月曜日。ライトノベル・半分の月がのぼる空の日です。詳しく知りたい方は例の如くリンクのWikiへ
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―7―
―あの夜から、二ヶ月。
また、あの桜に会いたいと言い出したのは、里香だった。
もう、花なんて付いてないぞ?
僕の言葉に、それでもいいからとせがむ彼女を連れ、僕は再びその場所に向かって自転車を走らせた。
二ヶ月ぶりに訪れたその場所は、すっかり様変わりしていた。
並木の桜達は、そろって身に纏う衣を春色のそれから深緑の夏服へと替えていた。土手を覆う草達もその丈を順調に伸ばし、合間合間にアクセントとして顔を覗かせる小柄な花々も、以前来たときとは丸々その面子を変えている。川面を渡ってくる風に冷たさはなく、流れる水は真上に広がる空を映して、青く、青く輝いていた。
春は過ぎ、いつしか夏の気配が微かに漂い始めていたその川辺に、果たして、件の桜は変わる事無く立っていた。
骸骨の様に細枯れた枝も、幹に穿たれた穴もそのままだ。けれどその変わりに、他の枝にはキラキラと輝く新緑の葉をいっぱいにつけ、幹の洞を貫き通す根も幾分太くなっている様だった。
まるで自分に巣食う死をせせら笑う様に、青い空の下、その桜は凛と立っていた。
「良かった。」
里香はそう言って、桜の幹を愛しげに撫でる。
それに答える様に、桜はその葉をサヤサヤと風に鳴らす。
そんな様子に、ふと僕は思い立った。
里香は、願っている。
限られた時間の中で。擦り減っていく時間の中で。
少しでも多く。少しでも長く。
この世界を見つめていたいと、感じていたいと、願っている。
そして、この桜もまた、願っている。
区切られた時間の中で、削り取られていく時間の中で。
少しでも多く。少しでも長く。
この世界で咲いていたいと、輝きたいと、願っている。
そう。
里香とこの桜は、同じなのだ。
限られた時間の中で。
少しでも多く、世界を見つめようと願う事。
少しでも長く、世界で輝こうと願う事。
それは等しく、少ない時を少しでも、世界と共に在ろうと願う事。
だから。
渡る鳥が、旅する仲間を求める様に。
可憐な蝶が、可憐な花に引かれる様に。
里香はこの桜に引かれて。
そして、桜はそれに答えて。
きっと、そういう事なんだろう。
だから、彼女達は今、こんなにも綺麗なんだ。
こんなにも、輝けるんだ。
一人納得する僕の横で、不意に里香が声を上げた。
「裕一、見て。実がついてる!!」
言われて見て見ると、なるほど。葉の茂った枝の所々に黒く色付いた、小さな実がついていた。触れてみると、熟しきったそれは、指の先に紫の跡を残した。
「ねえ、裕一。」
実を手に取り、しげしげと眺めていた里香が声をかけてくる。
「ん、何だ?」
「これ、食べてみようよ。」
唐突に、そんな事を言い出した。
「え、ええ!!何言ってんだよ!?」
とんでもない提案に驚く僕に、里香は繰り返して言う。
「だから、食べてみようって言ってるの。」
その顔は、何故かひどく真剣だ。
「よせよ。腹壊すぞ。」
「大丈夫だよ。ほら。」
情けない顔をする僕に、里香は土手沿いの桜並木を指差した。
そこは静かなここと違って、にぎやかな喧騒に包まれていた。
その原因は鳥。
沢山の鳥が集まって、盛んに桜の実を啄ばんでいた。見れば、普段木の実なんて食べない筈のスズメまで、その小さな嘴でチマチマと実を齧りとっている。
「鳥が食べてるんだから、大丈夫だよ。」
いやいや、その理屈はおかしいぞ。鳥が大丈夫だからって人間も大丈夫とは・・・。
僕がそう言おうとするのを、里香が遮る。
「鳥はね、運び屋なんだって。」
「へ?」
訳が分からない僕に向かって、里香は続ける。
「鳥は木の実を食べて、そのお礼に、種を遠くに運ぶんだよ。動けない、木(親)の代わりに。」
そう言って、里香は僕をジッと見つめた。
ああ、そうか。
里香の心意を察した僕は、黙って桜から良く熟した実を一つ、摘み取った。
里香もそれに倣って、実を一つ手に取る。
小指の爪程の、小さな実。それを鼻に近づけると、微かに嗅ぎ覚えのある香りがした。
ああ、さくらんぼの香りだ。
なるほど。確かにさくらんぼは食用の桜の実だ。それならこれも広義でのさくらんぼという事になる。
不思議なもので、そう思うと実に対して持っていた警戒心が少し緩んだ。
もっとも、だからといってすんなり口に入れられる訳でもない。
躊躇しながら横を見ると、ああは言ったものの、里香も本音は同じなのだろう。手の中の実とじっとにらめっこをしている。
「どうしたんだよ。早く食べろよ。」
「ゆ、裕一こそ、早く食べてよ。」
「言いだしっぺはお前だろ!?」
「何よ。人に毒見しろっていうの!?」
言い分が滅茶苦茶だ。
僕達はしばらくギャーギャーと言い合ったが、らちがあかない。
「ようし。よく分かった。それならこうしよう。1、2の、3で一緒に口に入れる!それでいいな!?」
「う、うん。」
里香が頷いた。決まりだ。
「いいか?1、2の、3、だからな?」
「分かったってば。」
「それじゃ、いくぞ!!」
「1、」
「2の、」
「3!!」
それと同時に、僕は目をつぶって実を口に放り込んだ。
噛み潰す。
口の中に広がる、さくらんぼの香り。とりわけ甘いわけでも、酸っぱいわけでもない。何だ。どうって事ない。そう思いかけた途端、強烈な渋みが舌の上に広がった。
「うぇっ!!ぺっぺっ!!」
堪らず僕は口の中の種を吐き出した。酷い味だ。何でこんなもん、鳥達は平気で食ってんだ?
これじゃ、里香も大変な事になってるんじゃなかろうか。
「おい、里香、大丈夫・・・か・・・?」
里香は僕の方を見て、ケタケタと笑っていた。
その手の中には、まだ実が握られたまま。
「あは、は、裕、一、酷い、顔!!アハハ・・・」
・・・この女。
僕が睨むと、里香はゴメンゴメンと言いながら、ようやく自分も実を口に含んだ。
しばしの間。そして、
「― 美味しくないね。」
軽く顔をしかめると、里香はそう言って微笑んだ。
綺麗に、可憐に、微笑んだ。
そして彼女は、僕が吐き出した種と、自分が出した種をハンカチに包んだ。
大切に、本当に大切そうに、それこそ愛しい子供でも包む様に、優しく包んだ。
続く