月曜日。ライトノベル・半分の月がのぼる空の日です。詳しく知りたい方は例の如くリンクのWikiへ。
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若芽の匂いの漂う土手を星明りだけを頼りに下ると、土手と河原の堺にある草むらで、里香が佇んでいた。
「なぁ、一体どうしたんだよ?」
「裕一、これ。」
追いついた僕に向かってそう言うと、里香が前方を指差した。
その指が指し示す先。そこに、夜闇の中に浮かぶ様にして、一本の桜の木がポツンと立っていた。
「何で、この桜だけこんな場所に生えてるんだろう?」
「さぁ・・・。」
彼女の疑問に対する答えを持っている筈もなく、僕は曖昧にそう言って首を傾げる。里香も、別に答えを期待していたわけではない様で、それ以上追求してこようとはせず、その視線をまた目の前の桜に戻した。
「小さいね。この桜。」
「・・・だな。」
確かに、土手上の並木から外れた場所にポツンと生えたそれは、他の桜に比べると随分と小ぶりだった。背の高さも、幹の太さも、二回り以上小さい。歳が若いのが、一目で分かる。ひょっとしたら、他の桜と同時期に植えられたものではなくて、後になって落ちた種から自然と生えたものかもしれない。
見上げてみる。背が低いせいで、広がった枝はすぐ目と鼻の先だ。淡い春の香りが、幽かに舞った。
「花は、ちゃんとつけてんだな。」
「うん。でも・・・」
里香がそう言って、また桜を見つめる。何か腑に落ちないものを探る様に、しげしげと。
そして、一言。
「何か様子、変じゃない?」
「・・・?」
その言葉に、改めて目の前の桜を見つめてみる。
・・・なるほど。
花はつけている。けれど、そのつき方が妙にまばらだ。散って減ったという感じじゃない。最初っから、咲かせた数自体が少ないという感じだ。それどころか、よくよく見れば花どころか、次に開かせる筈の葉の芽すら付けてない、骸骨の様な枝も何本もある。
確かに、おかしい。
この季節の植物特有の、勢いというものがない。他の桜に比べて若い筈のその身は、線が細いと言うか、酷く儚い感じがする。
まぁ、もともと桜っていうのは儚いイメージが在るけれど、この桜から漂ってくるのは、そういう“儚さ”とは違う。そう、もっと別の・・・。
「・・・。」
「・・・。」
いつしか、僕も里香も黙り込んでいた。
何か、嫌な感じだった。
それは、いつか何処かで感じた感覚。
冷たくて暗い、虚ろで重苦しい、その感覚。
これは、何だろう。
と、里香の身体がすすっと動いた。
長い髪が、さらさらと揺れながら桜に近づいてゆく。
そして、間近から桜の幹をじっと見つめ、そして、
「あ・・・!!」
そう言って、手を口元にあてる。
「どした?」
里香の隣に並ぶ様に、近寄ってみる。遠間からでは夜闇に沈んで幽かな輪部しか分からなかった幹が、凝らした視界の中で露わになった。
「う、わ・・・!!」
目に飛び込んできたものに、思わずそう言って僕は顔をしかめた。
―それは、“闇”だった。
−4−
件の桜の幹。その中心。人に例えたら丁度、胸に当たる様な位置。そこから根元までを縦に引き裂く様にして、大きな“闇”が口を開けていた。
「酷い・・・。」
里香の口から、そんな呟きが漏れる。
僕は幹に顔を寄せ、中を除き込んでみた。夜闇の中に口を開けた、さらに濃い闇。中は、全く見えない。
手を入れてみる。とはいっても、何も見えない中に深く突っ込むのも怖い気がするので、とりあえず指先だけ。何か、変な毒虫でもいたら困るし。
何の抵抗もなく、スルリと入る。中は、すっかり空洞になってしまってるらしい。探ってみると、指先が幹の内側に触れた。軽く撫ぜると、その部分がボロボロと崩れ落ちてしまう。指を出して先に付いたものを見ると、それは木屑と言うよりむしろ土の様で、幹の中がほとんど腐食していることを如実に教えていた。
木に大きな傷が付くと、そこから菌が増えて、内側から木を腐らせてしまう事があるらしい。僕も、歳をとった木で見た事があるけど、こんな若い木がやられるとは思わなかった。
この桜に勢いがない理由は、これだったんだろう。木という生物の要である幹。それを、ここまで食い荒らされてはたまったものじゃない筈。この桜にはもう、生きる勢いを示す力なんて残されていなかったのだ。
これが人に植えられた木なら、同じ様に人の手で治療をしてもらえたりもするのかもしれない。けれど、こんな場所に人知れず生えてきた様な木ではそんな事、望めるはずもない。道端に生えた雑草の花に、お金や手間をかけようなんて人がそうそういやしないのと同じ事だ。
風が吹く。ボロボロになった幹が、それだけでギギィと悲鳴の様な軋みを上げた。まるで、今にも倒れてしまいそうだ。いや、例え今倒れなくても、いずれ“その時”が来る。侵食を続ける闇に食い尽くされて、朽ちて倒れるのが先か、大地との繋がりを断たれ、枯れ果てるのが先か。どちらにしろ、この桜にもう、先はない。
―そう。先は、ないのだ―
病に侵され、身体の内側から朽ちてゆく桜。
その様は、死という闇に食われる命の姿そのものだった。
「・・・裕一。」
里香が呟く様に言う。
「この桜、もう駄目かな・・・?」
何かを求める様な、すがる様な声。
「枯れちゃうのかな・・・?」
僕は、答えなかった。
この娘の前で、里香の前で、その答えを口にするのが嫌だった。
どうしようもなく、嫌だった。
僕が答えないので、里香もまた黙ってその視線を桜へと戻した。
軽く俯いた顔。夜風に弄られた黒髪の合間から、憂いを含んだ瞳が覗く。
その横顔を見ながら、僕は思った。
里香はどうして、この桜に気付いたんだろう?
僕は、生まれた時からこの町で暮らしてきた。この道も、何度も通った。
けど、僕はこの桜を知らなかった。
見つけられなかった。
今まで。ずっと。
なのに。どうして、里香は見つけられたんだろう?
こんな暗闇の中で。こんな外れた場所に。
この桜を、見つけられたんだ?
さっき、この桜から感じた嫌な感覚。
それが何なのかは僕にももう、分かっていた。
そして、里香にはもっと、はっきり分かった筈。
―そう。あれは、“死”の気配。
かつて里香の傍らに常に佇み、そして今も息を潜めて佇み続ける、それ。
深く冷たい、その闇の気配を、今この桜も纏っている。
里香と、同じ様に。
・・・だからだろうか。
だから、里香はこの桜に気付いたのだろうか。
自分と同じものを纏っているから。
その事を、感じたから。
里香は、気付いたのだろうか。
引かれたのだろうか。
・・・それとも。
呼んだのは、闇の方だろうか。
今、目の前で口を開けるこの虚ろが、この“闇”が、里香を呼んだのだろうか。
一度、遠間に離れた獲物。
それをもう一度、手元に手繰り寄せるために―
里香が、桜を見つめる。
そこに在る、“闇”を見つめる。
黒い瞳がそれを映して、より深く暗く、輝いている。
その様を、僕が見つめる。
そこに浮かぶ、“光景”を見つめる。
―桜に開いた、命のほころび。
その隙間から、一本の手が伸びる。
そこに佇む、里香に向かって。
絶望の様に、終りの様に、暗い、暗い、闇色の手だ。
ゆっくりと爪を開いたそれが、小さな身体に絡みつこうとする。
求める様に。慈しむ様に。愛でる様に。
もう、逃がさないとでも言う様に。
そして、そして――
「――っ!」
腕を伝わる、息を飲む気配。それが、幻想の光景から僕を引き戻した。
下げた視線が、戸惑いの色を浮べてこちらを見上げる黒い瞳とかち合う。
―何時の間にか、僕は里香を背後から抱き締めていた。
「・・・裕、一?」
腕の中で、里香が驚いた様な顔をして、僕を見ている。
迫る闇色の手は、もう見えない。いや、端っからそんなもの、在る筈もない。
桜の中の闇は、変わらずそこに佇んでいるだけ。
けど。
けれど。
「どう、したの?」
頬をほのかに染めて、里香が訊いて来る。
僕は答えず、腕に力を込めた。
里香の口から、あ、と小さく声が漏れる。
細い肩が何かに緊張する様に震えるけれど、構わずに僕は腕に力を込めた。
抱き締めた。
里香のこの温もりが、存在が、命が、今ここに在ることを確かめる為に。
そして何より、あの見えない闇の手が、里香に届く事のない様に。
―里香を、連れて行ってしまわない様に―
僕の顔を見ていた里香が、何かを察した様に目を伏せる。小さな両手が上がり、僕の腕にそっと絡む。力が、篭る。まるで、胸に押し抱く様に。自分の鼓動を、命を、僕がより強く感じる事が出来る様にとでも言う様に。
だから、僕もより強く、彼女の身体を自分の身に押し込める。
―そう、渡さない。渡す、ものか―
腕の中の存在を確かに感じながら、僕は目の前に佇む“そいつ”を見据えた。
風が吹く。
桜が舞う。
闇が、揺れる。
「・・・里香。」
少しの沈黙の後に、僕は口を開いた。
「なに・・・?」
「・・・少し、冷えてきた。」
実際、夜が深まるにつれて、川面を渡ってくる空気はその冷たさを幾分増してきてはいた。でも実の所、こうして身を寄せている僕らには大した問題じゃない。
むしろ、お互いの体温が交わって、身体は心地良い熱ささえ感じていた。
川面を渡る風が里香の髪を揺らし、僕の頬をくすぐる。
フワリと漂う、甘い香り。胸の奥が、ジンと疼く。
本当はもっと、いや、ずっと、こうしていたかった。この熱さを、香りを、腕の中に納めていたかった。
だけど。
ふと、視線をあげる。
“そいつ”は、やっぱり、そこにいる。
腕の中の幸福と、ほんの少し視線をずらしただけのその場所に。
近づくでもなく、消えるでもなく、ただ、冷たい沈黙とともに、佇んでいる。
「・・・冷えると身体、良くないし、」
だから、僕は言う。
「・・・そろそろ、戻ろう。」
その言葉に対する後悔はない。
ただ、里香をここから遠ざけたかった。
“そいつ”の、この“闇”の前から遠ざけたかった。
―そう、里香はここにいちゃいけない。
いるべきじゃ、ない―
「・・・うん・・・。」
ほんの少しの間の後、里香がそう言って頷いた。
それに応じて、僕も腕の力を抜く。
里香の身体がスルリと抜ける。腕の中から、彼女の髪が甘い香を残して逃げていった。
最初にああは言ったものの、やっぱり少し、名残惜しい。その気持ちを誤魔化す様に、僕は、ほっとわざとらしく息をつく。
ふと見れば、里香も同じ様に息をついていた。
彼女がついたその息には、どんな意味が込められているのだろう。ひょっとしたら、僕と同じだったりするのだろうか。もしそうなら、嬉しいのだけど。
続く