2012年11月21日
A218・幸せってなんだろう(2)
(前回)
1、幸せってなんだろう〜♪ランキング
2、改めて「幸せとは?」
(今回)
2、改めて「幸せとは?」(続き)
3、「程ほどの幸せ」で満足か「更に大きな幸せ」を求めるか?
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2、改めて「幸せとは?」(続き)
「世に言う108の煩悩から全て開放されたときが最高の幸せ」
と言えるような気がしてきたと前項で申しましたが、その実どうもピンときません。
日頃、何気なく「煩悩」と言いますが、これも改めて考えるとなかなか得体の知れない言葉です。あまり深入りせずに少しばかり調べてみました。
1、幸せってなんだろう〜♪ランキング
2、改めて「幸せとは?」
(今回)
2、改めて「幸せとは?」(続き)
3、「程ほどの幸せ」で満足か「更に大きな幸せ」を求めるか?
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2、改めて「幸せとは?」(続き)
「世に言う108の煩悩から全て開放されたときが最高の幸せ」
と言えるような気がしてきたと前項で申しましたが、その実どうもピンときません。
日頃、何気なく「煩悩」と言いますが、これも改めて考えるとなかなか得体の知れない言葉です。あまり深入りせずに少しばかり調べてみました。
煩悩とは?
仏教でいう「人間の身心の苦しみを生みだす精神の働き」
肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。
「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され、
これらを仏道の修行によって消滅させる事によって悟りを開く。
・煩悩あれば菩提(ぼだい)あり
〜煩悩と菩提とは表裏一体で別々に離れたものではないということ。煩悩則菩提。
・煩悩の犬は追えども去らず
〜煩悩が人に付き纏って離れないのを、犬がまといつくのに例えた言葉。
・三毒
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)の三つとされ、これをあわせて三毒と呼ぶ。三毒の中でも特に愚痴、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の愛と意味が異なることを注意)。
・煩悩108
除夜の鐘を鳴らす回数「108」は、人間の煩悩の数だといわれているけれど、その中身って具体的にはどんなものがあるのだろう。物欲○%、色欲○%などカテゴリー分け出来ないだろうか?
天台宗・神木山等覚院(神奈川県川崎市)の僧侶、中島光信さんのお話では
「108というのは“とても多い”ことを示す数で、必ずしも数が決まっているわけではありません。簡単にいうと、煩悩とは自分を悩ませるもの、心を乱すものの総称ですから、一般的な意味で使う『愛する』ことだって、執着につながる煩悩だと考えることもできます。煩悩の数は時代や教義によって変わり、“8万4000煩悩”という考え方もあるほどなんですよ」
煩悩とは「心を乱すものの総称」であるから、これが全て除かれるなら「最高の幸せ!」と考えられそうですが、悟りの境地とは「幸せ、不幸せ」などを超越した状態なのかも知れません。
凡人は「煩悩の108は何と何?」にこだわります。
一説には「人の五感に“意識”を加えた『六根』を、それぞれ『(いい)・(わるい)・(どちらでもない)』、さらに『(きれい)・(きたない)』、『前世・今世・来世』の要素があり、6×3×2×3で108になる」とあります。
「なるほど、上手く考えたものだ!」と感心して、この辺で納得するのが良さそうに思います。
更にこだわって、例えば“味覚×(いい)×(きれい)×来世”のような組み合わせで、それがどんな煩悩なのかを考え始めると、深みにはまる一方で、悩んで夜も眠れなくなりそうです。“8万4000煩悩”の煩悩と向き合うようになってしまいそうです。
3、「程ほどの幸せ」で満足か「更に大きな幸せ」を求めるか?
全ての煩悩から解き放たれるのは悟りの境地であって、いわば仮想世界です。私たちは現実の中で生きています。
凡人は、何事も「程ほど」が良さそうです。
と言いたいところですが、そうもいってはおられません。世のため人のため、人類の幸せを願っての大発明、大発見を!と大志を抱くと、「ほどほど」では駄目で「とことんこだわる」が必須のようです。
クラーク博士は「少年よ大志を抱け」と教え、
大冒険家、探検家達はより困難な目標に命をかけて来ましたし
研究者達の辛抱強い「こだわり」はノーベル賞級の成果を上げて人類の幸せに貢献してきました。
人間は
・己の生命維持を最も基本的な本能としながら、集団で生きる動物です。
・一人では生きられず、外敵には集団で立ち向かいます。
・力の強い個人、集団が栄えます。
・個人と集団のバランスの中で生きていくのです
人は家族とか友人とか知人とかと、様々な利害を介して共に生き、その中で自分の喜びを求めて日々を暮らしています。
空腹を強いられているとき「幸せという言葉でイメージするのものは?」と問われると、
答えは「お腹いっぱいご飯を食べられること」をイメージするでしょうし、
生命を脅かされる混乱の世情では「心安らかに過ごせる日々」をイメージするでしょう。
イメージするものは、時と所と状況で次々に変わって行くように思われます。
「小さな幸せ」を喜びながら「次の幸せ」を求めて朝を迎える。そんな暮らしをしていきたいと思います。
「果報は寝て待て」の幸運を期待することもあり、基本的には「自分のことは自分で!」を心して「目標、希望」を持って「前を向く幸せ」を感じながら行きたいと願っています。
仏教でいう「人間の身心の苦しみを生みだす精神の働き」
肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。
「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され、
これらを仏道の修行によって消滅させる事によって悟りを開く。
・煩悩あれば菩提(ぼだい)あり
〜煩悩と菩提とは表裏一体で別々に離れたものではないということ。煩悩則菩提。
・煩悩の犬は追えども去らず
〜煩悩が人に付き纏って離れないのを、犬がまといつくのに例えた言葉。
・三毒
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)の三つとされ、これをあわせて三毒と呼ぶ。三毒の中でも特に愚痴、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の愛と意味が異なることを注意)。
・煩悩108
除夜の鐘を鳴らす回数「108」は、人間の煩悩の数だといわれているけれど、その中身って具体的にはどんなものがあるのだろう。物欲○%、色欲○%などカテゴリー分け出来ないだろうか?
天台宗・神木山等覚院(神奈川県川崎市)の僧侶、中島光信さんのお話では
「108というのは“とても多い”ことを示す数で、必ずしも数が決まっているわけではありません。簡単にいうと、煩悩とは自分を悩ませるもの、心を乱すものの総称ですから、一般的な意味で使う『愛する』ことだって、執着につながる煩悩だと考えることもできます。煩悩の数は時代や教義によって変わり、“8万4000煩悩”という考え方もあるほどなんですよ」
煩悩とは「心を乱すものの総称」であるから、これが全て除かれるなら「最高の幸せ!」と考えられそうですが、悟りの境地とは「幸せ、不幸せ」などを超越した状態なのかも知れません。
凡人は「煩悩の108は何と何?」にこだわります。
一説には「人の五感に“意識”を加えた『六根』を、それぞれ『(いい)・(わるい)・(どちらでもない)』、さらに『(きれい)・(きたない)』、『前世・今世・来世』の要素があり、6×3×2×3で108になる」とあります。
「なるほど、上手く考えたものだ!」と感心して、この辺で納得するのが良さそうに思います。
更にこだわって、例えば“味覚×(いい)×(きれい)×来世”のような組み合わせで、それがどんな煩悩なのかを考え始めると、深みにはまる一方で、悩んで夜も眠れなくなりそうです。“8万4000煩悩”の煩悩と向き合うようになってしまいそうです。
3、「程ほどの幸せ」で満足か「更に大きな幸せ」を求めるか?
全ての煩悩から解き放たれるのは悟りの境地であって、いわば仮想世界です。私たちは現実の中で生きています。
凡人は、何事も「程ほど」が良さそうです。
と言いたいところですが、そうもいってはおられません。世のため人のため、人類の幸せを願っての大発明、大発見を!と大志を抱くと、「ほどほど」では駄目で「とことんこだわる」が必須のようです。
クラーク博士は「少年よ大志を抱け」と教え、
大冒険家、探検家達はより困難な目標に命をかけて来ましたし
研究者達の辛抱強い「こだわり」はノーベル賞級の成果を上げて人類の幸せに貢献してきました。
人間は
・己の生命維持を最も基本的な本能としながら、集団で生きる動物です。
・一人では生きられず、外敵には集団で立ち向かいます。
・力の強い個人、集団が栄えます。
・個人と集団のバランスの中で生きていくのです
人は家族とか友人とか知人とかと、様々な利害を介して共に生き、その中で自分の喜びを求めて日々を暮らしています。
空腹を強いられているとき「幸せという言葉でイメージするのものは?」と問われると、
答えは「お腹いっぱいご飯を食べられること」をイメージするでしょうし、
生命を脅かされる混乱の世情では「心安らかに過ごせる日々」をイメージするでしょう。
イメージするものは、時と所と状況で次々に変わって行くように思われます。
「小さな幸せ」を喜びながら「次の幸せ」を求めて朝を迎える。そんな暮らしをしていきたいと思います。
「果報は寝て待て」の幸運を期待することもあり、基本的には「自分のことは自分で!」を心して「目標、希望」を持って「前を向く幸せ」を感じながら行きたいと願っています。