2019年09月26日
人間はなぜ走る?
人間はなぜ走る?
つくづく思うのだが、人間の運動能力はすごく低くて中途半端だと思うのだ。運動能力が高いと、かえってそれに頼って進化は停滞するだろうし、自由度が高いとも言えるから、これでよかったのだろうけど。
ほかの生物と比べるとあまりにも能力が低くて、ほぼ野生を消失した家猫の身ごなしでさえ、人間の動きと比べると、人間はあまりに不器用で、平地で転んだり階段を踏み外したり、コンビニの商品棚に体をぶつけたりしている。
認知革命、農業革命、産業革命のおかげで体の運動能力に頼らなくても生存を脅かされない文明を築き、繁栄を謳歌しているが、そもそもこんな能力でよくも生き延びて種として認知革命を起こして協力し合うようになるまでに滅びてしまわなかったなぁと思う。
サバンナの落ちこぼれ
今でこそ天敵がいない状態で70億まで増えて地球を支配しているが、サバンナに降りた頃は、下から数えた方が早いぐらいのザコで他の動物の餌だった。サーベルタイガーの歯形にびったり一致するかじられた頭蓋骨とかが見つかっているので、多くの肉食動物の格好の餌だったのだろう。
すごく、捕まえやすくて食べやすい。逃げ足は遅く動物の中では最下位、木登りもサルに劣り、厚い皮も無いし、硬い角も無く、鋭い爪や牙も無くて毒も無い、肉食獣から見れば魚肉ソーセージ並みに食べやすい獲物だったのではないだろうか。
人間の走る能力は高かった?
ずっとこんな風に思っていたが、「ボーントゥーラン」に衝撃的なことが書いてあった。それは、人間の走る能力は高いと言うのだ、にわかには信じられなかったが、それは速度はそれほど早くないが、全身に発達させた汗腺のおかげで汗をかき、体温を下げることのできる能力により他の動物より長距離を走ることが出来るのだと言う。
それにより、獲物を追いかけ、追いつき、追いかけ続け、ついには走れなくなった獲物を捕らえることが出来たと。
人間と違って体温調整のための汗腺を持たない動物達は速度は皆人間より早いが、しつこく、追いかけづつけると、ついには上昇した体温を下げることが出来なくなって動けなくなり捕まってしまう。
この狩猟方法は実際に実験して成功したと本にはある。
この実験にちょっと感動して、ランニングを日課にしていた頃は、想像の中で幻の鹿を追いかけて走る、イメージランニングをやっていた、なかなか追いつけなくて、一度も走り勝てなかったが。ARとスマホとウエアラブが進化すれば、ARの鹿を追いかけながら走ることもそのうち出来そうだ。
「ボーントゥーラン」では走るということは人間の本能に根差した活動だから、誰でも走らずにいられないのだ、と結んでいて、事実、私も影響されて、裸足で走っていたが、本能に根差しているかは疑問だ。
誰でもできることをみんなで見て感動するわけ
走るという、ほぼ誰でもできること、走ったことないなんて人はいないし、特殊技能でも無いことを、なぜか皆、話題にして一生懸命見たりする。能力は高いが走ると言う行為は同じであるマラソンや駅伝を応援するし、芸能人が無意味に長距離を走って感動を演出したりする。これには本能に根差した走る意味があるのかと思ってしまう。
武術空手は走らない
ところが、武術空手は走らないと言う。正確には走ると空手の質が落ちるから走るトレーニングはしないと宇城空手の宇城憲治氏は本の中で述べていた。なぜ走ると質が落ちるのかは私には分からないが、たしかに、古流の武術稽古にランニングは入っていない。どこに行くにも自分の足を使うしか無い時代の人の、足腰の使用度が今とは比べ物にならないほど、高いので、あえて走って鍛錬しなくてもよかったのかもしれないし、当たり前すぎて鍛錬に含まなかっただけかもしれない。
走るという身体動作は自然にはできない?
「ボーントゥーラン」とは矛盾するが古武術研究家の甲野善紀さんの著作には昔の日本人は走ることが出来なかった。走ると言うのは飛脚や忍者などが身に付けている特殊技能だったとある。証拠に昔の絵を見ると地震や火事の時に走って逃げるのに手をどおしていいかわからず、手を挙げて走っている。
明治以後の軍隊式の学校教育の導入によって皆走れるようになったという。
その代わり、ねじらず走る体の使い方をする走りは失われてしまったのだろう。ずっと、興味があってねじらず、ためず、居付かない、武術的な体の使い方を試してはいるが、ぜんぜん、うまくいかずやはり体はねじれていく。
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