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2016年06月01日

第231回 廃村谷中






文●ツルシカズヒコ



 しばらくすると、大杉と野枝の方向に歩いて来る人がいた。

 待ちかまえていたように、野枝たちはその人に聞いた。

「さあ、谷中村といっても、残っている家はいくらもありませんし、それも、みな飛び飛びに離れていますからな、何という人をお訪ねです?」

嶋田宗三という人ですが」


「島田さん、ははあ、どうも私にはわかりませんが」

 その人は少し考えてから言った。

「家がわからないと、行けないところですからな。何しろその、みなひとかたまりになっていませんから」

「まだ、余程ありましょうか?」

「さよう、だいぶありますな」

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 ちょうどそのとき、野枝たちの後から来かかった男に、その人はいきなり声をかけた。

「この方たちが谷中へお出でなさるそうだが、お前さんは知りませんか」

 その男はやはり、今までと同じように妙な顔つきをして、私たちを見た後に言った。

「谷中へは、誰を尋ねてお出でなさるんです?」

「島田宗三という人ですが」

「ああ、そうですか、島田なら知っております。私も、すぐそばを通って行きますから、ご案内しましょう」

 前の男にお礼を言って、ふたりはその男と一緒になって歩き出した。





 男はガッシリした体に、細かい茶縞木綿の筒袖袢纏(はんてん)を着て、股引(ももひき)わらじがけという身軽な姿で、先にたって遠慮なく急ぎながら、折々振り返っては話しかける。

「谷中へは、何御用でお出でです?」

「別に用というわけではありませんが、実はここに残っている人たちがいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って」

「ははあ、今日限りで。そうですか、まあいつか一度は、どうせ追い払われるには決まったことですからね」

 男はひどく冷淡な調子で言った。

「残っている人は実際のところ、どのくらいなものです?」

 大杉は男がだいぶ谷中の様子を知っていそうなので、しきりに話しかけていた。

「さあ、しっかりしたところはわかりませんが、十五、六軒もありますか。みんな飛び飛びに離れているので、よくわかりません。嶋田の家がまあ土手から一番近いところにあるのです。その近くに二、三軒あって、あとはずっと離れて飛び飛びになっています。島田の母親と私の母親が姉妹で、あの家とはごく近い親戚で。え、私ももとはやはり谷中の者です。宗三もどうもお百姓のくせに、百姓仕事をしませんで、始終何にもならんことに走り回ってばかりいて困ります」

 彼はそんなことも言った。





 宗三は谷中のために一生を捧げた田中正造翁の亡き後、その後継者のごとく残留民の代表者になり、いろいろな交渉の任に当たっていた。

「堤防を切られて水に浸っているのだと言いますね」

「なあに、家のあるところはみんな地面がずっと他よりは高くなっていますから、少々の水なら決して浸るようなことはありませんよ。宗三の家の地面なんかは、他の家から見るとまた一段と高くなっていますから、他は少々浸っても大丈夫なくらいです。お出でになればわかります」

 彼はさも何でもないことを大げさに信じている野枝たちを笑うように、また野枝たちにそう信じさせる村民に反感を持ってでもいるように、苦い顔をし、またスタスタ先になって歩き出した。

 いつのまにか、行く手に横たわった長い堤防にふたりは近づいていた。

「あ、あの堤防だ。橋番のやつ、すぐそこのようなことを言ったが、ずいぶんあるね。でもよかった、こういう道じゃ、うまくあんな男にぶつかったからいいようなものの、それでないと困るね」

「でも、よくうまく知った人に遇ったものね、本当に助かったわ」

 ふたりはやっと思いがけない案内者ができたのに安心して、少し遅れて歩きながら、そんな話をした。





「これがずっと元の谷中です」

 土手に上がったとき、男はそこに立ち止まって、前に拡がった沼地を指して言った。

 荒涼とした景色だった

 遙かな地平の果てに、雪をいただいた一脈の山々がちぢこまって見える他は、目を遮るものとては何物もない、ただ一面の茫漠とした沼地であった。

 重く濁った空は、その広い沼地の端から端へと同じ広さで低くのしかかり、沼の全面は枯れすがれて生気を失った葦で覆われて、冷たく鬱した空気が鈍くその上を動いていた。

 歩いて来た道も、堤から一、二丁の間白く見えただけで、ひと曲りしてそれも丈の高い葦の間に隠されている。

 その道に沿うてただ一叢、二叢わずかに聳えた木立が、そこのみが人里近い気配があるが、どこをどう見ても、底寒い死気が八方から迫ってくるような、引き入れられるような、陰気な光景だった。





「まあひどい!」

 廃村谷中の跡をひと目に見渡せる土手に立った野枝は、そういったなりで、後の言葉が続かなかった。

 広大な地に、目の届くところにせめて、一本の生々とした木なり草なり生えてでもいることか、ただもう生気を失って風にもまれる枯れ葦ばかりだった。

 虫一匹生きていそうな気配さえもなかった。

 ましてこの沼地のどこに人が住んでいるのだろうーー野枝はそう思った。

 案内役になった連れの男は、さっさと歩いていく。

 どこをどう行くのかもわからずに、ついていくのに不安を感じた野枝が聞いた。

「谷中の人たちの住んでいるところまでは、まだよほどあるのですか?」

「そうですね、この土手をずっと行くのです。一里か一里半もありますかね」

 道は幅も広く平らだったが、乗物などの便宜がなく、帰りもあるのにこの道をもう一里半も歩かなければならないのだ。

 野枝にはかなり思いがけない辛いことだった。

 雪が降り出しそうな寒空に自分から進んで、大杉までも引っぱって出かけて来ておいて、まさかそのようなことまでも口へ出しかねるので、野枝は黙って歩いた。





「こうして見ると広い土地だね。荒れていることもずいぶん荒れてるけれど、これで人が住んでいた村の跡だとはちょっと思えないね」

「本当にね。ずいぶんひどい荒れ方だわ。こんなにもなるものですかねえ」

「もうずいぶん長い間のことだからね。しかし、こんなにひどくなっていようとは思わなかったね。なんでも、ここは実にいい土地だったんだそうだよ。田でも畑でも肥料などは施(や)らなくても、普通より多く収穫があるくらいだった、というからね。ごらん、そら、そこらの土を見たって、真っ黒ないい土らしいじゃないか」

「そういえばそうね」

 今はこうして枯れ葦に領されたこの広い土地に、かつてはどれだけの生きものが育まれたであろう。

 人も草木も鳥も虫もすべてのものが。

 だが、今はそれらのすべてが奪われてしまったのだ。

「なぜこのように広い、その豊饒な土地をこんなに惨めに殺したものだろう?」




 
 元のままの土地ならば、この広い土地いっぱいに、春が来れば菜の花が咲きこぼれるのであろう。

 麦も青く芽ぐむに相違ない。

 秋になれば稲の穂が豊かな実りを見せるに相違ない。

 そうしてすべての生きものは、幸せな朝夕をこの土地で送れるのだ。

 それだのになぜその豊かな土地を、わざわざ多くの金をかけて、人手を借りて、こんな廃地にしなければならなかったのだろう?

 それは、野枝がこの土地のことについての話を聞いた最初に持った疑問であった。

 そして、野枝はその疑問に対する多くの答えを聞いている。

 しかし現実にこの広い土地を見て野枝は、やはり、そのような答えよりも最初の疑問がまず頭をもたげ出すのであった。

 歩いていく土手の道の内側のところどころに、土手と並んでわずかな畑がある。

 先に歩いていく男は振り返りながら、

「こういうところはもと人家のあった跡なのですよ」

 と思い出したように教えてくれる。





 もとは、この土地に住んでいた村民の一人だというその男は、この情けないような居村の跡に対しても、別段に何の感じもそそられないような無神経な顔をして、ずっと前にこの土地の問題が世間にかれこれ言われたときのことなどをポツリポツリ話した。

 そして、それもかつての自分たちのことを話しているというよりは、まるで他人の身の上のことでも話しているような無関心な態度を、野枝は不思議な気持ちで見ていた。

 彼は惨苦のうちにこの土地に未練を持って、今もなお池の中に住んでいる少数の人たちに対しても、冷淡な侮蔑を躊躇なく現わした。

「ずっと向こうにちょっとした木立がありますね。ええずっと遠くの方に煙が見えるでしょう? あの少し左へ寄ったところに、やはり木の茂ったところが見えますね、あれが嶋田の家です。まだだいぶありますよ」

 指さされた遙かな方に小さな木立が見えた。

 細い貧し気な煙も見えた。

 いつか土手に添うた畑地はなくなり、土手のすぐ下の沿岸の疎らになった葦間に、みすぼらしい小舟がつなぎもせずに乗り捨ててあったり、破れた舟が置きざりにされてあったり、人の背丈の半ばにも及ばないような低い、竹とむしろでようやくに小屋の形をしたものが、腐れかかって残っていたりする。

 長い堤防は人気のない沼の中をうねり曲って、どこまでも続いている。




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:18| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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