2021年02月18日
天孫降臨の經路 その4
東亞民族の渡來
應~天皇の十四年秦始皇帝の後と稱する弓月君が、百二十縣の民を率ゐて百濟より我に歸化せりと傳ふる如きは、其の一例なり。
是れ所謂秦人(はたびと)にして、其の部族甚だ多く本邦各地に蕃延す。
彼等は其の自ら謂ふ如く、果して志那秦朝の遺民なりや否やは固より之を確知するに由なきも、ともかく一旦南下して朝鮮半島に居住せしものが、更に大擧して我が皇の徳を慕ひ、好地を求めて我に移民せりと傳ふるものなることは、毫も疑を容れざるなり。
ついで同天皇の二十年には、後漢の靈帝の後と稱する阿知使主(あちのおみ)及び都加使主(つかのおみ)の父子、十七縣の黨類を率いて帯方より來歸す。
帯方は半島に於ける漢人設置の郡なり。
蓋し彼等もと志那より來りて一旦此の地方に居を定め、後更に我に大擧移民せしものと解すべく、之を我が國に於て新漢人(いまきのあやびと)と稱す。
「新(いまき)」は「今來(いまきた)る」にして、新に海外より渡來せる漢族の義なり。
彼等多く大和高市郡に住し、奈良朝末に於てなほ郡民十の八九は此の族なりきといはる。
而して此の郡に嘗て今木(いまき)郡の名あり。
新漢人(いまきのあやびと)の郡の義なり。
其の今來の漢人の名稱に對しては、必ず舊く來れる漢人ありしことを認めざるべからず。
たとへその事古史に見る所なくとも、其の今來の語よく之を證す。
蓋し嘗て其の以前に於て別に漢族の渡來ありし事は、考古學の研究上よりも之を想像し得べきものあるなり。
應~天皇の十四年秦始皇帝の後と稱する弓月君が、百二十縣の民を率ゐて百濟より我に歸化せりと傳ふる如きは、其の一例なり。
是れ所謂秦人(はたびと)にして、其の部族甚だ多く本邦各地に蕃延す。
彼等は其の自ら謂ふ如く、果して志那秦朝の遺民なりや否やは固より之を確知するに由なきも、ともかく一旦南下して朝鮮半島に居住せしものが、更に大擧して我が皇の徳を慕ひ、好地を求めて我に移民せりと傳ふるものなることは、毫も疑を容れざるなり。
ついで同天皇の二十年には、後漢の靈帝の後と稱する阿知使主(あちのおみ)及び都加使主(つかのおみ)の父子、十七縣の黨類を率いて帯方より來歸す。
帯方は半島に於ける漢人設置の郡なり。
蓋し彼等もと志那より來りて一旦此の地方に居を定め、後更に我に大擧移民せしものと解すべく、之を我が國に於て新漢人(いまきのあやびと)と稱す。
「新(いまき)」は「今來(いまきた)る」にして、新に海外より渡來せる漢族の義なり。
彼等多く大和高市郡に住し、奈良朝末に於てなほ郡民十の八九は此の族なりきといはる。
而して此の郡に嘗て今木(いまき)郡の名あり。
新漢人(いまきのあやびと)の郡の義なり。
其の今來の漢人の名稱に對しては、必ず舊く來れる漢人ありしことを認めざるべからず。
たとへその事古史に見る所なくとも、其の今來の語よく之を證す。
蓋し嘗て其の以前に於て別に漢族の渡來ありし事は、考古學の研究上よりも之を想像し得べきものあるなり。
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