2020年09月10日
【歴史的大発見】冒険家たちを駆り立てるスパイス
財宝にも匹敵するようなスパイスの原産地探しは、長い間ヨーロッパ人の心を捕らえてやまないロマンでした。スパイス貿易を独占したアラビア商人たちが貫いた秘密主義によっても、かえって冒険心と欲望が刺激されました。その冒険心に火をつけたのが、東洋を旅したベネチア商人のマルコポーロが1299年に著した東方見聞録です。スパイスをふんだんに使う中国の都や黄金でできた城を持つジパングなど、ヨーロッパ人の目をいやがうえにも東洋に向けさせる内容です。
しかし、当時の陸路はすべてアラビア商人によって押さえられていたので、東を目指す冒険家たちは、帆船で大洋へと乗り出していきました。海洋を舞台に夢と略奪と闘争に彩られた大航海時代のはじまりです。15世紀の地球がまだ丸いと信じられていなかった頃です。
ヨーロッパの港を後にした冒険家たちは、ポルトガルのエンリケ王子とその部下によるアフリカ喜望峰到達、イタリアのコロンブスのアメリカ大陸到達など次々に未知の大陸を制覇していきます。その中でもっともスパイスに近づいた人物は、海路でインドへたどり着いたポルトガル人のバスコダガマでした。1498年にバスコダガマは、120トンクラスの小さな船で喜望峰を回り、ポルトガルを出港してから10ヶ月後にインド西岸のカルカッタに到着しました。インドに数ヶ月滞在する間、マルコポーロが記した胡椒海岸の現地調査を行い、船倉をスパイスでいっぱいにして帰国しました。こうして、インドで直接スパイスを買いつけることに成功したポルトガルがスパイス貿易の海路を握り、ついにアラビア商人のスパイス取引の独占が崩れました。
さらに16世紀初頭には、ポルトガル人のマゼランが東洋におけるスパイスの集積地であるマレー半島南端のマラッカを攻略し、ポルトガルにさらなる繁栄をもたらしました。しかし、母国へ帰港したマゼランを待ちかまえていたのは、偉大な冒険者に対する賞賛ではなく、国王からの冷遇でした。失意のうちのポルトガルを去ったマゼランはスペイン王に仕え、スパイスの原産地を求めるスペイン船団を指揮して大西洋航路を目指します。この航海によって、大西洋から太平洋へと抜ける南米大陸先端のマゼラン海峡が発見され、ついに世界一周が可能になりました。
地球が丸いということを証明した偉大な航海ですが、その代償はあまりにも大きなものでした。5隻で出発した船団のうち、スペインの母港にたどり着いたのは、わずか1隻、18人の乗組員だけでした。マゼラン自身も途中で命を落としています。この偉業に感動した当時のスペイン王は、生き残った乗組員にナツメグやシナモン、クローブを組み合わせた紋章の入った盾を与えました。
スパイスは、水や主食のように生命の維持にどうしても必要なものではありません。しかし、このスパイスが冒険家たちを駆り立て、歴史上の大発見まで成し遂げさせたことにスパイスの計り知れない力を感じます。
冒険家たちが多大な犠牲を払ってまでもかなたにスパイスを探し求める以前、スパイスは香辛料としてよりも、肉の貯蔵用に重宝されていました。それが、海路の発見によってコーヒーやレモンなど新しい食材が手に入るようになると、人々はより複雑な味、さらに香気豊かなスパイスを求めるようになります。
特にインド南西部のペッパーやインドネシアのクローブとナツメグなど産地が限られているスパイスを手中におさめようと、当時の列強諸国は制海権をめぐって熾烈な争いを繰り広げました。
まず、東南アジアの実権を握ったのはポルトガルで、続いてスペインが進出し、植民地支配を拡大していきます。やがて17世紀になると、勢力を伸ばしたオランダが東南アジアからポルトガルを追い出し、ペッパー貿易の独占を狙って東インド会社を設立しました。東洋貿易重視の政策をとったオランダは、鎖国下の日本とも盛んに取引を行っています。
しかし、オランダとポルトガルという2大貿易国のアジア独占は、長くは続きませんでした。この2国の植民地支配に割って入ってきたのは、後発の航海国イギリスです。イギリスは北米大陸発見によりカナダを手に入れていましたが、スパイスの産地を見つけることはできませんでした。そこで、イギリス政府がとった行動は、オランダ船やスペイン船を襲う行為です。スパイスを満載した船を奪うことでイギリスは勢力を増大させ、ついにはオランダをまねた東インド会社を設立して、大々的に植民地政策を展開し始めました。植民地戦争という世界中を巻き込んでの争いの発端も、スパイスだったのです。
オランダの支配下に置かれた東南アジアのスパイス原産地では、先住民たちが意外なしたたかさを発揮し、ポルトガルやスペイン、フランス、イギリスなどとスパイスの裏取引を行っていました。こっそりと持ち出されたペッパーやナツメグ、クローブの苗木は、ヨーロッパ列強の植民地で根づき、南米までも産地を広げていきました。かつては、頑なに原産地の秘密を守り通したアラビア商人までもが熱心に栽培に取り組んだほどです。長い間守り続けられたスパイスの原産地神話は、意味を失いつつありました。
19世紀には、原産地よりも移植された場所での生産が多くなり、今日のように誰でも気軽にスパイスを使えるようになりました。
財宝にも匹敵するようなスパイスの原産地探しは、長い間ヨーロッパ人の心を捕らえてやまないロマンでした。スパイス貿易を独占したアラビア商人たちが貫いた秘密主義によっても、かえって冒険心と欲望が刺激されました。その冒険心に火をつけたのが、マルコポーロの東方見聞録です。スパイスが冒険家たちを駆り立て、歴史上の大発見まで成し遂げさせたことにスパイスの計り知れない力を感じます。
オランダとポルトガルという2国の植民地支配に割って入ってきたのは、後発の航海国イギリスです。イギリスは、オランダやスペインのスパイスを満載した船を奪うことで、勢力を増大させ、ついにはオランダをまねた東インド会社を設立して、大々的に植民地政策を展開し始めました。植民地戦争という世界中を巻き込んでの争いの発端も、スパイスだったのです。
また、先住民たちがポルトガルやスペイン、フランス、イギリスなどとスパイスの裏取引を行うことで、こっそりと持ち出されたペッパーやナツメグ、クローブの苗木は、ヨーロッパ列強の植民地で根づき、南米までも産地を広げていきました。19世紀には、原産地よりも移植された場所での生産が多くなり、今日のように誰でも気軽にスパイスを使えるようになりました。
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