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2016年04月16日

第87回 ピアノラ






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年六月二十八日、午後四時ごろ、野枝はじっと座っていることができないので家を出た。

 音楽会の切符は三枚あったので、保持を誘ってみようかと思った。

 一枚は辻の妹の恒に渡し、後で青鞜社の事務所に来るように言った。

 歩くのさえ嫌なので駒込から山手線で巣鴨まで行った。

 五時すぎに保持と恒と三人で出かけた。

 会場には野枝たちの方が早く着いたので、辻とは一緒の席ではなかった。

 音楽を聞いてる間も、例のことが絶えず野枝の頭に浮かんでいた。

 いい曲がたくさんあったが、野枝はピアノラでは呆気ないような気がしたし、ざわざわしていて得意気に歩き回っている女たちの、軽薄な見え透いた衒気たっぷりの様子にうんざりした。

 野枝は来るんじゃなかったと思い、保持をわざわざ引っぱって来たのが気の毒になった。

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 会場を遅れて出ると、辻と辻の友達のSさんが待っていた。

 野枝はなるべく不快な思いを消そうとして、冗談を言ったりしてみんなで駿河台下の停留所まで来た。

 電車を待っている間に、野枝はふと思いついて辻に言ってみた。

「あのね、あなたに木村さんからお手紙が来ててよ」

「僕にかい、本当に? お見せ」

「ここにあるものですか、うちにありますよ」

「そうかい」

 辻はそれっきり何も言わなかった。

 Sさんと別れて四人で電車に乗った。

 野枝は前の入口に立っていた。

 涼しい風が寒いほど野枝の顔に当たった。

 乗客が減るにつれて、後ろから乗った辻が前の方に来た。

 野枝は辻の顔を見ると不愉快な思いが湧き上がってきた。

 席がすいてきても、野枝は辻と並んで座ることができなかった。

 巣鴨で降りて真っ暗な中を、岩崎の塀にそったぼこぼこした道を歩いた。

 恒がいなかったら、野枝は泣き出したかもしれなかった。

 恒が急いで歩けないことを知っていながら、急いで歩かねば堪えられないほど野枝は苦しくなった。

 家に帰り着いても、野枝は自分が不愉快になっているから辻も不快なのだと充分承知しながらも、どうしても気をとり直すことができなかった。

 辻もおもしろくなさそうな顔をしていた。

 野枝は大急ぎで床の中に入ったが眠れなかった。

 辻は手紙を読み終えて、何かぐずぐず書くか読むかしているようだった。





  暫くしてTは、

「お前は私に見せない手紙を木村さんに出したね」と詰るやうに云ひました。

「えゝ」

「何故僕に見せない、どんな事を書いたんだ」

「だつてあのほらあなたに見せた手紙ねあれを出すときに、少し原稿紙に書き添えて出したの、だから、あなたに見せるひまがなかつたんです」

「何書いたんだい」

「別に何も書きませんわ、なんだか忘れてしまつたわ」

「自分の書いた手紙を忘れる奴があるもんか」

「だつて忘れたんですもの本当に」

「その他にはもう書かないかい」

「えゝ、書かないわ」

「本当かい」

「えゝ、本当」

「さう」

「書いてよ、もう一つ」

「嘘だろう」

「嘘じやないわ」

「本当かい」

「えゝ」

「何書いたの」

「何にも書かない」

「何にも書かないつてあるもんか」

「本当云へばね、嘘なの」

「何だ馬鹿な」


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p221~223/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p57~59)





 野枝はとうとう誤魔化した。

 白状すればよかったと思ったが、原稿紙に書いた手紙はなんのために書いたのか、すっかり野枝は忘れていた。

 別にたいしたことは書かなかったと思い、眠ってしまった。

 らいてうは、このあたりの野枝を手厳しく批判している。


 私は無意識な、無責任な抑へ処のない在来の所謂「女」に対するやうなたよりなさを感じた。

 女の心理に元来自分の言行に対して責任を負ふことの出来ぬものなら、そしてそれを左程苦痛としないやうに出来てゐるものなら、しかもそれが女の弱味であり、武器であるといふならそれも仕方あるまいけれど。

 かうした動じ易い、或パツシヨンの中に包まれて前後を忘れて仕舞ふ女の心理についてあまり多くの経験を有たぬ男なら、あの手紙を見て、自分の方へ女が投じて来たものと早合点するに無理もない。

 さうでなくともかういふ場合は男に共通な自惚が可成り手伝ふものだから。

 誤解は誤解に違ひないが、咎めることは出来ない誤解だ。

 殊に木村氏の如き性急な、自己の外、落付いて他を見る余裕のない程心の張り詰めた男に於ては猶更さうだ。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p93)





 一九一三年(大正二年)六月二十九日は日曜日だった。

 野枝は体調がよくなかったので、朝から横になっていた。

 辻と野枝が交わした手紙を入れた袋を野枝が持ち出すと、辻は嫌がって片づけろ片づけろと言っていたが、木村荘太との一件が起きてから、辻はその袋を持ち出して拾い読みしたりしている。

 野枝はそれをなんとなくうれしく、勝ち誇ったような気持ちで眺めていた。

 午前中に人が来た。

 義母はその人のところに出かけているらしい。

 辻と野枝が追い出したかのような口吻だった。

 ひと月ほど、辻の母・美津は家を出て行方がわからなくなっていた。

 その人は、老人の旧いコンベンショナルな頭で判断したことを並べ立てて帰って行った。

 野枝は腹立たしさよりも先に可笑しくなってしまった。

 恒とふたりで夜、美津を迎えに行くことにして、午後から野枝と辻はふたりが交わした手紙を日付順にそろえた。





 野枝は荘太から手紙が来るのが恐くもあり、待ち遠しくもあった。

 手紙は来なかった。

 荘太がもう会う必要がないと判断したなら、好都合だと野枝は思った。

 夕方、野枝が義母を迎えに行こうとしていると、保持と彼女の妹が訪れて康楽園のダリアを見に行こうと誘われた。

 義母を迎えに行くのは翌日にして、野枝と辻たちが出かけようとしていると、昨夜の音楽会で一緒になったSさんが来た。

 みんなで家を出た。

 時間が遅かったので康楽園には入れなかった。

 野枝たちは「ちまき」に入った。

 その店はいつか野枝がらいてうや田村俊子、岩野清子と来たことのある店だった。

 それから野枝たちは染井に帰って、保持たちを送りながら巣鴨まで行き、保持のところでしばらく遊んだ。

 保持の家を出て巣鴨から山手線に乗り、駒込でSさんと別れ、野枝と辻は暗い道を歩いて帰宅した。

 荘太はこの日の夕方、福士幸次郎のところから下宿に帰り、野枝が来るのを待ち続けた。

 不安に苦しみながら、荘太はさらにいっそう自分が野枝に牽かれていくのを感じ出した。





★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 15:02| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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