新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2017年02月17日
悲劇の僧「俊寛」
にほんブログ村
鹿児島市の繁華街にある御着屋(おつきや)交番の近くの建物の間の目立たない場所に、石碑と説明の案内板がひっそりと建てられています。
案内板には、この場所が「俊寛僧都 」が流刑地へ送られた時の、船出の地であることが書かれています。
鹿児島市は平地が少ないため、江戸時代以前から海を埋め立てて広げられてきましたが、石碑のある場所から現在の海岸線まで、今では2キロは離れています。
先ほどの交番名「御着屋」もこの地がかつて船着場だったことを物語っています。
「俊寛」のことは平家物語や歌舞伎の題目にもなって現在まで伝わっているので、ご存知の方も多いとおもいますが、ちょっと補足させていただきます。
京都の木寺の僧、「俊寛」の家系は下役ながらも源氏につながります。平安末期、平家の台頭により源氏はほとんど力を失っていました。
それに不満を持つ源氏派の公家や武家達が、平家転覆を目的としたクーデター計画をたて、話し合いを重ねていました。ところがこれが平家の知るところとなり、集まっていた「俊寛」以下数人が捕らえられ、流刑されました。流刑された島についてもいくつかの説がありますが、鹿児島県の硫黄島か喜界島だろうと言われています。(諸説有り)流刑地の島には数年おきに御赦免船が来て、罪を許された人々が許され帰るなか、クーデターの首謀者とされた「俊寛」だけは決して許されず、島で非業の死をとげました。
島津氏由来の花尾神社
にほんブログ村
島津家の祖先は、朝廷の権力者藤原氏の有力な御家人近衛家に仕えていた、惟宗氏だとされています。
鎌倉幕府の開府に伴い鎌倉に移り、忠康が近衛家の荘園、島津荘(今の都城付近)の荘官に命じられました。
その子忠久が源頼朝より直接その地の地頭に任ぜられ、続いて薩摩・大隈・日向三国の守護職に追任されました。それを期に名字を惟宗から島津に変え、島津氏の初代となりました。
当初、今の出水市に拠点を築き薩摩の平定の第一歩を踏み出しました。
ところで、鹿児島市郡山町に「花尾神社」があります。ここからは伝説のようなものですが、島津家初代忠久は実母の丹後の局を呼び寄せ、この花尾一帯の領地を授けました。
源頼朝の木像を御神体に花尾神社を建立し、丹後の局が亡くなると、その地で荼毘に付し墓を建て霊を弔ったとされています。小さな神社ですが、格子状の天井には一枚一枚に鮮やかな絵が書かれ、贅を尽くした造りから地元ではさつま日光と呼ばれてきました。
鹿児島市中心部から車で30分ほどでしょうか、周辺には「南泉院」や「隠れ念仏洞」などが在りますので、観光にお勧めです。