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2016年06月04日

第240回 百姓愛道場






文●ツルシカズヒコ



 日蔭茶屋事件後、半年くらいの間、大杉は「神近の怨霊」をよく見たという。


 ……夜の三時頃、眠つてゐる僕の咽喉を刺して、今にも其の室を出て行かうとする彼女が、僕に呼びとめられて、ちよつと立ちとまつて振り返つて見た、その瞬間の彼女の姿だ。

 毎晩ではない、が時々、夜ふと目がさめる。

 すると其の目は同時にもう前の壁に釘づけにされてゐて、そこには彼女の其の姿が立つてゐるのだ。

 そして、其のいづれの場合にも、僕が自分に気のついた時には、おびえたやうに慄えあがつて、一緒に寝てゐる伊藤にしつかりとしがみついてゐるのだつた。

 ……僕は本当の自分に帰つて……手を伸ばして枕もとの時計を見た。

 時計はいつも決つて三時だつた。

『又出たの?』

『うん。』

 と、伊藤はそれを知るつてゐる事もあつた。

 が、ぶる/\慄えたからだにしがみつかれながら、何んにも知らずに眠つてゐる事もあつた。

 そして、よしそれを知つてゐても、僕のおびえが彼女にまでも移る事は決してなかつた。

 彼女はいつも、

『ほんとにあなたは馬鹿ね。』

 と、笑つて、大きなからだの僕の頭を子供のやうに撫でてゐた。


(「お化を見た話」/『改造』一九二二年九月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「葉山事件」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一七(大正六)年四月九日、大杉と野枝は江渡狄嶺(えと-てきれい)を訪ねた。


 当面の生活費、さらには運動への後援、資金の懇望のためだろう。

 彼は応じたらしく、さらに『文明批評』発刊時にも、資金援助をしてもらったとみられる。

 江渡は府下高井戸村(現、杉並区高井戸東一丁目)で「百姓愛道場」を開き、農業経営を実践していた。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)





 六月十七日、神近の控訴審判決が出た。

 懲役四年から懲役二年に減刑された。

 弁護士は一年以下の懲罰にできると踏んでいたが、神近が服役してサッパリ罪を償いたいという意思表示をしたので、控訴は取り下げられた。

 六月下旬、空には雲があったが、その間から初夏の強い陽が射していた。

 この日、生田春月のところに来客があった。

 そのときのことを春月は自伝的小説「相寄る魂」に記している。

 生田春月はモーリス・メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を終えたばかりだった。

 その原稿を持って書店に売り込みに行こうかと思い、机の上などを片づけていると、下宿の女中が来客を知らせに来た。

「お客様ですよ、御夫婦らしいですわ」

「お邪魔じゃないかね」

 と言って入って来たのは、思いがけず大杉だった。





 大杉の後ろには小柄な野枝がいた。

 野枝は髪を真ん中から分けて頸で束ね、ニコニコしていた。

「ついこの前を通ったもんですから……」

 彼女はやはりニコニコして、そこらじゅうを見回しながら、大杉のそばに座った。

「静かでいいわね、この部屋は……」

 野枝はいそいそしている様子で、誰に言うともなく呟いて、春月をちょっと見てから、大杉の顔を甘えるように覗いた。

「どうしています。何をやっています?」

「メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を仕上げたところです」

「『モンナ・ヴァンナ』を?」

 大杉は意味ありげに微笑した。





 大杉のその落ち着いた様子に、新聞や人の噂で伝わっているような興奮や熱しているような気配は、微塵もなかった。

 日ごろ疎遠になっていた大杉が野枝と連れ立って、序(つい)でとはいえ、訪れてくれたことが春月は嬉しかった。

 大杉が愛する女、野枝の濃い眉をした丸顔がニコニコしていた。

 辻潤とも親密な交わりのあった春月は、このときの野枝の印象をこう書いている。

「奈枝子」は野枝、「隅田順」は辻、「大菅左門」は大杉。


 奈枝子はすつかり若く見えた。

 隅田順の家で、暗い皮肉な顔をして、子供をかかへてゐた時とは、まるで別人のやうに見えた。

 新調らしい派手なセルの着物に、赤の入つたメリンスの帯を締めて、その服装からして、まるで甦つたやうに、いかにもいきいきとして見えた。

 隅田順の家で、あのやうに老けて、理窟つぽく、ドゲトゲして見えたその女が、大菅左門の傍で、こんなにもいきいきと、あどけなく、女らしい女に見えるのに、純一は注意を向けずにはゐられなかつた。


(「相寄る魂」/生田花世・生田博孝編集『生田春月全集 第四巻』新潮社・一九三十年十二月/復刻版・一九ハ一年十二月・飯塚書房発行・本郷出版社発売)






「あなたのところにも、その本があったわね」

 春月の蔵書を物珍しそうに見ていた野枝が、そこに出ていた『義人田中正造翁』を見て言った。

「ああ、その本ですか」

 と春月が言った。

「あれは面白かったでしょう。あの中にある翁の臨終のときの言葉はずいぶん考えさせられるわ。あの中に島田宗三という谷中村の若者がでているでしょう。あの男だけは少しはもののわかる男だってことですが、谷中村には本当に翁を理解する者がなかったってことは事実ですわ……」

「谷中村は今はどんなになっているんでしょう? ずいぶんひどくなっているでしょうね」

 と言う春月に、野枝が大杉と連れ立って谷中村を訪れたときの話をひとしきりし始めた。

「わざわざ遠くから訪ねて行った私たちに、別に感謝するふうでもなく、冷淡かと思われるような様子でしたよ」

 野枝が話している間、大杉は何も言わず、話を静かに聞きながら微笑している。





「どうだい少しは重荷が下りたような気がするか、もっとあそこでいろんなことを訊くのかと思ったら、何も訊かなかったねと、帰りに大杉に言われたんですけれど、本当にあそこの荒涼とした、すっかり生気を奪われた、何里四方の泥地を考え出すと、言うに言えない気がしますわ」

 野枝が村の住民の反応について、大杉に問いかけるように言った。

「けれど、あの人たちはどうしてあんなに冷淡なんでしょうね。まるで反感でも持っているようだわ」

「そうだね、別に反感を持っているというわけでもなかろう。ことさらに感謝や女々しい感情を見せないだけ、そこにしっかりした諦めと決心とが見えているじゃないか。なかなかああはいかないものだ。それに、どんな場合でもそうだが、我々はたとえ自分たちのことを理解されなくったって、虐げられているもののために働かなきゃならないのだ」

 大杉はしっかりした調子で、野枝に話した。





「僕はこの間、辻君に逢いました、宮嶋君と一緒でした」

 春月がこう言うと、大杉は顔色ひとつ変えずに微笑しただけだったが、野枝は険しい目つきになった。

「辻君はあいかわらずスティルネルの話をしていましたが、宮嶋君がさかんにやっつけるので閉口してましたよ」

「宮嶋がやっつけるのは、むしろ僕じゃないですか。なんでもたいへん僕に対して憤っているそうだから」

「そうですってね」

 と野枝が口を歪めて言った。

「私をぶん殴るんですって……ぶん殴りたければぶん殴るがいいわ、かまやしないわ。こうなってくれば、世間全体が敵になったってかまやしないわ。世間なんか恐れていて何ができるもんですか!」

 野枝がそんなふうなことを荒々しく、野生的に言うとき、春月はなんだか若い牝馬でも見ているような気がした。

 大杉はそうした野枝の様子を慈しむように見ながら、自分はそうした世間や同志の非難や反感などについては何も言わず、春月の興味の持ちそうな話題を選んで話し出した。

 大杉は春月と共通の知人の近況などを淡々と話し終わると、急に語調を変えて言った。

「しかし、僕とてもみんなを非難できないかもしれない。それにしても最初の意気込みだけは失ってもらいたくないね。いったい、誰しもが初めて抱いて出発する感情を、よく幼稚なセンティメンタリズムだなどと言って笑うが、この生々しい実感のセンティメンタリズムが、本当の社会改革家の本質的精神なんだよ。それをみんな、長い間の無為と韜晦(とうかい)との惰性から、すっかり忘れたようになっている。これが何よりもいけない。僕自身が現にその硬直した心になって、無感激に陥ろうとしていたからね。僕としては今、僕の幼稚なセンティメンタリズムを取り返したい、憤るべきものにはあくまで憤りたい、憐れむべきものにはあくまで憐れみたい。それにはまず、自分の生活を変えなくっちゃならない……」

「そうですわ、自分の生活から……」

 野枝が言った。





 大杉と野枝は一時間くらいいて、これから近くの雑誌社に行くと言ったので、春月も原稿を持って三人で下宿を出た。

 大杉たちには尾行がついているようには見えなかった。

 途中でまいたのかもしれないと春月は思った。

 通りまで出て、街角に行くと、大杉たちは右の方へ、春月は左の方へ歩いて行った。

 春月がしばらくして振り返って見ると、プラタナスの青い葉が繁っている下に、大杉と野枝が睦まじそうに、何か話しながら歩いている姿があった。

 たったひとりの女の殉情に身を委ね、心を励ましている、大杉の一種憂鬱な、いわば勝利の悲哀が、春月の心に残り留まった。

 春月は大杉が野枝を自分の救いにしているのだということを、実にはっきりと理解した。

 多大の犠牲を払っても敢えて悔いていない、大杉のその心事を春月は了解したと思った。


 奈枝子自身は、別に深い思想の持主ではない。

 けれども、女には、とりわけ或る種の女には、この不思議な、男子を鼓舞する霊妙な力がある。

 古来、すべての革命に、紅一点とも云ふべき女性を見出すのは、かういふ意味合ひもあらう。

 男子は石炭の如く燃える、然し、女性は石油の如く燃えあがる。

 そしてその速やかな焔と熱は、男子の可熱性のためには、いかに貴重なものであらう!


(同上)



生田春月の自殺 ※生田春月2


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:49| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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