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ドラマ・映画にもお国柄はありそうです

10月16日(水)は、午前中は季節外れの台風で大変でした。
ところで、前回、香港映画について書きましたが、香港映画以外にも過去に見たテレビドラマや映画でお国柄が出ていると思ったものを取り上げたいと思います。

■アメリカ■
利権を力づくで自らの手で守る。目的達成のためのマネジメントという要素がアメリカ的と思った映画やドラマがあります。



ゴッドファーザー PartT


まず、「ゴッドファーザー」ですが合計3作品あります。
いずれも、組織の脅威となる敵対勢力をすべて始末して、組織の存続をはかります。

・力で利権を守る
・自分が直接手をくだす

ところがアメリカ的だと思いました。




スパイ大作戦


テレビドラマの「スパイ大作戦」は、ある使命に対して、使命遂行という観点から適任メンバーを選んで目的を達成するという、マネジメントを連想させるところがアメリカ的です。

この「スパイ大作戦」は、1960年代のテレビドラマですが、当時、これに影響された映画も多くあったようです。

例えば、これはイタリア映画なので話は脱線しますが、



Grand Slam (1967 イタリア 邦題:盗みのプロ部隊)


「Grand Slam 」という1967年のイタリア映画があります。これは、リオ・デ・ジャネイロのカーニバルのどさくさにまぎれて宝石を盗み出すというもので、いろいろな分野の専門家をアメリカ、イギリス、イタリア、フランスから集めて使命を実行させます。

そして、使命を実行する人々は仕事が終了後、口封じのため暗殺されます、そして、使命を命じた人が宝石を独り占めするはずが、いきなりこの場面で意味が分からないという状態になりますが、この話を最初に持ちかけたブラジルのアメリカンスクールの元校長であるアメリカ人と、被害にあった宝石保管所の女性従業員が盗まれた宝石を持っている場面が出てきます。彼らが宝石を手にして喜んでいるところで、再度、どんでん返しが起こるという内容です。

この最後の一見意味の分からない場面についてですが、映画には出てきませんが、宝石保管場所の女性従業員とその建物の隣のアメリカンスクールの元校長が、宝石窃盗の罪を、他人にかぶせるため、偽物の宝石を本物とすり替えて金庫に入れ、偽物の宝石を、盗みの実行部隊に盗ませたと考えると辻褄が合います。

ヨーロッパの映画は、黒幕は直接手を下さず、実行犯を美味しいエサで釣って集め、仕事が終わり目的を達成したところで、口封じのため実行犯を始末するというパターンがでてくることがあります。そして、何事もなかったように黒幕はニンマリというわけです。

しかも、黒幕は、国内だけでなく、海外の情報にも精通して、それらを目的達成のためにフル活用するところが、すごいところなのです。

■イギリス■
倒したい相手に対して、

・自分はその相手に対して最大の理解者であり、支援者であると思わせる

・策略実行に使える情報を幅広く集めて持っている

・策略では、自分は直接手を下さず、策略ではなく別の目的であると見せかけた
 うまい話で策略実行者を集め、彼らに実行させる

・目的達成後や悪事がバレそうになると、策略実行者を始末する

・自分が首謀者であることがばれないよう、何重にも細工を重ねている

以上のようなこと(悪い言葉で言えば影でコソコソ)が、非常にヨーロッパ的であると思ったのです。特に、イギリスは、この手の作品に優れているような気がします。



House of Cards / BBCテレビドラマ


ハウス・オブ・カーズという1990年代のイギリスBBCのテレビドラマがあります。
これはサッチャー政権後の与党院内総務が権力獲得に向けた策略を描いた人気テレビドラマで、シリーズ化されています。

主人公である与党の院内総務フランシス・アーカートは、自分は周囲を心から支援する裏方だと振舞っています。

しかし、出入りの新聞記者、薬物中毒の党広報担当者、総理大臣の頭の弱い兄弟など、自分の策略の駒として、利用できるものは全て利用したうえで使い捨て(多くは殺害しています)、策略の限りを尽くして、ついには総理大臣になります。最後のシリーズでは、権力欲の度が過ぎて、周囲の身に危険が及ぶ実害が多くなり、彼の奥さんや側近から暗殺されるところでドラマは終わっています。

・自分が倒したい相手に対して、自分はその相手の心からの支援者だと
 思わせていること。

・陰謀については、自分が当事者にならず、関係ない第三者同士を当事者にする
  細工をしていること。

・活用できる情報を常に集めており、周囲の事情に精通していること。

以上がヨーロッパ的だと思います。


■日本■
人間の善意の人情を描いた映画は優れていると思います。



男はつらいよ


「男はつらいよ」 とか 「釣りバカ日誌」 などは、人間の善意の人情で心が暖かくなります。私は、どちらかというと、このタイプの映画が好みです。

しかし、頭の良すぎる悪党には良いように扱われてしまいますので、普段から悪党の発想法や手口を研究して、被害に逢わない努力も必要です。

悪党と同じレベルであれば、相手を倒すしか方法はありませんが、相手より5倍ぐらい賢ければ、相手に危害を加えず、こちらも実害をかわすことができます。

私たちは賢くなければなりません。

ところで、
日本的だと思える作品は、異質のものでも受け入れようとする姿勢は感じ取れることです(現実の世界では排他的なところも多いですが)。

一方、アメリカやヨーロッパ的だと思えた作品は、主人公は自分、しかも既に存在するものを、周囲を犠牲にして、奪うという印象のものもあります(日本にもそのような作品は多いですが)。
目につくのは破壊と強奪です。協力、創造という要素は薄いです。

人間は、自然界のご主人様で何をしても良いという生き方は、自滅へと導くのだなと教えられることも多いのです。

そういう世界を見ていますと、人間は自然界とのバランスを計り、全体として調和発展させるための媒体として行動したほうが良さそうだと、個人的には思うこともあるのです。


以上、数は少ないですが、気づいたことを書いてみました。



それではまた!












  







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