2019年09月16日
筋肉とスーパーカー
筋肉とスーパーカーは似ている
「あんな車、日本のどこで性能を発揮できるんだろう」助手席の彼女が言う。
車高の低いスパルタンなスーパーカーをたまに見ると、大体言うので、お決まりのフレーズになっている。
高速コーナリング性能や300キロ以上の最高時速、地面にスレスレのエアロフォルム。
確かに、サーキット以外では性能を発揮できないだろう。
ボディビルダー達の鍛え上げられた筋肉を見ると、同じ思いにかられることがある。
その、極度に発達させた大胸筋は何のため、ものすごい広背筋は何に使うのか。
フライパンをへし曲げる怪力は日常では必要ない。
もちろん、ボディビルダー達の常人を超えた努力と克己心に心から尊敬と憧れを持っているが、その鍛えられた筋肉が大きく美しければ美しいほど、ふと、その用途を考えてしまうことがある。
しかし、そう言ってしまえば、現代の文明社会において、一部のプロスポーツ選手を除けば、健康維持以上の筋肉のトレーニングは不要なものなのかもしれない。古代のように腕力で社会活動を行うわけでもなく、肉体労働の延長として機械文明が発達したので、肉体の強さが労働の対価になることも無い。
どちらも維持費が高い
スーパーカーは価格もそうだが維持費が高い、それも含めての裕福さの社会的ステイタスとして誇示できるのだが、筋肉も維持費が高いのだ、まず、トレーニングを欠かさないとすぐにサイズダウンしてしまうし、食費やサプリ費用も結構かかる。体形を作り上げそれを維持するのに結構な金銭的時間的コストがかかるのもスーパーカーと似ている。 筋肉は裕福さのステイタスにはなっていないが、裕福になってステイタスが上がると、筋トレをやりだすのは時間とお金の余裕が無いと筋肉は維持できないからなのか。
用の美 美の美
日本刀は高価で世界的にも美術価値が高く美しいが、その実用性を問題にする人はあまりいない。いくら試し切りをして切れ味を誇示しても、武器として、使用する機会はまず無いからだ。
にもかかわらず、その美しさと価値は実用性を突き詰めて生まれた形にある。
現代では使用されることの無い日本刀の実用性が美に昇華したように、筋肉の美しさはもともと戦う戦士の肉体美からきているとしたら、ボディビルダーの肉体は日本刀とも似ている。
戦士のプロポーション
古代ギリシャパンクラティオンの戦士を描いた壺絵や彫刻、どれもボディビルダーのような隆々とした筋肉表現でそのままミスターオリンピアに出れそう。金剛力士像などもものすごい筋肉をしている。これも当時の武人をモデルに作られたものと思われるので、ウエイトトレーニングという概念が無い時代から武術的身体運用で鍛えられた肉体の在り方が美しいと感じる感性があった証拠だ。
ところが真逆の話が江戸時代の日本にある。
日本の美意識 日本人女性は筋肉が苦手
最近はマッチョと言って筋肉男子がもてはやされたりするが(ただしイケメンに限る)、外国に比べると日本人女性は筋肉美を気持悪がる傾向がある。
男の性能ディスプレイとしての筋肉をあまり重要視していないようだ。
なぜか、と考えると日本という島国で働いた進化圧が複雑で私にはわからないが、明治維新前の日本では逆三角形6パックのマッチョは犬腹と言われるカッコ悪い体形とされていたと言う驚きの話がある。
(古武術研究家の甲野善紀の著作による)
丹田(下腹)が充実して、6パックどころかお腹が出た状態で肩の力が抜けてどっしりと重心の落ちた物腰、体形が良しとされ、国吉の武者絵などみなこの体形で描かれている。
これはどう考えればいいのだろう、東洋武術、日本武術では丹田を重視し、含胸抜背(がんきょうばっぱい)という言葉もある。だとすると東洋武術の発達とともに美意識も発達変化したということなのだろうか。
そして、武術が近代兵器に敗れた維新を境に美意識も変化したと見ていいのだろうか。
強い男、使える男は下腹が出てなで肩で重心が低い、と言うのが維新以前の美意識だったとすると、西洋ボディビルの美意識とは真逆なので、この集合的無意識の記憶を持っている日本女性がムキムキマッチョを嫌っていると考えるのはSFすぎるかしら。
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投稿者:ハイキック|08:41
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