2019年03月06日
肥土伊知郎 〜イチローズ・モルト
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皆さんは、世界の5大ウィスキー生産国ってどこだかお分かりですか。
スコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダ…あと一カ国は?
ウィスキーに詳しい方ならイロハのイにもならない問題でしょうが、一般の方でちゃんと答えられる方はなかなかいないのではないでしょうか。
ここまで書くとおそらく予想はされていると思いますが、そう…「日本」です。
日本の四季折々の気候と、上質な水などの風土条件はウィスキーに適しているのです。
その日本のウィスキーの中でも、世界から特に注目されている特筆されるべきウィスキーがあります。
そのウィスキーこそ有名な「イチローズ・モルト」です。
世界中で愛読されている「ウィスキーマガジン」のジャパニーズモルト特集で、最高のゴールドアワードに選ばれました。さらに、世界最高のウィスキーを決めるワールド・ウィスキー・アワードでは、2007年からの5年間連続で、日本一のウィスキーに選ばれたこともあります。
初めてこの話を聞いた時には、よほど歴史のある伝統的な製法のウィスキーなんだろうなあ、と思ったものです。
しかし驚いたことにこれらの偉業を成し遂げたのは、現在でも精力的に活躍している50歳そこそこの男性だったのです。
肥土伊知郎(あくといちろう)さんがまさにその方。
日本のモルト好きの中では知らない人はいないというほどのこの男性が、ものすごくこだわりを持ち、苦労に苦労を重ねた末に手に入れた栄冠だったのです。
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■ 家業は継がないと思っていたが…
肥土伊知郎さんの実家は古くから続く老舗の酒蔵、東亜酒造です。
もともと家業を継ぐつもりがなかった伊知郎さんは、東京農大醸造学科を卒業後、サントリーの山崎蒸留所に勤務したいと志ざしますが、当時は大学院卒しか採用されない事になっていた為に断念せざるを得ず、サントリーの営業として働き始めます。
その頃実家の東亜酒造は業績が落ち込み、経営難の状態に陥ったため、伊知郎さんもサントリーを退社し実家に戻ることになりました。
2000年に父親の後を継ぎ社長に就任した伊知郎さんは、何とか会社を立て直そうとしますが、経営難があまりにひどい状態だったため自主再建の道は断念、会社を売却しなければならない事態になってしまいました。
売却先は関西の会社に決まりました。
東亜酒造羽生蒸留所では2000年までウィスキーを蒸留していたため、そのウィスキーの樽が400樽ほど残っておりましたが、売却先の会社が要求してきたのは蒸留所の閉鎖とその樽すべての廃棄でした。
今でこそウィスキーの人気は再燃しておりますが、当時はウィスキー全体の人気が落ちていたため、大企業ですら在庫を減らさなければならない様な状況だった事が、その背景にはありました。
■ 自分の子供たちに日の目を見させてやりたい
「貴重な原酒を廃棄する事はとても忍びない、自分の子供を捨てるようなものだ」と伊知郎さんは原酒を引き取ってくれる場所探しに奔走する事になります。
ウィスキーを預かる事が出来るのはウィスキー製造免許を持っている会社でなければならない、と言う法律の壁に阻まれ引取先探しは難航しましたが、東奔西走した結果救いの手を差し伸べてくれたのが、福島県郡山の笹の川酒造の山口哲蔵社長です。これは2004年の事でした。
その当時既に最も熟成したもので20年物になっていた原酒です。「原酒を棄てるのは業界の損失、うちで預かってあげる」と言って引き受けてくれた山口社長の英断により、羽生蒸留所の原酒は救われたのです。
ここで伊知郎さんの中に「20歳になった羽生蒸留所の子供たちを世の中に出してあげるのが私の使命だ」という気持ちが湧き上がってきたのです。
かつて家業の酒造会社を継ぐ事も考えていなかった伊知郎さんが、本格的にウィスキー事業を始める決心をした瞬間でした。
しかし、羽生蒸留所の原酒だけを作っていたのではいつかは底をついてしまいます。蒸留所を作って自らも製造しなければ、と決心したのもこの時でした。
こうして2004年9月「ベンチャーウィスキー社」が誕生し、翌5月に羽生蒸留所の原酒を初ボトリングしたイチローズモルトが世に出ることになりました。
笹の川酒造でボトリングした最初の600本はオリジナルのボトルが無かったため、ワインボトルに詰めて販売されたそうです。
名前も当初「羽生」など地名をつけることが検討されていましたが、いずれ底をついてしまう原酒の地名よりも生産者名を付けるほうが良いと言うことになりました。名字の肥土をとって「アクトーズモルト」にすると「悪党ズモルト」を連想してしまうため、皆で様々な意見を出し合った結果「イチローズモルト」に決まったそうです。
さあ、当時まだ無名だったイチローズモルト。販売は並大抵のことではありません。
伊知郎さんは2年で2000軒ものバーを回って置いてもらえるところを探したそうです。
この時期に出合ったバーテンダーの方々とのお話が、その後ウィスキー製造をして行く上で物凄く勉強になったと伊知郎さんは言います。また知識のみならずこの時築く事が出来た人間関係も、現在まで続くかけがえのない財産となり、後の自分独自の蒸留所を作る過程で大いに役立ってくる事になります。
■ 自分が作りたい自分自身の蒸留所
伊知郎さんはスコットランドのメインランドやアイラなどの、比較的小規模の蒸留所を徹底的に回りました。
日本で小規模の蒸留所をやりたいと言うと、同志的な歓迎をしてくれて、物凄く丁寧に教えてくれたそうです。
こうして行くうちに伊知郎さんの中に、蒸留所を作る上での譲りたくない一線が浮かび上がってきました。
そのうちの1つがポットスティル(蒸留器)です。
スコットランドのフォーサイス社に対し、自分が作りたいウィスキー蒸留所の規模や味わいなどを細かく伝えて製造を依頼しました。細かな設計図があれば国内メーカーで製造した方が安価な物が手に入るのですが、ここは自分の目指すウィスキーを作る上でスコットランド製にこだわりました。
もう1つは発酵槽にミズナラを使う事です。
ベンチャーウィスキー社ではカスク(樽)にもミズナラを使っていますが、発酵槽までミズナラを使う蒸留所は非常に珍しいそうです。伊知郎さんは自ら北海道に上質のミズナラ(ジャパニーズオーク)を買い付けに行き、熟成樽や発酵槽の材料に使っています。その結果、お香のようなオリエンタルな香りを持つ原酒が完成し、伊知郎さん言われる「神社仏閣の香り」が実現しました。この香りは世界中のモルトファンのハートを鷲掴みにし、秩父蒸留所の評価の向上に大きく役立つ事になります。
その他の点でも、「ほとんどの工程を手作業で行う」、「自然の持つ地理や気候を利用した様々な工程」、「地元秩父の原材料をなるべく活用したい」など、ほかでは見られないこだわりを持つ蒸留所を目指しました。
このような精神のもと、2007年に国内20年ぶりの蒸留所として、秩父蒸留所は誕生しました。
設備費は実に2億円ほどかかったともいわれています。
秩父蒸留所は2008年2月に生産を開始し、3年後の2011年に初めてのシングルモルト「秩父ザ・ファースト」を世に送り出しました。
■ 世に出てゆく秩父のボトルたち
酒造りへのこだわりは、ボトル一本一本に味わいとなって現れてきます。
羽生蒸留所の原酒のみを使った「カードシリーズ」、羽生蒸留所と秩父蒸留所のモルト原酒、両方を使った「リーフモデル・ダブルディスティラーズ」、ワイン樽を使って後熟させた「ワイン・ウッド・リザーブ(WWR)」など次々と魅力に溢れたボトルが世に送り出されました。
特に「カードシリーズ」は、羽生蒸留所の限りある樽のうち1つの樽からのみ作られる(シングルカスク)製造方法を取っていること、樽が空になったらもう作ることができないと言う希少性、トランプカードの54種類に合わせ2005年から2014年まで作られたシリーズ性も相まって、世界中の収集家の方達の羨望の眼差しを集めています。
しかし、なんと言っても秩父蒸留所のこだわりを詰め込んだシングルモルトも忘れられません。
毎年数種類が発売されますがすべて数千本程度の限定販売なので、世界に何万といる愛好家たちとの競争率の高さのため、すぐに売り切れてしまいます。
愛好家たちの間で愛されているのがあのミズナラの熟成樽による「神社仏閣の香り」。オリエンタルな香りが海外愛好家たちの間ではたまらない、と評判を集めています。
受賞歴も堂々としたもので、2007年の「ウィスキーマガジン」ジャパニーズモルト特集での「イチローズ・モルトカードシリーズ−キングオブダイヤモンズ」のゴールドアワード受賞に始まり、2012年の「秩父ザ・ファースト」が受賞したジャパニーズ・ウィスキー・オブ・ザ・イヤー。さらに2017年にはワールドウィスキーアワードのシングルカスク部門で「イチローズモルト秩父ウィスキー祭2017」がついに世界一の称号を手にしました。
当初、「家業を継ぐつもりはない」と言っていた伊知郎さん。
降りかかる様々な困難を乗り越え、その中で出会う様々な人々に助けられ、まさに激動の半生を生き抜いて来られました。
貫き通した「羽生の子供たちを世に送り出す」と言う決意と、「自分にしかできない、自分がやりたいウィスキーづくり」に対する情熱が、世界中の評価となって実を結びました。
今、肥土伊知郎さんが持っている夢は「秩父蒸留所で仕込んだ30年物のシングルモルトを飲む」と言うことだそうです。
かつて祖父が羽生蒸留所に残した20年物の原酒を使い、作り始められた「イチローズ・モルト」の歴史が、その後自分自身の手によって立ち上げた、秩父蒸留所の30年物のシングルモルトの完成で一区切りがつけられるという事こそが、先代の財産の受け継ぎであり、伊知郎さんにとっても最高の幸せということなのでしょう。
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