2016年07月09日

第284回 警視庁(一)






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年七月二十一日、大杉は警視庁に傷害罪の容疑で拘留された。

 二ヶ月前の船橋署の尾行刑事殴打の一件を蒸し返されたのである。

 警視庁の警務部刑事課長・正力松太郎の執念である。

 大杉は警視庁に二晩泊められ、七月二十三日に東京監獄の未決監に収監された。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝が村木と警視庁に行き刑事部屋で大杉と面会したのは七月二十二日だった。

 野枝がこのときのエピソードを書いたのが「悪戯」であるが、安藤花子というペンネームで寄稿している。

「○○○」は警視庁、「O」は大杉、「M」は村木。

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 場所は○○○の地下室の一つ、Y警部の室(へや)、さうですあの濠端の電車通りに面した室です。

 夏の暑い日盛りの事、私はその時彼処の留置場に拘禁されたOに会ふ為めに同志のMーーと二人で其処へ行つたのです。

 彼(あ)のお役所の正面をはいつて左の階段をおりると左手にずつと明るいタゝキの廊下があつて、其処においてある木の腰掛けには、何か調べを受ける為めに呼ばれた人が何時も控へてゐます。

 その時にはたしか二三人の人しかゐなかつたと思ひます。

 彼の大きな建物の蔭になつてゐる中庭から其の廊下に吹き込んで来る風は夏の日盛りとは思へない程冷やつこくていゝ気持なんです。

 私はおゆるしが出るまで、その涼しい風の吹く処に立つて待つてゐました。

 その間私の前をいろんな人相の悪い刑事達が通つては幾つもの室を出たりはいつたり忙しさうにしてゐました。


(「悪戯」/『ニコニコ』一九二〇年二月号・第一〇四号/「アナキストの悪戯」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/「アナキストの悪戯」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 やがて、野枝はY警部の部屋に呼ばれた。
 
 そこにはY警部の他に二、三人の刑事たちが控えていた。

 大杉に面会する理由をY警部に尋ねられた野枝は、至急を要する仕事の相談、家の始末について、および差し入れのことだと簡単に答えた。

 村木が入室することは許可されなかったが、廊下で会うことはどすることもできないのである。

 すぐに大杉はひとりの刑事と一緒に入って来た。

 さすがに野枝は胸がいっぱいになった。

 大杉の疲労し切った顔を見て、野枝は彼が眠れないのだと思った。

 帯をしめないで細い木綿の紐で結わえた腰のまわりが、情けないほどみすぼらしく見えた。

 野枝は今すぐにでも、持ってきた新しい麻縮みに着替えさせたいと思ったほどだった。





「まあ、なんて顔をしているんです。ずいぶん疲れた顔をしているじゃありませんか。そうして、帯はどうしたんです?」

 部屋の右側にある卓(テーブル)に向かい合って腰かけるなり、野枝はすぐに大杉に言った。

「帯かい、取り上げられるんだよ。首なんか吊っちゃいけないからというんだそうだ」

 大杉は笑いながら、入口に近い廊下に立っている村木の方を振り返って、顔を見合わせた。

「どうも蚊がひどくって一睡もできないんだ。これは君、なんとか方法を講じてもらいたいな。また今晩もあれじゃ、やり切れたもんじゃない」

 大杉はY警部に向かって言った。

「さあ、どうも警察には蚊帳のあるところってのはないんでなあ。まあ、君、今夜ひと晩だ、昼間うんと寝ておいて我慢するさ」

「蚊帳がなきゃ、なんとか他に方法をとってもらいたいな。このあいだ、築地じゃ線香をたいてくれたが、あれでもよっぽどいいよ。なにしろ少々の蚊じゃないんだからなあ」


 不断蚊帳の中に一匹どうかして蚊がはいつても眠れない程なのに夜どほし蚊帳なしに責められては本当に文字どほりに一睡も出来ないのに違ひない。

 さう思うと仕方がないとは諦めながらも不当としか思へない此の拘禁が本当に腹立たしく思へるのでした。


(同上)





「ここでだけなら、煙草を吸ってもかまいますまいね」

 野枝はひとりの刑事がお茶をふたりのテーブルの上に置いてくれたのを機会に、振り返ってY警部に聞いた。

「ここでだけはよござんす。何か食べたいものがあれば、それもここでなら黙認します」

 通りに向いた、窓際の大きなデスクの上の書物を片づけながら、警部ははっきりとした調子で答えた。

 野枝はすぐ立って村木のそばに行き、果物を買って来てもらおうと思ったが、近所に水菓子屋のないことに気づいて、甘いものを頼んだ。

 大杉は眩しい通りの方を眺めながら、野枝が持って来たマニラの両切りを呑気な顔をして吹かしていた。

 野枝と大杉の用談はすぐにすんだ。

 警部も刑事たちも、ふたりの話を注意して監視しているようにも見えなかった。

 野枝と大杉はまもなく村木の買って来たお菓子をつまみながら、思い出すままにいろんな話をした。

 ときどきは刑事たちも口を出して、軽い冗談を言ったりしてくつろいで話した。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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