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2017年02月05日
いも侍と呼ばれた薩摩武士。
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幕末に京都で討幕活動をしていた諸々の藩の藩士達のなかで、薩摩人と土佐人は見かけだけで判別できたそうです。まぁ両藩とも服装や髷の形(月代の剃り方)等が時代遅れで,ダサイと見られていたそうです。
刀にしても、当時には時代遅れの「朱鞘」と呼ばれる鞘が赤く漆で塗られた刀を使っている者が多く、しかも歩く際に邪魔になるほどの長刀を堂々と帯びていました。
江戸も末期になると、武士も身なりを飾るようになり、刀も軽くて短い物が人気になっていた時代、京都や江戸で朱鞘の刀などを差している者は、田舎者として失笑されたそうです。
しかし、薩摩、土佐の両藩は「武士が身につける物に気をつけるのは、恥ずべきことだ。」という教えが生きていたのでしょうか。
そんなところにも、明治維新をやり遂げた原動力の一部があったのかも知れませんね。
太平の世でも決して鍛錬を忘れなかった薩摩武士。
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鹿児島市内には「馬場」の付く地名が沢山あります。今思い浮かぶだけでも、「高見馬場(たかんばば)」、納屋馬場(なやんばば)、舘ん馬場(やかたんばば)、他にも「堅馬場(たてばば)」とありますし、他には「騎射場(きしゃば)」という地名は、馬に乗りながら弓を射る(やぶさめ)の練習場が在った場所です。
これらに共通するのは、現在の地図では正式な町名ではなく、またその範囲も極めてアバウトであるにも関らず、地元鹿児島の人間は、のあたりまえのごとく使用しているということです。
江戸時代を通して、武士達の鍛錬場がこんなに多く存在していたということも、「武の国」薩摩藩の特徴でしょうか。