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2016年11月22日

菅原道真の桜と桜石の物語“セラサイト”(桜石)

京都府亀岡市稗田野町にある積善寺の境内では、断面が六弁の桜花模様を浮彫にしている岩石が産出し、“桜石”と呼ばれている。また、積善寺の境内、牛松山の麓には、菅原道真自作の土像を祀る桜天満宮がある。つまりこの地は菅公(菅原道真)ゆかりの地であり、桜石についても菅公の威霊の現れだという伝説がある。

桜石.JPG

学問の神様として知られる菅原道真は、学者でありながら従二位右大臣にまで昇進する栄達を遂げたが、彼の威勢を恐れた左大臣藤原時平の謀略により太宰権帥に左遷され、無念の内59歳で逝去した。そのため、菅原道真の怨霊伝説が生まれることとなったのだ。

菅原道真.jpg

積善寺にある桜天満宮の桜石伝説も、やはり道真の左遷から始まる。その頃、菅公の近臣に稗田野出身の高田正期という者がいた。大変な忠義者だったので菅公も目をかけており、左遷の折には大切にしていた桜の木を与えた。

正期はこれを故郷稗田野の牛松山の麓に移植した。その年、見事な花が咲いたので、正期は喜んだ。ところが翌年3月は、葉ばかりで花が咲かなかった。「もしや公の身に…」そう思うと居ても立ってもいられず、正期はすぐに大宰府へ駆けつけた。

桜.jpg

京から遙か離れた土地で心浮かない日々を送っていた道真は、正期の話を聞いて感銘し、天拝山の土で自分自身の像を作り、正期に持ち帰らせた。故郷に戻った正期は独鈷抛山の麓に祠を建て、像を祀った。このとき正期が、桜の木を植えた場所と別な場所に祠を作った理由は分からない。やがて、正期が死ぬと桜の木は枯れてしまった。それから300年が過ぎた。

1190年、積善寺の住職無極上人の夢枕に夜ごと菅公が現れた。一体何を言いたいのだろうと上人は大いに悩んだが、あるときはたと気が付いた。「桜だ。これは桜に違いない。」そう思った上人は、かつて正期が独鈷抛山の麓に作った祠を牛松山の麓にある寺の境内に移した。その場所とは勿論、桜の木があった場所である。すると不思議な事が起こった。かつて桜の木があった周辺の岩に桜の花びらの形が浮き出してきたのだ。

積善寺 桜天満宮.jpg

こうして、積善寺の境内では桜石が産出するようになり、菅公を祀った祠も桜天満宮と呼ばれるようになったのだという。

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