2015年12月23日
吉田松陰に学ぶ生き方
私が中国地方に自転車旅に行った時、萩を観光した折、吉田松陰神社なるものに寄り道しました。
幕末に生きた人物が祀られてる神社?
徳川家康などの将軍が祀られているのであれば理解しますが、一藩士に過ぎない吉田松陰がなぜ、祀られているのか疑問に思いました。そして、吉田松陰神社境内に保存されている松下村塾を見て、こんな小さなあばら家のようなところで日本を大きく動かす偉人が集まり、学び、議論したことを思うと鳥肌がたちました!色々調べるうちに、彼の凄さをみなさんにも知っていただきたいと思い、こんな記事を書いてみました♪
幕末の長州藩に生まれ、長く続いた幕府体制に幕をひく中心となった人々の育成を行った吉田松陰…。彼は山口県の萩に小さな塾・松下村塾を作り、そこで彼の思想を多くの人に伝え、その門下から多くの尊皇攘夷派を世に送り出した。吉田松陰の弟子には坂本龍馬や初代総理大臣伊藤博文、高杉晋作、山県有朋、久坂玄瑞など近代日本の基礎を作り上げた偉大な人物の名が連なっている。
<吉田松陰の生き様>
天保元年(1830)8月4日、長州藩萩城下松本村に役料26石の下級藩士杉百合之助の次男として誕生。
吉田家は山鹿流兵法学指南の家柄で、わずか10歳で藩候 毛利敬親の前で兵書を講ずるほど優秀だった。
彼は机上の空論を嫌い、「行動・実践」を原則とする陽明学に傾倒した。
やがて山鹿流の師範となり、21歳の時に九州から関東を巡り、見聞を開いた。これは諸国の海防の実状、ちりをその目で確かめることを目的としていた。この時に見聞したものを『飛耳長目』という冊子にまとめ、情報収集の必要性を松下村塾の門下生たちに問いてた。
22歳の時、さらに天下を遊学したいという思いから脱藩。当時脱藩は死刑に値したが、家族のとりなしと学問への情熱が認められ、十年間四方への遊学を許可された。
25歳の時、下田沖に来日したアメリカ船に金子重助とともに密航しようとしたが失敗し、獄に下った。
松陰は根っからの攘夷論者であったが、それは単なる攘夷ではなく、異国を追い払うためには異国を知らなければならないという意図があった。その情報収集のための密航未遂であったのだ。
彼は言行一致を一貫しており、だからこそ一流の人物たちが彼を慕った。
1858年、30歳の時に安政の大獄が始まり、斬首。
「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」
彼の遺志は、門下生たちに脈々と受け継がれ、やがて現実的な倒幕運動が展開された。
<松下村塾>
山口県市萩市郊外松本村、長州藩士杉百合之助(松陰の父)の家の一画に建てられた。松下村塾として機能するのは、松陰がアメリカ船に密航を企てた罪で捕まり、三年間の牢獄生活を経たのちであった。
松下村塾に集まった者は、
純粋に学問をしたい
国禁を犯した人物はどんな人間か
と様々な思いで集まっていた。(高杉晋作は後者)
門下生は年齢、学歴、身分問わず、気に応じて個別に指導された。
朱子学を基本としており、単に学識を深めるためのものではなく、実践のための学問であった。
また、学問だけでなく、農作業に勤しむ時間もあり、松陰と門下生、あるいは門下生同士の交流の場ともなっていた。
入塾前の門下生の学問への志向とそれに対する松陰の教育は、一見すると統一性がないようだが、そこには「士規七則」という松陰の信念があった。
<士規七則>
⒈死して後止む(何事をなすにも、良い加減であってはならない。死を厭わないほどの覚悟があって初めて確固たる人生が歩める)は、言簡にして義広し。堅忍果決にして、確乎として抜くべからざるものは、これを舎きて術なきなり。
⒉およそ生まれて人たれば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。蓋し人には五倫あり、而して君臣、父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は、忠孝を本と為す。
⒊およそ皇国に生まれては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万世統一にして、邦国の士夫は禄位を世襲し、人君は民を養い以って祖業を続き、臣民は君に忠にして以って父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、ただ吾が国のみ然りと為す。
⒋士の道は義より大なるは莫し。義は勇に因りて行われ、勇は義に因りて長ず。
⒌士の行いは、質実にして欺かざるを以って要となし、巧詐にして過を文る以って恥と為す。公明正大、みなこれより出づ。
⒍人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、即ち鄙夫のみ。書を読み友を尚とぶは君子の事なり。
⒎徳を成し材を達するに、師恩、友益は多きに居る。故に君子は交遊を慎む。
「そのためにはまず、人生の目標をたて、友人とよく交わり、学問をしなければならない。」
<楠公七生説>
確固たる志を立てた者の魂は、七度現世に蘇るという説。
<草莽崛起(そうもうくっき)>
吉田松陰が死の直前に記した本。
志を持った在野の人々こそが日本の変革を担う原動力になるという意味で、
明治維新の父吉田松陰が維新への決起を促した言葉。
「草莽」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者、転じて一般大衆、
「崛起」は「立ち上がれ」という意味です。
<吉田松陰が残した名言まとめ>
「今日の読書こそ、真の学問である。」
「夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。」
「私心さえ除き去るなら、
進むもよし退くもよし、
出るもよし出ざるもよし。」
「一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、
一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。」
「大器をつくるには、いそぐべからずこと。」
「人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。
聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。」
「小人が恥じるのは自分の外面である、
君子が恥じるのは自分の内面である。
人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。」
「死生は度外に置くべし。
世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。
武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。
心懐爽快ならば人間やつれることはない。」
「みだりに人の師となるべからず。
みだりに人を師とすべからず。」
「一つ善いことをすれば、その善は自分のものとなる。
一つ有益なものを得れば、 それは自分のものとなる。
一日努力すれば、一日の効果が得られる。
一年努力すれば、一年の効果がある。」
「道を志した者が
不幸や罪になることを恐れ、
将来につけを残すようなことを
黙ってただ受け入れるなどは、
君子の学問を学ぶ者がすることではない。」
「大事なことを任された者は、
才能を頼みとするようでは駄目である。
知識を頼みとするようでも駄目である。
必ず志を立てて、やる気を出し努力することによって上手くいくのである。」
「過ちがないことではなく、
過ちを改めることを重んじよ。」
「自分の価値観で人を責めない。
一つの失敗で全て否定しない。
長所を見て短所を見ない。
心を見て結果を見ない。
そうすれば人は必ず集まってくる。」
「平凡で実直な人間などいくらでもいる。
しかし、事に臨んで大事を断ずる人物は容易に求めがたい。
人のわずかな欠陥をあげつらうようでは、大才の士は、もとめることが出来ない。 」
「学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。 」
「志定まれば、気盛んなり。
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり。 」
「教えるの語源は「愛しむ」。
誰にも得手不手がある、
絶対に人を見捨てるようなことを
してはいけない。」
「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」
「奪うことができないものは志である。
滅びないのはその働きである。
人間が生まれつき持っているところの
良心の命令、
道理上かくせねばならぬという
当為当然の道、
それはすべて実行するのである。」
「利をうとんずるといふ事は、
必ずしも富を厭ひ
貧を欲するといふ事ではない。
貧富によりて少しも心を
みださないといふことである。」
「満開となれば、やがて花は落ちる。
太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。
人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。
百年の間、必死で勉強すべきでありゆったりとくつろぐ暇などない。」
「だいたいにおいて
世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。」
「成功するせぬは、
もとより問うところではない。
それによって世から
謗されようと褒められようと、
自分に関することではない。
自分は志を持つ。
志士の尊ぶところは何であろう。
心を高く清らかにそびえさせて、
自ら成すことではないか。」
「悔いるよりも今日直ちに決意して、
仕事を始め技術をためすべきである。
何も着手に年齢の早い晩いは
問題にならない。」
「思想を維持する精神は、
狂気でなければならない。」
「英雄はその目的が達成されないときには
悪党や盗人とみなされるものだ。
世の中の人から馬鹿にされ、
虐げられたときにこそ、
真の英雄かどうかがわかる。」
「法律をやぶったことについてのつぐないは、
死罪になるにせよ、
罪に服することによってできるが、
もし人間道徳の根本義をやぶれば、
誰に向かってつぐないえるか、
つぐないようがないではありませぬか。」
「人間が生まれつき持っているところの
良心の命令、
道理上かくせねばならぬという
当為当然の道、
それはすべて実行するのである。」
「人を信ずることは、
もちろん、遥かに人を疑うことに
勝っている。
わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、
絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。」
「どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。
その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。
これこそが人を大切にするうえで
最も大事なことだ。」
「17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。
80、90、100になってもこれで足りたということはない。
半年と云う虫たちの命が短いとは思わないし、
松や柏のように
数百年の命が長いとも思わない。
天地の悠久に比べれば、
松柏も一時蠅(ハエのような存在)なり。」
「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。
反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。
心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。
魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。」
「学問をする眼目は、
自己を磨き自己を確立することにある。」
「学問の上で大いに忌むべきは、したり止めたりである。
したり止めたりであれば、ついに成就することはない。」
「人を観察するのは、目によってする。
胸の中が正しいか、正しくないかは、瞳が明るいか、暗いかによって分かる。」
「今の世の中、
優れた人物がいないと人は言うが、
上の者が優れている人物を好むということさえすれば、
人物がいないことを心配する必要はない。」
「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。
大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」
「人間には精気というものがあり、人それぞれに精気の量は決まっている。
この精気なるものは抑制すべきである。
抑制すればやがて溢出する力が大きく、ついに人間、狂にいたる。
しかし、おのれの欲望を解放することによって、固有の気が衰え、ついに惰になり、物事を常識で考える人間になってしまう。」
「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。
小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。」
「敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。
自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。
自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか。」
『吉田松陰一日一言』(川口雅昭)
平戸や江戸への遊学、軍艦に乗り込もうとした下田事件、私塾・松下村塾を主宰したことからも分かるように、吉田松陰は実行の人である。幕末という激動の時代において、信じられるものは自分自身の実行力のみ。結果として、松陰は新しい時代の訪れを見る前にこの世を去ったが、彼が残した多くの言葉は今なお、日本人を奮い立たせている。
<現代の吉田松陰になるために…>
吉田松陰について書かれた本を紹介します。この記事を読んで吉田松陰に興味を持ってくださった方がいればぜひ参考にしてください♪
これが私が幕末の流れを知るために参考とした本です。そのページで出てきた人物や事件がそのページの下で解説されていて、とても読みやすかったので、オススメです!
身分の高いものにでも違うものは違うと言った秩父太郎の愛読書「近思録」。朱子学の本。
幕末の思想家・吉田松陰が獄中教育で行った『孟子』の講読、各章読了後の所感、批評、意見等をまとめたものの中から、現代人にとって重要と思われる文章を選び、わかりやすく現代語訳を加えている。さらに余談を組み込み、語句の理解を深められるよう工夫し、付章として「男子の教え、女子の教え」もある。松下村塾教育への発端を感じさせる言葉は、教育者の根本にある人々への「愛」に溢れている。巻末の原文を味わいながら、日本の黎明を導いた「愛と正義」の人・松陰の思想を学ぶ。
『吉田松陰 留魂録 (全訳注)』(古川薫)
死を覚悟して執筆した松陰の遺書を読み解く志高く維新を先駆した思想家、吉田松陰。安政の大獄に連座し、牢獄で執筆された『留魂録』。松陰の愛弟子に対する最後の訓戒で、格調高い遺書文学の傑作の全訳注。
その他の吉田松陰に関連した書籍はこちら!
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