょうか?少なくとも私はそう考えていました。けれども筆者は、その行為は、自分で原因を作りながら一方ではそれに戦いを挑むという、無意味で限度のないものだと指摘しています。
筆者にとって環境はあくまで自分自身の思いの「結果」だとこれまで述べられてきました。結果である環境に戦いを挑むことは無意味な行いであると述べている訳です。そしてここからは、「原因」こそが改善されなくてはならないものだと話を展開します。自分自身の原因により、どのような結果が得られているのかという例をいくつか紹介していきます。
P31
”また、環境はきわめて複雑です。そこには、個人のさまざまな思いが深く根づいています。幸せの条件は個人によってさまざまである、という事実もあります。よって、私たちの魂の総合的な状態を、私たちの人生の外面的特徴のみからほかの誰かが知ることは(私たち自身は知ることができるかもしれませんが)、とうてい不可能なことです。”
これは逆に言えば、他人の魂の総合的な状態(思いとそれによって発生した結果の複合体とでも考えるものべきものでしょうか?)を、他人の外面的特徴や環境から知ることは不可能なことだということでしょう。そして筆者は、「特定のことに正直→全てに正直」ではない、「特定のことに不正直→全てに不正直」ではないと続けます。思いとその現れは複雑なものだと。
しかし筆者は次のように続けます。
P33
”「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して善で報いたり、善に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。”
これを知識として筆者は表します。
何かよく言われている綺麗ごとだな・・・と思いますが、丁寧に見てみると、完璧で公正なのは「自分の心と人生内で機能している法則」と言っているのに過ぎないのですね。なるほど。世界がどうこうという話ではなく、あくまで自分の中で機能する法則(原因と結果の法則のことでしょう)が完璧で公正だと言っているのですね。
・・・むむむ。
なかなか薄い本だと思いましたが、こうやってゆっくり考えながら読んでいくと、なかなか味があります。最初に「良く分からない」と感じたのは、スルメを噛まずに飲み込んで「味がなく、美味しいかどうか分からなかった」と言っていたのと同じということなんですね。
熟読すべきかどうかを判断するかどうかの方法の一つとして速読があげられていますが、速読では、慣れている人でなければその判断もなかなか難しいと思います。しかし、多くの人に認められている「古典」は、やはり何らかの価値が多くの人に見出されている訳であり、そのような本は迷わず熟読してもいいのかもしれません。
とりあえず今日はここまで。熟読って大変だなあ。。。でもこうすることで本当の味が分かるかと思うと、やっぱりよく噛まないといけないなーと思います。
「思いと環境」の章
前章で筆者が真実として紹介された「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」のキーワードの一つである「環境」が出てきました。
環境というのは、一人の人間を取り巻く外的環境のことでしょう。私は「環境が人を作る」というように考えています。全てでは無いですが、大きな要因の一つだと考えています。恵まれた環境は恵まれた人格を形成すること、また逆に、不幸な環境は不幸な人格を形成することは多いのではないかと。
さて、この章は”人間の心は庭のようなものです。”という例えから始まります。
P21
”すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に、私たちも、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育みつづけなくてはなりません。”
なるほど。
これは何となく分かる話です。
”思いと人格はひとつです。そして、人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。”
良く分かりません。自分自身の人格と、それを取り巻く外部環境は全く別の要因によって構成されるものではないのでしょうか?
ひょっとすると、自分の考える「環境」と、筆者が言う「環境」の定義は異なるのかもしれません。読み進めていきます。
P22
”そうではなく、「私達の環境を構成しているさまざまな状況は、どれもがみな、それぞれに、私たちの人格を構成する特定の重要な要素のあらわれである」という意味です。そして、それらの状況のすべてが、私たちのその時点以降の進歩にとって、決定的に重要なものです。”
更に筆者は
”よって、人生には、偶然という要素はまったく存在しません。私たちの人生を構成しているあらゆる要素が、けっして誤ることを知らない法則が正確に機能した結果なのです。”
と続けます。
これは筆者の考えですね。私は人生には偶然という要素が少なくとも存在すると考えます。でも筆者のような考え方を持つとすると、一体どのようになるというのでしょうか。
そういえば、先ほど出てきた「私たちの人格を構成する特定な重要の要素」とは何なのでしょうか?何となく読み飛ばしましたが、よく考えてみるとはっきりとはまだ分かりません。今までの原因と結果の法則からいえば、「人格を構成する」ということはすなわち「結果」であり、今まで「結果」として語られたのは「思いの結果としての人格」です。
・・・まだ良くわかりません。この疑問点は一旦置いておき、進めましょう。
あ、ありました。
”私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。しかし、「自分は創造のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる」ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。”
”環境を育むための土壌と種(心と思い)”と、先ほどのP22からの引用部分とは対比になっていると考えられます。ここから考えられることは、私たちの人格を構成する特定の重要な要素=「心と思い」であり、これらが環境を育むのだ、と筆者は考えているということです。
P24
”そして環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体です。”
環境についての筆者の考えが出されました。
筆者はこのように考えているのだと理解します。
「環境は自分自身の心と思いにより育まれたものであり、心とともに変化するものである。そしてさらに、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体である」
「媒体である」という表現から考えられるのは、筆者が環境そのもの自体にはあまり意味を見ていないということです。自身を取り巻く環境が一体どういうものであるかということではなく、環境を通じて自分自身が何を受け取るのか、という行為と内容にこそ環境の存在意義があるのだ、と考えているのでしょう。
続いて書中では「原因と結果の法則」のしくみが説明されます。
「心の中に蒔かれた思い→同種のものを生み出す→行いとして花開く→環境という実を結ぶ」
良い思いは良い環境を、悪い思いは悪い環境を生み出すというのがこのくだりです。
まあ、良く言われていることだと思います。このあたりは事実がどうかという事ではなく、事実を見て真実をどのように考えるかということの解釈の一つ、という事でしょう。
しばらくはこの点の説明が繰り返されます。
ふと、話が展開します。
P28
”この真実の光のもとで眺めたとき、「環境と戦う」とは、どういうことなのでしょう。それは、自分自身の内側で「原因」を養いながら、外側の「結果」に戦いを挑むことにほかなりません。”
ちょっと興味を引くフレーズです。人は自分にとって不利益な環境下にあると気づいた時、一般的には、その環境を変えようと奮闘するか、あるいはその環境から逃避するか、環境への耐性を獲得しようとするか、いずれかの行動を取ろうとするのではないでしょうか?少なくとも私はそう考えていました。けれども筆者は、その行為は、自分で原因を作りながら一方ではそれに戦いを挑むという、無意味で限度のないものだと指摘しています。
筆者にとって環境はあくまで自分自身の思いの「結果」だとこれまで述べられてきました。結果である環境に戦いを挑むことは無意味な行いであると述べている訳です。そしてここからは、「原因」こそが改善されなくてはならないものだと話を展開します。自分自身の原因により、どのような結果が得られているのかという例をいくつか紹介していきます。
P31
”また、環境はきわめて複雑です。そこには、個人のさまざまな思いが深く根づいています。幸せの条件は個人によってさまざまである、という事実もあります。よって、私たちの魂の総合的な状態を、私たちの人生の外面的特徴のみからほかの誰かが知ることは(私たち自身は知ることができるかもしれませんが)、とうてい不可能なことです。”
これは逆に言えば、他人の魂の総合的な状態(思いとそれによって発生した結果の複合体とでも考えるものべきものでしょうか?)を、他人の外面的特徴や環境から知ることは不可能なことだということでしょう。そして筆者は、「特定のことに正直→全てに正直」ではない、「特定のことに不正直→全てに不正直」ではないと続けます。思いとその現れは複雑なものだと。
しかし筆者は次のように続けます。
P33
”「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して善で報いたり、善に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。”
これを知識として筆者は表します。
何かよく言われている綺麗ごとだな・・・と思いますが、丁寧に見てみると、完璧で公正なのは「自分の心と人生内で機能している法則」と言っているのに過ぎないのですね。なるほど。世界がどうこうという話ではなく、あくまで自分の中で機能する法則(原因と結果の法則のことでしょう)が完璧で公正だと言っているのですね。
・・・むむむ。
なかなか薄い本だと思いましたが、こうやってゆっくり考えながら読んでいくと、なかなか味があります。最初に「良く分からない」と感じたのは、スルメを噛まずに飲み込んで「味がなく、美味しいかどうか分からなかった」と言っていたのと同じということなんですね。
熟読すべきかどうかを判断するかどうかの方法の一つとして速読があげられていますが、速読では、慣れている人でなければその判断もなかなか難しいと思います。しかし、多くの人に認められている「古典」は、やはり何らかの価値が多くの人に見出されている訳であり、そのような本は迷わず熟読してもいいのかもしれません。
とりあえず今日はここまで。熟読って大変だなあ。。。でもこうすることで本当の味が分かるかと思うと、やっぱりよく噛まないといけないなーと思います。
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