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2016年12月09日
「正しい」礼儀作法とは?
以前、小笠原流礼法の家元が「正しい礼儀作法とマナー」についてコメントしている記事を読み、感銘を受けました。
家元によると、
「礼法というのは、“型”通りの振る舞いが常にベストな訳ではない。周りに不快感を与えない事が大切なのであって、“型”から外れる事ばかりに気を取られていてはいけない。例え“型”から外れていても、TPOを踏まえた所作であれば良いのです。」とのこと。
それまで私は、「正しいマナーを知らないから、フランス料理や懐石料理の老舗には行けない。」と考えていたのですが、この家元の見解を知り、気が楽になりました。
2016年12月03日
美しく燃える貝の魔力“オパール”(蛋白石)
オパールの中には、太古の貝殻が大地の底で化石化する過程で美しいオパールに変質した種類があり、貝オパールと呼ばれている。表面的には貝の化石だが、表面が削られた部分からはまるで炎が燃え立っているような七色の輝きが見える、いかにも神秘的な宝石である。
この貝オパールをモデルに、宮沢賢治が「貝の火」という童話を書いている。
あるとき、子ウサギのホモイが小川で溺れているヒバリの雛を助ける。暫くして、助けられたヒバリの親子が、鳥の王の使者としてホモイのところに「貝の火」という不思議な宝玉を届けに来る。「これは“貝の火”という宝珠でございます。王様のお言伝ではあなたのお手入れ次第で、この珠はどんなにでも立派になると申します。どうか御収め願います。」
こうしてホモイは貝の火を手に入れるのだが、それからというもの、ホモイの生活は少しずつ変わっていく。貝の火は、特に立派な動物だけが持つことの出来るものであったため、周りの動物たちが、ホモイを王様のように大事にし始めたのだ。
最初は立派な者に相応しい振る舞いを心がけていたホモイだったが、まだ無邪気な子供だったため、皆に大事にされる事に慣れていってしまう。
そんなホモイを見て悪い狐が近付き、ダイドコロの木になっている角パンを毎日届けるという約束でホモイに取り入ると、少しずつ悪い道へと誘い始める。するとどういう訳か、貝の火は以前よりもっと美しく輝くようになり、その内部で稲妻が光ったり火山が噴火したりしているように見えてくる。これを見たホモイは、貝の火がある限り何をしても大丈夫なのだと思ってしまうが、それは間違いだった。
網で鳥たちを捕まえて動物園を作ろうという狐の計画をホモイが許可した日のこと。家に戻って貝の火を見ると、美しい輝きの中に一点の白い曇りが出来ていた。そして、その翌朝、美しく輝いていた貝の火は、ただの白い貝になっていたのである。
ホモイは驚き慌て、父と一緒に狐のところへ行くと、網に捕われ泣いていたたくさんの鳥たちを逃がしてあげたが、遅かった。貝の火はカチッという音を立て、二つに割れてしまったのである。
この貝オパールをモデルに、宮沢賢治が「貝の火」という童話を書いている。
あるとき、子ウサギのホモイが小川で溺れているヒバリの雛を助ける。暫くして、助けられたヒバリの親子が、鳥の王の使者としてホモイのところに「貝の火」という不思議な宝玉を届けに来る。「これは“貝の火”という宝珠でございます。王様のお言伝ではあなたのお手入れ次第で、この珠はどんなにでも立派になると申します。どうか御収め願います。」
こうしてホモイは貝の火を手に入れるのだが、それからというもの、ホモイの生活は少しずつ変わっていく。貝の火は、特に立派な動物だけが持つことの出来るものであったため、周りの動物たちが、ホモイを王様のように大事にし始めたのだ。
最初は立派な者に相応しい振る舞いを心がけていたホモイだったが、まだ無邪気な子供だったため、皆に大事にされる事に慣れていってしまう。
そんなホモイを見て悪い狐が近付き、ダイドコロの木になっている角パンを毎日届けるという約束でホモイに取り入ると、少しずつ悪い道へと誘い始める。するとどういう訳か、貝の火は以前よりもっと美しく輝くようになり、その内部で稲妻が光ったり火山が噴火したりしているように見えてくる。これを見たホモイは、貝の火がある限り何をしても大丈夫なのだと思ってしまうが、それは間違いだった。
網で鳥たちを捕まえて動物園を作ろうという狐の計画をホモイが許可した日のこと。家に戻って貝の火を見ると、美しい輝きの中に一点の白い曇りが出来ていた。そして、その翌朝、美しく輝いていた貝の火は、ただの白い貝になっていたのである。
ホモイは驚き慌て、父と一緒に狐のところへ行くと、網に捕われ泣いていたたくさんの鳥たちを逃がしてあげたが、遅かった。貝の火はカチッという音を立て、二つに割れてしまったのである。
2016年12月02日
真心の表れと受け取られる「言葉」遣いに気を付けています。
「一度口から出しちまった言葉は、もう元には戻せねーんだぞ…言葉は刃物なんだ。使い方を間違えると、やっかいな凶器になる。言葉のすれ違いで一生の友達を失うこともあるんだ。」
これは、劇場版名探偵コナン「沈黙の15分」で、言い争っていた光彦と元太に対してコナンが注意した台詞です。
私自身、常日頃「言葉遣いが与える印象って、その人そのもの=人格・品格として受け取られるよな…」と考え、気を付けているので、この台詞にはとても共感出来ました。
乱暴な言葉、略語、大袈裟な形容詞・副詞を多用する人と話していて、「この人、なんか苦手。仲良くなれない。」と感じたことってありませんか?
例えば、「マジで!? それって、メッチャ凄くない!?」というような感じ。分かります? 「メッチャ凄い」って、「副詞+形容詞」ですか?
なんだか、「まったく、最近の若者は…」と新しい物事を否定する年配のオバさんみたいですけど、丁寧な言葉で落ち着いたトーンで話した方が、上品な印象を与え、信用度も高くなると思うんですよね。女性なら尚更、言葉遣いには気を付けた方がいいと思うんですけど、どう思いますか?
2016年11月26日
人間の大地を支える巨大な赤石山“ルビー”(紅玉)
イスラムの宇宙観では、この世は七層の天と七層の地があると言われている。このうち七層の地の中に、巨大なルビーの山があるのだという。
七層ある地のうちの最下層は恐るべき闇の世界で、その底には巨大な蛇が棲んでいる。この蛇の巨大さは計り知れない。何故なら、この蛇がその気になれば、全宇宙を一飲みに出来ると言われているからだ。
闇の層の上には海の層があり、そこには巨大な魚であるバハムートが浮かんでいる。このバハムートは「旧約聖書」に登場する怪物ベヒモスのことで、本来はカバのような姿だったと言われている。イスラム世界の伝承に入り込んでから、大地を支える巨大な魚だと考えられるようになったのである。勿論、この魚もまた恐ろしく巨大である。
次いで4番目の層にはクジャタという怪物が棲んでいる。目、耳、口、鼻、足がそれぞれ4,000もあるという奇妙な姿で、しかもそれぞれの間隔(一つの目から隣の目までの間隔)は、人間が歩くと500年も掛かる距離を持っているという巨大さである。
この上、3番目の層にあるのが巨大なルビーの山である。
そして、2番目の層、ルビーの山の上に一人の天使が立っており、この天使がその両肩で一番上の層、つまり人間が住んでいる大地を支えているのだという。
ルビーやガーネットのように赤い色をした宝石は、中世のヨーロッパではカーバンクル(carbuncle)、古代ローマではカルブンクルス(carbunclus)と呼ばれており、「燃える石炭」という意味がある。
七層ある地のうちの最下層は恐るべき闇の世界で、その底には巨大な蛇が棲んでいる。この蛇の巨大さは計り知れない。何故なら、この蛇がその気になれば、全宇宙を一飲みに出来ると言われているからだ。
闇の層の上には海の層があり、そこには巨大な魚であるバハムートが浮かんでいる。このバハムートは「旧約聖書」に登場する怪物ベヒモスのことで、本来はカバのような姿だったと言われている。イスラム世界の伝承に入り込んでから、大地を支える巨大な魚だと考えられるようになったのである。勿論、この魚もまた恐ろしく巨大である。
次いで4番目の層にはクジャタという怪物が棲んでいる。目、耳、口、鼻、足がそれぞれ4,000もあるという奇妙な姿で、しかもそれぞれの間隔(一つの目から隣の目までの間隔)は、人間が歩くと500年も掛かる距離を持っているという巨大さである。
この上、3番目の層にあるのが巨大なルビーの山である。
そして、2番目の層、ルビーの山の上に一人の天使が立っており、この天使がその両肩で一番上の層、つまり人間が住んでいる大地を支えているのだという。
ルビーやガーネットのように赤い色をした宝石は、中世のヨーロッパではカーバンクル(carbuncle)、古代ローマではカルブンクルス(carbunclus)と呼ばれており、「燃える石炭」という意味がある。
2016年11月25日
世界の八大不思議“琥珀の間”アンバー・ルーム
“琥珀の間”はその名の通り、琥珀で造られた部屋であり、現在はロシア第二の都市サンクトペテルブルクのエカテリーナ宮殿の博物館にある。時計やチェストなどの調度品は勿論、壁までが黄金色の琥珀で作られ、さらに様々な貴石を用いて美しく飾られた豪華絢爛な部屋であり、まさに琥珀芸術の中で世界最高の価値があると言えるものだ。
かつてこの部屋は、エカテリーナ宮殿の儀礼の間に存在していたのだが、ロシア人はこの部屋を自慢にし、エジプトのピラミッドやバビロニアの空中庭園に匹敵する奇跡の部屋だとして、“世界の八大不思議”と呼んだほどである。
しかし、エカテリーナ宮殿の儀礼の間に存在していた“琥珀の間”と、現在博物館にある“琥珀の間”は別なものである。博物館の“琥珀の間”は、かつて存在していた本来の“琥珀の間”を模倣し、新しく復元されたものなのだ。
1701年、プロシア(ドイツ北東部の地方)の皇帝となったばかりのフリードリヒ1世は、デンマークの琥珀彫刻師ゴトフリート・タッソを呼び、ポツダム市に“琥珀の間”を建設することを命じた。これが“琥珀の間”の歴史の始まりである。
1709年、総面積約55平米、琥珀のモザイクと彫刻で出来た、この世で最初の“琥珀の間”が完成した。
1712年、当時ベルリンに移転していた“琥珀の間”をロシア皇帝ピョートル1世が訪ね、その素晴らしさに感嘆するということがあった。
そこで1716年、プロシア皇帝のフリードリヒ・ウィルヘルム1世は、ピョートル1世がスウェーデンとの戦争に勝利した記念として、“琥珀の間”をロシアへ寄贈したのである。
1755年、ロシアのエリザベータ女帝の命令で、“琥珀の間”はエカテリーナ宮殿の儀礼の間へ移され、10年の歳月を掛けて更なる装飾が施された。600kgの琥珀を追加し、金箔やクォーツ、ジェード、オニキスといった貴石で飾られた“琥珀の間”は、現在の金額に換算すると、1億4,200万ドル相当の琥珀芸術の宝庫だったと言われている。
1917年、10月革命によってソヴィエト連邦が誕生すると、この部屋は民衆にも開放され、まるで巡礼地のように誰もが訪れる場所になったという。こうして、人々はこの部屋の驚異的な美しさに驚き、“世界の八大不思議”と呼ぶようになったわけだ。
しかし、第二次世界大戦中、ヒトラーがこの“琥珀の間”を奪い去り、戦時の混乱と共に行方が分からなくなってしまった。空爆により消失したとも言われているが、確実な事は分かっておらず、今も世界に数あるミステリーの一つとなっているのである。
かつてこの部屋は、エカテリーナ宮殿の儀礼の間に存在していたのだが、ロシア人はこの部屋を自慢にし、エジプトのピラミッドやバビロニアの空中庭園に匹敵する奇跡の部屋だとして、“世界の八大不思議”と呼んだほどである。
しかし、エカテリーナ宮殿の儀礼の間に存在していた“琥珀の間”と、現在博物館にある“琥珀の間”は別なものである。博物館の“琥珀の間”は、かつて存在していた本来の“琥珀の間”を模倣し、新しく復元されたものなのだ。
1701年、プロシア(ドイツ北東部の地方)の皇帝となったばかりのフリードリヒ1世は、デンマークの琥珀彫刻師ゴトフリート・タッソを呼び、ポツダム市に“琥珀の間”を建設することを命じた。これが“琥珀の間”の歴史の始まりである。
1709年、総面積約55平米、琥珀のモザイクと彫刻で出来た、この世で最初の“琥珀の間”が完成した。
1712年、当時ベルリンに移転していた“琥珀の間”をロシア皇帝ピョートル1世が訪ね、その素晴らしさに感嘆するということがあった。
そこで1716年、プロシア皇帝のフリードリヒ・ウィルヘルム1世は、ピョートル1世がスウェーデンとの戦争に勝利した記念として、“琥珀の間”をロシアへ寄贈したのである。
1755年、ロシアのエリザベータ女帝の命令で、“琥珀の間”はエカテリーナ宮殿の儀礼の間へ移され、10年の歳月を掛けて更なる装飾が施された。600kgの琥珀を追加し、金箔やクォーツ、ジェード、オニキスといった貴石で飾られた“琥珀の間”は、現在の金額に換算すると、1億4,200万ドル相当の琥珀芸術の宝庫だったと言われている。
1917年、10月革命によってソヴィエト連邦が誕生すると、この部屋は民衆にも開放され、まるで巡礼地のように誰もが訪れる場所になったという。こうして、人々はこの部屋の驚異的な美しさに驚き、“世界の八大不思議”と呼ぶようになったわけだ。
しかし、第二次世界大戦中、ヒトラーがこの“琥珀の間”を奪い去り、戦時の混乱と共に行方が分からなくなってしまった。空爆により消失したとも言われているが、確実な事は分かっておらず、今も世界に数あるミステリーの一つとなっているのである。
2016年11月22日
菅原道真の桜と桜石の物語“セラサイト”(桜石)
京都府亀岡市稗田野町にある積善寺の境内では、断面が六弁の桜花模様を浮彫にしている岩石が産出し、“桜石”と呼ばれている。また、積善寺の境内、牛松山の麓には、菅原道真自作の土像を祀る桜天満宮がある。つまりこの地は菅公(菅原道真)ゆかりの地であり、桜石についても菅公の威霊の現れだという伝説がある。
学問の神様として知られる菅原道真は、学者でありながら従二位右大臣にまで昇進する栄達を遂げたが、彼の威勢を恐れた左大臣藤原時平の謀略により太宰権帥に左遷され、無念の内59歳で逝去した。そのため、菅原道真の怨霊伝説が生まれることとなったのだ。
積善寺にある桜天満宮の桜石伝説も、やはり道真の左遷から始まる。その頃、菅公の近臣に稗田野出身の高田正期という者がいた。大変な忠義者だったので菅公も目をかけており、左遷の折には大切にしていた桜の木を与えた。
正期はこれを故郷稗田野の牛松山の麓に移植した。その年、見事な花が咲いたので、正期は喜んだ。ところが翌年3月は、葉ばかりで花が咲かなかった。「もしや公の身に…」そう思うと居ても立ってもいられず、正期はすぐに大宰府へ駆けつけた。
京から遙か離れた土地で心浮かない日々を送っていた道真は、正期の話を聞いて感銘し、天拝山の土で自分自身の像を作り、正期に持ち帰らせた。故郷に戻った正期は独鈷抛山の麓に祠を建て、像を祀った。このとき正期が、桜の木を植えた場所と別な場所に祠を作った理由は分からない。やがて、正期が死ぬと桜の木は枯れてしまった。それから300年が過ぎた。
1190年、積善寺の住職無極上人の夢枕に夜ごと菅公が現れた。一体何を言いたいのだろうと上人は大いに悩んだが、あるときはたと気が付いた。「桜だ。これは桜に違いない。」そう思った上人は、かつて正期が独鈷抛山の麓に作った祠を牛松山の麓にある寺の境内に移した。その場所とは勿論、桜の木があった場所である。すると不思議な事が起こった。かつて桜の木があった周辺の岩に桜の花びらの形が浮き出してきたのだ。
こうして、積善寺の境内では桜石が産出するようになり、菅公を祀った祠も桜天満宮と呼ばれるようになったのだという。
学問の神様として知られる菅原道真は、学者でありながら従二位右大臣にまで昇進する栄達を遂げたが、彼の威勢を恐れた左大臣藤原時平の謀略により太宰権帥に左遷され、無念の内59歳で逝去した。そのため、菅原道真の怨霊伝説が生まれることとなったのだ。
積善寺にある桜天満宮の桜石伝説も、やはり道真の左遷から始まる。その頃、菅公の近臣に稗田野出身の高田正期という者がいた。大変な忠義者だったので菅公も目をかけており、左遷の折には大切にしていた桜の木を与えた。
正期はこれを故郷稗田野の牛松山の麓に移植した。その年、見事な花が咲いたので、正期は喜んだ。ところが翌年3月は、葉ばかりで花が咲かなかった。「もしや公の身に…」そう思うと居ても立ってもいられず、正期はすぐに大宰府へ駆けつけた。
京から遙か離れた土地で心浮かない日々を送っていた道真は、正期の話を聞いて感銘し、天拝山の土で自分自身の像を作り、正期に持ち帰らせた。故郷に戻った正期は独鈷抛山の麓に祠を建て、像を祀った。このとき正期が、桜の木を植えた場所と別な場所に祠を作った理由は分からない。やがて、正期が死ぬと桜の木は枯れてしまった。それから300年が過ぎた。
1190年、積善寺の住職無極上人の夢枕に夜ごと菅公が現れた。一体何を言いたいのだろうと上人は大いに悩んだが、あるときはたと気が付いた。「桜だ。これは桜に違いない。」そう思った上人は、かつて正期が独鈷抛山の麓に作った祠を牛松山の麓にある寺の境内に移した。その場所とは勿論、桜の木があった場所である。すると不思議な事が起こった。かつて桜の木があった周辺の岩に桜の花びらの形が浮き出してきたのだ。
こうして、積善寺の境内では桜石が産出するようになり、菅公を祀った祠も桜天満宮と呼ばれるようになったのだという。
2016年11月20日
紅海に浮かぶトパゾス島で採掘された“トパーズ”(黄玉)
2016年11月18日
特別な英雄にだけ力をもたらす守護石“クリソプレーズ”(緑玉髄)
紀元前4世紀のマケドニア王、アレクサンドロス(アレクサンダー)大王は、20歳でマケドニア王国の王位に就き、32歳でバビロンで病没するまでに、アケメネス朝ペルシアを滅ぼし、中央アジアからインド北西部に至る広大な世界帝国を実現した。これは、当時の感覚で言えば、全世界を制覇したと言っていい大偉業だった。
そんなアレクサンドロス大王が、守護石として常に腰帯に結びつけていたのが、クリソプレーズだった。
インド遠征からの帰途、アレクサンドロス大王が身体を洗うため、腰帯を岸辺に置いて川に入ったところ、一匹の蛇が近付き、守護石を結び付けていた紐を噛み切って、何処かへ持ち去ってしまった。川から出て守護石が失われたことに気付いたアレクサンドロス大王は、急いで部下たちに捜索させたが、ついに見つからなかった。
帰還したアレクサンドロス大王は、その後もアラビア半島周航や西地中海遠征などを計画していたが、守護石を失い強運が去ってしまったため叶わず、32歳の若さで急死してしまった。
これほどアレクサンドロス大王に強運と勝利をもたらしたクリソプレーズであるが、中世ヨーロッパの言い伝えでは、この石のパワーは地味な方に属する。痛風の痛みを和らげるとか、利尿剤になるとか、結石予防にご利益がある、といった具合である。「新約聖書」の「黙示録」の中で、聖都エルサレム城壁の土台に飾られた12種類の宝石の10番目であるにも関わらず、誕生石にも指定されていない。
「クリソプレーズの功徳は夜に隠れ、神は人間の目に全てを明かすことはない。」という言葉が遺されている。クリソプレーズは強烈なパワーを秘めているが、アレクサンドロス大王のような特別な人間にだけ、そのパワーを付与する石なのかもしれない。
そんなアレクサンドロス大王が、守護石として常に腰帯に結びつけていたのが、クリソプレーズだった。
インド遠征からの帰途、アレクサンドロス大王が身体を洗うため、腰帯を岸辺に置いて川に入ったところ、一匹の蛇が近付き、守護石を結び付けていた紐を噛み切って、何処かへ持ち去ってしまった。川から出て守護石が失われたことに気付いたアレクサンドロス大王は、急いで部下たちに捜索させたが、ついに見つからなかった。
帰還したアレクサンドロス大王は、その後もアラビア半島周航や西地中海遠征などを計画していたが、守護石を失い強運が去ってしまったため叶わず、32歳の若さで急死してしまった。
これほどアレクサンドロス大王に強運と勝利をもたらしたクリソプレーズであるが、中世ヨーロッパの言い伝えでは、この石のパワーは地味な方に属する。痛風の痛みを和らげるとか、利尿剤になるとか、結石予防にご利益がある、といった具合である。「新約聖書」の「黙示録」の中で、聖都エルサレム城壁の土台に飾られた12種類の宝石の10番目であるにも関わらず、誕生石にも指定されていない。
「クリソプレーズの功徳は夜に隠れ、神は人間の目に全てを明かすことはない。」という言葉が遺されている。クリソプレーズは強烈なパワーを秘めているが、アレクサンドロス大王のような特別な人間にだけ、そのパワーを付与する石なのかもしれない。
2016年11月12日
波乱をもたらす黒い石“オブシディアン”(黒曜石)
共に創造主オメテオトルの子供であるケツァルコアトルとテスカトリポカは、世界創造に立ち会った古代メキシコ神話における最高神である。
世界が創造された後、宇宙には五つの太陽の時代が訪れた。
まず最初の「土の太陽の時代」は、テスカトリポカが宇宙を支配した。次にケツァルコアトルがテスカトリポカを矛で突いて海に落とし、「風の太陽の時代」を支配した。続いて雨の神トラロックが「雨の太陽の時代」を支配したが、ケツァルコアトルが火の雨を降らせて終わった。4番目は水の女神チャルチウトリケェが支配する「水の太陽の時代」だったが、大洪水で滅んだ。そして最後の「動きの太陽の時代」は、ケツァルコアトルとテスカトリポカが協力して創った。
ケツァルコアトルは鳥と蛇が合体した神で、全身が緑色をした翡翠の神でもある。母親が翡翠の破片を飲み、ケツァルコアトルを産んだと言われている。
一方、テスカトリポカは「テスカ」という言葉が黒曜石を意味するほど黒曜石と関係が深く、左足先が黒曜石で出来ていた。世界の創造に立ち会ったとき、大地の怪物に左足先を喰いちぎられたためである。
古代メキシコ神話では、「秩序をもたらす翡翠」と「波乱をもたらす黒曜石」が、世界を動かす重要な石として位置付けられている。
世界が創造された後、宇宙には五つの太陽の時代が訪れた。
まず最初の「土の太陽の時代」は、テスカトリポカが宇宙を支配した。次にケツァルコアトルがテスカトリポカを矛で突いて海に落とし、「風の太陽の時代」を支配した。続いて雨の神トラロックが「雨の太陽の時代」を支配したが、ケツァルコアトルが火の雨を降らせて終わった。4番目は水の女神チャルチウトリケェが支配する「水の太陽の時代」だったが、大洪水で滅んだ。そして最後の「動きの太陽の時代」は、ケツァルコアトルとテスカトリポカが協力して創った。
ケツァルコアトルは鳥と蛇が合体した神で、全身が緑色をした翡翠の神でもある。母親が翡翠の破片を飲み、ケツァルコアトルを産んだと言われている。
一方、テスカトリポカは「テスカ」という言葉が黒曜石を意味するほど黒曜石と関係が深く、左足先が黒曜石で出来ていた。世界の創造に立ち会ったとき、大地の怪物に左足先を喰いちぎられたためである。
古代メキシコ神話では、「秩序をもたらす翡翠」と「波乱をもたらす黒曜石」が、世界を動かす重要な石として位置付けられている。
2016年11月11日
アポロンに愛された美少年“ヒアシンス石”
ヒアシンスという花の名は、ギリシア神話に登場するヒュアキントスという美少年の名に由来しており、宝石のヒアシンスは、その色が花のヒアシンスに似ていたことから、この名前で呼ばれるようになったと言われている。
ヒュアキントスは、スパルタ王アミュクラスの息子である。とても美しい少年だったので、太陽神アポロンに寵愛されていた。他にもヒュアキントスを愛した男はたくさんいたが、彼が愛したのはアポロン神ただ一人だった。
西風の神ゼピュロスもヒュアキントスに恋心を抱いたが、ヒュアキントスはアポロンのことしか考えていなかったので、言い寄ってきたゼピュロスを冷たく追い帰してしまった。ゼピュロスは腹を立てた。
ある日、ヒュアキントスとアポロンが草原で円盤投げをしているのを見たゼピュロスは、ついに怒りを爆発させ、アポロンが投げた円盤の軌道を突風で逸らしてヒュアキントスの頭を打ち砕いた。ヒュアキントスはその場に倒れ、頭から血を流して死んでしまった。
アポロン神は嘆き悲しんだ。そして、ヒュアキントスの記憶を永遠に留めておくために、彼の血を吸い込んだ大地にヒアシンスの花を咲かせたのだという。
ヒュアキントスは、スパルタ王アミュクラスの息子である。とても美しい少年だったので、太陽神アポロンに寵愛されていた。他にもヒュアキントスを愛した男はたくさんいたが、彼が愛したのはアポロン神ただ一人だった。
西風の神ゼピュロスもヒュアキントスに恋心を抱いたが、ヒュアキントスはアポロンのことしか考えていなかったので、言い寄ってきたゼピュロスを冷たく追い帰してしまった。ゼピュロスは腹を立てた。
ある日、ヒュアキントスとアポロンが草原で円盤投げをしているのを見たゼピュロスは、ついに怒りを爆発させ、アポロンが投げた円盤の軌道を突風で逸らしてヒュアキントスの頭を打ち砕いた。ヒュアキントスはその場に倒れ、頭から血を流して死んでしまった。
アポロン神は嘆き悲しんだ。そして、ヒュアキントスの記憶を永遠に留めておくために、彼の血を吸い込んだ大地にヒアシンスの花を咲かせたのだという。