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2019年01月05日

成熟社会


 さっき、軽自動車、ホンダN-BOXのCMを見て思ったことがあります。

と、その話はいったん置いておき、今と昔を比べてみます。
ひと言でいうと、大変便利になりました。
もう昔には戻れません。

私は初めスマホが嫌いでした。
10年近く前でしょうか。
まだ当時は一部の若い人たちだけが使っていたスマホ。
偏見めいた考えを持っていた私はそんな若者が嫌いでした。

 家に帰ればPCでインターネットはできるのだから、なにも仕事中や休憩時間にまでネットに縛られてたまるものかと考えていました。

しかしそんな考えはやがて吹き飛びます。
今では、スマホのない生活など考えられません。
今朝スマホを忘れたことに気付いて家まで戻りました。
しかも、時間もそれほどないのに、走って家まで戻ったのです。

ただ、考えてしまいます。
初めて携帯電話を手にしたときと、スマホの機種変更。

どっちがワクワクしたろうか?って。

もちろん、前者です。
まだ携帯電話が珍しい時代。

といっても田舎に住んでいたので、ムーバの発売以降です。
それでも大半の人たちは携帯電話を、もの珍しそうに見ていました。
携帯電話を持っている者同士で情報交換できる“優越感”があったと思います。

短縮ダイアルも確か10〜20件しか登録できなくて、アナログ式です。
ダイアルしてから呼び出し音が始まるまで15〜30秒かかったように思います。

充電もすぐに切れるので、オプションのバッテリーを背面に付けていました。
このオプションのバッテリーが携帯電話本体よりも厚いのです。

液晶もカタカナの名前と電話番号の2行表示。
バイブレーターも付いていませんでした。
メールなんてできるわけがありません。

090や080で始まる番号でなく、030。
さらに相手が遠くにいるときには040で架け直す必要がありました。

そんな何の機能もなく、ただ架けるだけ。
お金は今より高い携帯電話。
しかし、それにワクワクしていたのです。

 PCにも同じことが言えると思います。
今やPCといえば、殆どがWindows。
これも大変便利になりました。

インターネットが一般家庭に普及を始めた1990年代半ばには、今のように動画が見れるようになるなんて考えられませんでした。

私が初めて手にしたPCは、漢字表示がオプションでした。
音も“ピー”音の単純な音階。

その後、MS-DOS(エムエスドス)が台頭してきます。
時代は1980年代後半です。

j-3100.jpg

今ならスイッチオンでWindowsが立ち上がります。
MS-DOSもスイッチオンに変わりありませんが、システム自体を自分で作る必要がありました。
例えばワープロソフト一太郎にはOSであるMS-DOSが付いていないなど。
または、詳しい人に作ってもらう必要がありました。

CONFIG.SYS(コンフィグシス)ファイルと、
AUTOEXEC.BAT(オートエクゼキュートバッチ)ファイル。

CONFIG.SYSファイルで、メモリーの配置を指示してあげて、日本語入力を組み込むなど。
 DOS=HIGH,UMB
なんて聞くと懐かしく思い出す方もいるのではないでしょうか。

用途はワープロ、表計算。まだカラー写真も表示できない頃でしたが、今より楽しさがあった気がします。

n-box_t.jpg

 話はホンダN-BOXに戻ります。
CMでは安全運転支援システムを紹介していました。
自車線からはみ出さないよう、サポートする現代の機能です。

本田技研には小学校時代に仲の良かった友人がいます。
車関係の仕事だと聞いているので、N-BOXのことも知っているでしょう。
ただ、こんなに高性能になった車づくりに今、どれだけ魅力を感じているのか気になったのです。

車だって、今のようにコンピュータ制御され、人の立ち入る隙間があまりないものより、昔のようにエンジンのシリンダーブロックをボーリングしボアアップ、キャブもソレックス。
そんな時代の方が良かった気がするんです。

 コールセンターにも言えています。
受信のコールセンターでは仕事の手順が熟成され、サポートする製品も複雑化し、NGワードも訴訟対策であるとか。

それだけ“質”の良いものになってきたと同時に、何か大切なものを置いてきた気がします。
携帯電話ではバッテリーをオプションにする。030を040で架け直す。
PCだと低機能のわりに手間のかかった時代。
車にも同じことが言えます。

どれもが不便なようでいて、しかし

 自分が手を加える喜び。

これがあったと思うんです。
成熟した社会は人が作り上げたもの。
が、人々が手を加える隙間がなくなりました。














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posted by CSおじさん at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2019年01月04日

衰え


 書きたくないのですが、衰えの話。

今日、初仕事でした。
旧年で研修は終わったつもりでいたのですが、そうではなかった。

確かにまだこの段階で独り立ちなどできない状況です。
今日は二人一組で真ん中に先輩が入り、教えてもらいながら受信しました。

ただ、先輩風を吹かせて自己陶酔しています。

また受信に使用する端末の習得度はまだまだ実用レベルではありません。
なのに、そのセンパイは、
「これはこうして、これはこうして」
と、目にも止まらぬ速さで手本は示すものの、こっちとしては
「今何をどうやったの?」
と思うばかりで、説明を見ても何の実にもなっていません。

またもう一人、同期の者も何も言いません。
彼はきちんと理解したのでしょうか。
私にはそう思えませんでした。

「今何をどうやったの?」
彼も聞きたかったんではないでしょうか。
でも聞くのも面倒くさいんです。
センパイはそれでしっかり解説しているつもりなのだから。

 途中で小休憩があり、受信のセンターではよくあることですが、端末を離席状態にします。
私は小休憩が終る1〜2分前に席に戻ってきました。
もう、休憩は終わりで良いと思ったので、離席を解除しました。

すると、解除の仕方が違うと言います。
いやいやいや、
昨年の実習ではそのように習ったんだから。

昨年の実習と違うのであれば事前に言うべき。
それを待ってましたと言わんばかりに指摘されたものだから、
「それじゃ揚げ足取りだ。」
と、こっちも返します。

よかったのは、素直に飲み込んでくれたことです。
言い争いになっても負けませんが、できれば決裂を好みません。
前のセンターではさんざん、センパイを交代させた。または交代されました。

 衰えというのは、その目にも止まらぬ速さで説明されるこっちも衰えたこと。
最近、テレビを見ていて、すべての文字を読み終える前に画面が変わってしまうことがあります。

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それだけ脳の反射が悪くなってきたのでしょう。
昔は仕事でパソコンを教えていたのです。
なのに教わる立場になってしまった。

この予兆は思うと10年前にありました。
自分より10歳以上も年下のSVがExcelを操作する。
その速度にはもうついていけないと感じたことがありました。

あれからさらに10歳、私は老けてしまったのです。
しかも受信で扱う案件も、10年前とは比べ物にならないくらい複雑化しました。

わかり易くいえば当時、まだスマホは極々一部の人たちのものでした。
10年前に受信していたときに比べ、スマホというまったく新しい分野が追加されたのです。
そこへ衰えた脳力。スマホは使っていますが、必要以上のことを憶えるのが苦痛になってしまいました。

いま頑張って研修を受けていますが、ここに食いとどまったとして最後。
ここで勤まらないと思ったら、テクニカル系の受信はもうあきらめた方が良いかと思っています。














2019年01月02日

年末年始


 短い。

年末年始、6連休もあったのに、短いものですね。
6連休は明日で終わり。
6日の休みといっても、途中3日間は帰省していたので、しょうがないですね。

さらに昨日は朝から晩まで、ほぼ一日中、車を運転していたから疲れました。
昨夜は深酒して今日は昼まで寝ていました。

すみません。
今日は何も書くことが思い浮かびません。













2019年01月01日

帰省先から帰宅


 今年もよろしくお願いいたします。

今日、帰省先から帰ってきました。
帰省先の小さな町は過疎化が進み、私が中学生になるとき初めて住んだ頃に比べると半分近くになりました。

毎年、盆と、暮れから正月にかけ2回行くのですが、そのたび感じるのは建物が減り空き地が増えたことです。
都会では高層ビルや高層マンションが増えているのに比べると対照的です。

IMG_6375s.jpeg

新しい建物ができたとき、
「ああ、ここに〇〇ができたんだ。」
と、はっきりしています。

しかし、空き地になったのを見ると、
「あれ?ここ何があったっけ?」
と思い出すのに一苦労です。

新しい建物が立ったときでも、
「ここ、前は何だったっけ?」
と考えるのと同じことです。


中学から学生時代を除いて約30年住んだ町でした。
田舎特有の“結束感”が強く、仕事以外はいつも決まったメンバーでどこかへ行ったり、飲みに行ったりしていました。
しかしその田舎からここへ移り住んで10年以上経つと、どうしても人間関係は希薄になってきました。
仕方のないことです。

その仲間たちとは一線を画してしまったようですが、メンバーと一対一で会ったときには別です。
昔と変わらない心の通じ合いがあります。
お互い、もう性格を知り尽くしているのですから。

ただ、夏は一泊しかしませんし、冬は二泊するとはいえ、年の瀬で大晦日と元旦ではゆっくり会うこともできません。

さて、今日は午前中に帰省先で初詣に行ってきました。
おみくじは「吉」。
思ったほど良くありませんでした。

Facebookでは今年はとんでもなく良い年だと書いてあったのに。
無料鑑定の広告だったからでしょうか。

昨年は末吉だったような、、

先日書いた昨年の出来事は、正月から5月まで東北で暮らす父の引っ越しを北海道から手配し休日多忙。
正月から春にかけて五十肩で鈍痛続き。
3月には転倒して骨折。
8月には家族間でよからぬ話題が持ち上がり、10月には父の死去。

まだありました。
5月は毎日9.5時間労働で過労。
6月は上階のボイラー水抜きの失敗で家の床が水浸し。
9月は地震で停電(ブラックアウト)。停電で壊れたボイラー交換まで九日間待たされ、お湯が使えない。

今年は良い年であるよう祈ります。
11月下旬まで喪中なので、正月の祝い事はありません。
が、皆さまにとって今年、良い年になりますよう、心からお祈りいたします。














2018年12月31日

今年の終わり


大晦日。

近年、大晦日の過ごし方が決まってきました。
妻の実家で、基本なんにもしないまま過ごしています。
何もしないといっても今日は午前中、お土産を買ってきました。

ついでにスーパーへ寄ると必ず、誰か知人に会います。小さな町なので。
また平気で十何年振りという“再会”があるのです。
ホッとしますね、元気でいる姿を見るのは。

実家へ戻るとすることがないものだから、テレビを見ます。
それしかできないのだから、見たくもない番組であっても、まず見てみます。
すると、見てみればそれほどつまらない番組でもないと感じてきて見入ってしまいます。

この時間が好きになりました。

そしてこんな過ごし方が、年に一日あることが貴重に感じてきました。
それも家族が元気でいるからできることなので、感謝しなければならないのでしょう。
当たり前のことって実は“幸福”に包まれているんですね。


それにしても昨年の大晦日は、ついこのあいだだった気がします。
こうして一年一年が過ぎて行くと同時に間違いなく“死”に近づいています。
これが現実。

悔いなく生きようじゃありませんか。

今年も私の拙文にお付き合いいただき本当にありがとうございました。
幸い体調も悪くなることがなくなり、ブログもポチポチ書いて行けそうです。
来年もどうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m


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posted by CSおじさん at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2018年12月30日

帰省


帰省してます。

道中、初め吹雪模様でした。
左後方から強風に押され、路面は凍結のため50キロの速度規制。
しかし前走車が100キロで走るため、ついていこうとこっちも100キロ。
バスは車体が大きいので安定していますが、こっちはちょっとコワかった。

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やがて風がやんだと思うと晴天に。
木の枝には雪が付いています。
吹雪のあとに見られる景色です。この景色を見ると「雪って綺麗だ」と感じます。

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帰省先は妻の実家。
二泊三日でゆっくりさせてもらいます。




2018年12月29日

灯油の配達(今年を振り返って)


 今年も残すところあと2日。

今年を振り返ってみると、わりと不幸の多い一年でした。
東北で暮らす父の引っ越しを北海道から手配する必要があり休日も多忙。
五十肩で鈍痛続き。3月には転倒して骨折。
8月には家族間でよからぬ話題が持ち上がり、10月には父の死去。

父の死は早かったですよ。
前月まで電話でもあんなに元気でいたのに、入院したと聞いて10日後には他界しました。
年齢も年齢だったから仕方がないのでしょう。

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でも長生きしたものです。
享年85歳でした。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」
という言葉があります。
その頃からすると、大きく変化したものです。

子供の頃に60歳と聞けば、もう“おじいちゃん”、“おばあちゃん”と思いました。
今ならまだ、これからですよね。
だって、年金だってまともにもらえない年齢です。


 さて、今日は灯油を配達してもらいました。
だいたい冬期間は毎月一度、配達してもらいます。

北海道の暖房は、灯油が一般的です。
中には優雅に“薪ストーブ”や、工場などでは重油の廃油を燃料にしているところもあるようです。

なぜ灯油化かというと、コストを抑えるためです。
以前、電力会社の仕事をしていたとき、関西では冬場もエアコンという家が多いことを知りました。

北海道以外、夏はエアコンが欠かせないでしょう。
関東、関西、その他、暑い方面で夏場にエアコンは必需品。
でも冬場は長くないし、東北・北海道に比べるとそんなに寒くない。

であれば、短い冬のためにわざわざ壁に換気口を開け、灯油のストーブを買い、灯油のタンクも設置して、夏場は邪魔になるだけ。ならば、冬もそのままエアコンを使うという選択肢になるのでしょうね。
そのため、冬場の電気代は月に3~5万円という家が多かったと思います。

北海道で電気代が3~5万円というのは一般家庭だと考えられません。
その分、灯油代は我が家の場合、毎月1~2万円かかります。
マンションだと1万円、一軒家だと2万円でした。


 灯油の配達話に戻ります。
北海道は灯油が一般的です。灯油はタンクに備蓄します。
タンクは主に二種類あり、90リットルタンクと490リットルのタンクです。

それぞれ、ストーブに直接パイプでつながっています。

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90リットルのタンクは、あまりたくさん消費しないマンション向けで、大抵屋内にあります。


490tank.jpg
490リットルタンクは一軒家向けで、家の横に鎮座しています。


灯油の配達は、490リットルタンクの家のみという業者も多くあります。
今日、配達してくれた業者は少ない量でも配達してくれます。
それでも、60リットル以上という条件だそうです。

ほとんどの家が灯油ですから、冬場の業者さんはさぞ忙しいことなのでしょう。
灯油の単価は原油価格によって上下しますから、いま高値ですね。
世界の投資家たちの都合に影響を受けている私です。

8:2の割合ってあります。
世界で2割の人口が、8割の資産を持っている。
また、会社で2割のエリートが8割の売り上げを出しているなど。

お、
また話題が逸れてしまいそうです。

 今日の灯油は1リットル93円でした。
今日は112リットル入れてもらいました。家のタンクは90リットルです。
しかし、ポータルファンヒーターを使っている部屋もあり、18リットルのポリ缶も二つあります。

93円 × 112リットルでだいたい10,400円。
もし、60リットルだったら5,580円。
それ以下なら採算が合わないのでしょう。

なので、60リットルに満たない配達を頼まれると、断るそうです。
もちろん、お客さんは、何リットル入るかなんてわからずに配達を頼むでしょう。
しかし、配達に来て90リットルタンクだった場合、仮に半分残っていたら、業者は断ると言います。

せっかく配達に到着したのだから、たとえ5,580円でも給油すれば?
という考えもあると思います。

確かにそこで入れてあげた方が一見、あとあと会社のためになりそうだと思うのですが、、、
しかし60リットル以下のお客様をたくさん持ってしまっては経費の下になってしまうはずです。

だから、そこで“前例”を作ることはできないのでしょうね。
もし仮に、「今回だけ。」と言っても、また繰り返すでしょう。

これもお客様のモラル、或いは相手(業者)の立場に立って考えていない証です。

 また今日、神棚を掃除しました。
年一回の掃除です。また注連縄(しめなわ)も取り換えます。

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喪中ではありますが、神道の50日祭(忌中)は終わっているので注連縄も、初詣もOKです。

今日は29日。
“にじゅうく”は“二重苦”という例えもあります。
でも昨日まで仕事だったから仕方がありません。そこは許してもらいます。


 明日から二泊で妻の実家へ行ってきます。
いつもより記事が短くなるでしょう。
または書けないかも知れません。













posted by CSおじさん at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2018年12月28日

事情


 今日で今年の仕事が終りました。
30日に里帰りする予定です。

暮れになると人の人生を紹介するテレビを見ます。
見ようとして見るのでなく、放送していたのでたまたま見た。という状況です。

去年だったか、一昨年だったか里帰り先でAppleの創設者であるスティーブ・ジョブズと、彼を支えた相棒の人生を紹介していました。
主に相棒に的を当て、人格的に少し難のあったスティーブ・ジョブズを補佐し、彼がAppleを追い出されたあと、引き戻しもしてあげた人として紹介されていました。とても良い話でした。

ところがもう放送から時間も過ぎたので、あまりよく憶えていません。

このブログに記事として残しておけば、記録として文字で残ったのでしょうけど。
ということは、まだブログを始めていない一昨年の放送だったかも知れません。

 今日は二つの番組で3人の人生に触れました。
一人目は
“テレサ・テン”

「アジアの歌姫」ですね。
日本でもヒット曲だ出していました。
昔はドリフターズの“8時だヨ!全員集合”でもよく見ました。
日本で活躍したのち、いつの間にか故郷である台湾に戻っていました。

今日は途中から見たので、不完全です。
が、彼女にはお互いに結婚を望んだ相手がいたそうです。

しかし相手は資産が5兆円ある企業の御曹司。
テレサ・テンは御曹司の祖母(母かも知れません)に、
「嫁ぎたいなら歌手をやめなさい。」
と迫られます。

テレサ・テンは歌をやめることはできない。
そこで駆け落ちしようと彼に相談します。
でも彼も家を捨てることはできないという。

結婚をあきらめたテレサ・テンは、再び日本へ来てヒット曲を出します。
それが「つぐない」なのだそうです。
なにか連想させる歌詞です。

二人目は
ジャイアント馬場の妻、馬場元子。今年亡くなったそうです。
番組では「女帝」と紹介していました。

良いところのお嬢さまで、4人の兄弟姉妹には一人ひとりにお手伝いさんがついたそうです。
そのため、掃除をしたことがなく、家の片付けを一切できなかったのだとか。
馬場家の掃除と片付けはジャイアント馬場がしていたそうです。

全日本プロレスの社長はジャイアント馬場だったと思います。
が、元子の発想でプロレス選手たちのグッズ販売をし、年商1億5千万。
しかし選手たちにロイヤリティは払われていなかったと週刊誌に掲載されたことを、
番組では紹介していました。

グッズ販売をするジャイアント・サービスは、ジャイアント馬場と元子が経営とWikipediaには書いてありますが、テレビでは元子が牛耳っていたとなっていて元子の思い通りにならないと激怒するのだとか。
社員の些細な失敗も、完膚なきまで責めるため、敵の多い人。
怒り出すと物が飛んできたそうです。

さらにジャイアント馬場がガンで入院しても選手たちに明かさず、亡くなったときには遺体を隠すため、自宅マンションに置いたといいます。

と、ここまで書くと、良い印象は持てないと思います。
しかし実際は、

病気を隠したこと、遺体を隠したことも「強いジャイアント馬場」のイメージを崩したくなかったから。これは本人の意思を継いでいるとのこと。

実際に、全身に転移したガンのため、筋肉がすっかり落ちてしまった姿を、選手たちには見せたくなかったのだそうです。

また、会社を牛耳っていたのは、ジャイアント馬場の「優しいイメージ」を壊したくないため、あえて憎まれ役を買って出たのだとか。
ロイヤリティについては、ちゃんともらっていたと選手が証言していました。

そして番組の最後にはジャイアント馬場と元子が交わした手紙を紹介していました。
その数、なんと8,000通。

ジャイアント馬場と元子が初めて出逢ったのはジャイアント馬場が17歳、元子が15歳のとき。
後にジャイアント馬場から猛烈なアタックを受け、やがて二人は相思相愛に。
ところが、元子の母から強い反対を受けます。

当時まだ芽の出ない読売ジャイアンツのピッチャーだったジャイアント馬場。
そのため、相思相愛でも籍は入れず、1966年に婚約するも、結婚を公表したのは1982年。

ジャイアント馬場からアタックを受けていた頃より交わし続けた手紙だったそうです。


三人目は“滝沢秀明”さん。
ジャニーズ事務所を背負って立つ、明るいイメージでした。
しかしジャニーズに応募したのには引くに引けない、ある事情があったからなのでした。

彼の少年期は今とまったく異なり、口数が少なく人前に出るのをためらう性格だったといいます。
何より、とても貧しい時代を過ごしました。

父親からの愛情を受けた記憶がなく、話したこともほとんどなかったそうです。
ある日、父から車まで荷物を運ぶ手伝いを頼まれ嬉しかったこと。
しかし、それが父を見た最後だったそうなのです。

両親の離婚。
母は朝から晩まで働きづめ。

しかし家は貧しく、小麦粉を水で溶き、焼いたものにケチャップを付け食べた。
食べるものがないときはお菓子で空腹を紛らせた。
鉛筆や消しゴムを買えず、落ちていたのを拾って使っていた。

冬でもタンクトップに半ズボン。
朝礼のとき、校長から“元気の手本”のように紹介されたが、理由が違っていた。

そんな貧乏生活から抜け出すため、子供でもできる仕事がないかと、プロレスラーを志願します。
しかし13歳で133cmしか身長がないため、あきらめることに。

それでも自立したい彼はある日、姉がテレビのKinKi Kids(きんききっず)に夢中になっている姿を見ます。
そしてジャニーズに応募します。
書類選考を通りオーディションの日、偶然隣にいた小池さんは、皆とは違う気迫を感じたと語りました。

皆さん、それぞれある事情を持って生きていますね。
外見からは考えられない何かを背負って生きている人はいますね。
そんな人たちの話をきくと、その人の人生に“厚み”を感じるようになります。

だからつい、好きで見てしまいます。


 さて、昨日の続きです。
今日、再試験がありました。

大丈夫でした。

昨日の問題とは違う出題ばかりでしたが、ちゃんと再試験は通るように”仕掛け”がしてありました。













2018年12月27日

試験結果


 昨日の続編です。

3週間続いた研修も明日で終わります。
終える前に研修の効果診断として理解度テストがありました。

合格点は80点。
どちらかというと高いと思います。

結果は78点。
不合格です。

でも私、この結果に満足しています。
決して負け惜しみではありませんよ。^^

というのも、不合格の者は明日、再試験を受けます。
その再試験は明日のOJT時間にするというのです。

OJTは、実際にお客様の電話を受け、横に先輩が付いてアドバイスをしてくれます。
現場に出ると横には誰も付いてくれませんから、本来ならOJTをたくさんこなした方が良いのでしょう。

でも私の考えでは、OJTをするより、現場で揉まれて学ぶものと思っています。
またOJTではダメ出しがあるかも知れません。

まして私の場合、横に付いて下さるのが先輩といっても、私より20歳近くも年下の可能性が高い。
だから決して楽しいものではないのです。

OJTをするなら、その時間に再試験を受けた方が良いし、また点数も78点です。
きっとあと1問で合格だったのです。
これが50点しか取れていないのなら焦ります。そりゃ。

あと一問、多く正解すれば良いのです。
あ、
ただ、明日が今日と同じ出題とは限らないですね。
なら話は別です。^^;
やっぱり不安。

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 また、その78点については、ほんのちょっと、ドラマ?がありました。
テストは何を見ても良いということでした。
Webで検索しても良いし、研修中参考にした資料を見ても良い。

残り時間あとわずかというとき、ふと思いつきました。
さっき山勘で答えた解答。
試験中に何を見ても構わないのだから、出題された内容と同じ画面を開けばいいことに。

ただ、これはどこの受信センターも同じで、業務中には様々なツールを同時に開く必要があります。
皆が口をそろえて言うのは、
「どうにか一つのツールにまとまらないものか?」

今度のセンターでもツールはそれぞれ開かなくてはなりません。
そして開くにはIDとパスワードを入力して認証されなければいけません。
残り時間わずかになって、IDかパスワードが違うとなり、目的の画面を開けません。

腹の立つことに、ツールごとにそれぞれIDが違うのです。ごっちゃになります。
ようやく開くことができ、私の回答が間違っていると判明。

しかし間違えた問題が探せません。
結局、そこで時間切れ。
あと10秒あれば、、
合格点。

でも良い。
もし合格していても後悔したと思うから。














2018年12月26日

え〜?


 3週間の研修も、残すところあと二日。

ところが今日の研修も終わり間近に
 え〜?
という通知がありました。

明日の午後、選択式のテストがあり合格点が80点だったか90点だったか。
よく覚えていませんが、合格しないと最終日に再試験だそうです。

さらにはその言い方。
「奇跡的に明日、一回で受かったら良いのですが。」
と。

誰かが質問します。
「もし再試験も受からなかったらどうなるのですか?」

答えは
「お疲れさまでした。(さようなら)」
だそうです。

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             マジ?

カマかけているとは思いませんか?
または明日合格しなければ地獄の補習が待っているとか。

もしそれが本当で、研修三週間の成果が選択問題で通らないと解雇とは?
ましてや80点でも90点でも、運転免許の学科並みに高い合格点です。

そんな狭き門にして、果たして前向きな経営といえるのでしょうか。
その三週間の研修中にも決して安くない給与を頂いています。

本当だとすると裏付ける根拠に、毎朝受ける復習テストはかなり難問です。
しかし皆の点数は、正直言ってあまり良い点ではありません。

三週間の研修はコールセンターとして決して短い研修ではありません。
ですが習得しなくてはならない知識のボリュームからして十分な期間とも思えません。

思うに、三週間だけの研修で習得できる能力のある者のみ、実務に就けるのだとしたら、それほどのクォリティを求めている会社だということでしょう。

だけど皆、研修のあとには実務に就く予定で応募したはずです。

そりゃ中には決して安くない研修期間の給与だけいただいて、実務には就かず計画的に辞めるヤツがいたっておかしくはありません。
けど、研修で辞めておいて次の就職先をきちんと押さえておけるほど、世間は甘くないはず。

何しろ、研修が終わると同時に年末を迎えます。
仮に解雇が本当だとして、こんな年の瀬に「解雇」だなんて、
そんなことが人道的に許されるものではないと思います。違いますか?

試験に落ちた者は正月から就職活動しなければならないのでしょうか?

研修中に学んだのは電話をして下さる顧客に安心を与える応対をすること。
そんな企業が研修生をないがしろにするとは、考えられないことです。

と、これを書きながら私自身、どんなものかと考えているのですが、

 ないですね。

解雇なんて。

聞いたことがありません。
派遣会社もそんな派遣先を勧めてくるとは思えません。

だとしたら、
試験に合格しないと、
「お疲れさまでした。(さようなら)」

そう言った講師は、ちょっと、、。
人を食ったような話です。

見ているとその講師は企業と私ども研修生徒のはざまに立ち、余裕がないように見えていました。
いわゆる「テンパっている」状態です。(もう古い言葉です)

かといって、だから何を言っても許されるものではないと思いますね。


 試験結果がどうなるのか、追ってまた報告します。













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