月曜日。ライトノベル・半分の月がのぼる空の日です。詳しく知りたい方は例の如くリンクのWikiへ
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「ほら。」
そう言って、僕は当たり前のように手を差し出す。
その手を、里香がやっぱり当たり前の様に取る。
手の中にすっぽりと納まる、小さな、けれど大きな存在。
しっかりと、握り締める。
「手、離すなよ。」
僕が言う。
「うん。」
返る、声。
「土手上がるの、結構キツイぞ。」
「うん。」
「足元、暗いし。」
「分かってる。」
「転ぶと、危ない。」
「分かってるってば。」
「嘘つけ。さっき、さっさと一人で降りちまったの、誰だよ?」
「うるさいなぁ。裕一のクセに。」
ギャアギャア言いながらも、繋いだ手は離れない。
「行こう。」
「うん。」
手を引いて、歩き出す。
歩きながら、里香がちらりと後ろを振り返った。
そこに立つ小さな桜に、別れを告げようとでもするかの様に。
その、瞬間――
不意に世界が、色を変えた。
モノクロの闇が薄らぎ、全ての光景に淡い色彩が戻る。
見上げると、いつのまにか空を覆っていた雲が流され、隠れていた半月が再びその顔を出していた。
「・・・あ・・・!!」
横から聞こえる、里香の声。何事かと振り返る。
振り返ったその先で、あの桜がその姿を変えていた。
いや、姿そのものが変わったわけじゃない。
幹に開いた空洞も、所々突き出した白骨の様な枝も、まばらにしかついてない花も、そのままだ。
けど、違う。
その身に、逃れ様の無い死を穿たれた桜。未来も無ければ、明日もない。ただ今をも知れない時間を漂うだけの、脆く儚い存在。
だけど今、淡い光の中で見るそれは、そんなか細い存在ではなくなっていた。
骸骨の様に痩せた枝。その所々に、まばらについた花の群。
さっきまで、か細さを強調するだけだった筈のそれらが、今は落ちる月明かりを受けて、燦然と輝いていた。
数の少なさなんてまるで問題にしない、むしろ、周りの桜達の方が色褪せて見えてしまう程の、強い輝き。
そこに咲く花は、深い夜闇の中でこそ分からなかったけれど、一輪一輪が他の桜達とは一線を駕する程、鮮やかで深い色を湛えていた。
それはまるで、数を引き換えに持てる力の全てを凝縮したのではと思わせる様な、鮮烈で凄絶な麗彩だった。
「―すごい・・・。」
里香が、呟く。
「綺麗・・・!!」
「きれい」ではなく、「綺麗」。
感嘆の思いをその言葉に込めながら、里香は桜を見つめていた。
まるでその姿を、輝きを、余す事無く自分の内に焼き付け様とでもするかの様に。
ただ一心に、見つめていた。
と、その視線が止まる。
一瞬の間。そして、その手が僕の手からスルリと離れた。
逃げてしまった温もり。それを切なく感じる僕を残して、里香は再び桜へと歩み寄る。
さっきと同じ様に間近から桜の幹を見つめ、そして、
「・・・あれ?」
そう言って、首を傾げた。
「・・・これ、何・・・?」
「・・・?」
里香の声に、僕も近寄ってそれを見る。
僕らの視線が注がれるのは、桜の幹に開いたあの空洞。
注ぐ月明かりに洗われて、ほんの少しだけ薄らいだその闇の中に、何かの影が見えた。
ついさっき、暗闇の中で手を入れた時には気付かなかった。いや、そもそもこの空間の中に、何かが“在る”という可能性自体に思い至らなかった。
そう。それは何もない筈の、何も在り得ない筈の、虚ろの空間。絶対の無である筈の、死という名の虚無。
なのに、そこに影があった。
闇に潜む様に。けれど、決して呑まれる事なく。
確かに何かの影が、何かの存在があった。
淡い月明かりを頼りに、目を凝らす。
―“それ”は、唐突に突き出していた。
ポッカリと開いた空洞の、丁度天井の部分。まだ、かろうじて侵食を逃れているそのわずかな部分から、本当に唐突に、突き出す様に伸びていた。
突き出して、そのまま真っ直ぐ、真下の地面に突き刺さっていた。
そう。まるでそこに巣食う空虚を、闇を、死を、刺し貫く様にして――
一瞬、“それ”が何か分からずに佇む僕の横で、里香が言う。
「・・・“根”だ。」
―6―
そう。それは、“根”だった。
太くもなければ、細くもない。
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに伸びた、それは、一本の“根”だった。
「根っ子・・・?こんなとこから?」
僕は手を伸ばし、それに触れてみた。
硬く、ざらついた感触。その身が纏う儚さとは相反する様な、荒々しい触感。その下から、ヒャッとした冷感が伝わる。それは辺りに流れる夜気とは違う、柔らかな温もりをはらんだ冷たさ。人間や動物とは違う、生きた木の体温だ。
手に力を込め、揺さ振ってみる。
・・・ビクともしない。
本体の方は、ちょっとした風で軋みを上げる有様だというのに。
それだけ深く強く、それは地面を穿っていた。
まるで朽ちかけの幹の代わりに、その身体を、命を、大地に縫い止め、繋げ、支えようとするかの様に。
視界の隅から、白いものがそっと伸びてくる。それが、僕の手に半ば重なる様にして根に触れた。
里香の手だった。
温かい彼女の体温と、冷たい桜の体温。
違う形の、二つの命。それらの熱が、僕の肌へと染みていく。
「戦ってる・・・。」
根の肌を撫でながら、里香がポツリと呟いた。
「戦って、るんだ・・・。」
・・・そう。
桜は、戦っていた。
それは、抗うとか、しがみつくといった受けの姿勢ではなく。
牙をむき、爪を突き立て、真っ向から挑みかかっていた。
自分に巣食う闇。それを突き刺し、貫き、磔るために。
自分を蝕む死。それを抉り、引き裂き、噛み砕くために。
ギシギシと、朽ちかけの幹が軋む音が響く。
さっきまで悲鳴にしか聞こえなかったそれが、今は別の意味を持って耳に届く。
それは、鍔競りの音。
貫かれ、縫い止められて、それでも食い尽くそうとうめく死と。
蝕まれ、食われながら、それでもねじ伏せようと吠える生と。
二つの力が、攻めぎ合う。
ギシギシ、ギシギシと軋みを上げて。
僕は根から手を離すと、もう一度桜を見上げた。
天頂に浮かんだ半月から降り注ぐ、澄んだ煌。満月の様に強くはない。闇を薄めこそすれ、打ち消すには及ばない。淡く、儚い煌。
けれど、それで充分だと言わんばかりに、壮麗の華は輝きを放つ。その様はまるで、その身に燃え盛る焔を纏っている様で。
―いや、それは正しく、炎だった。
淡い。儚い。けれど、気高く眩い、命という名の炎。
それが、燃えていた。
煌々と。
炎々と。
風が吹く。
輝く花弁が、無数の燐光となって宙に舞う。
瞬く煌の風が、闇に満たされた夜の世界を可憐に彩る。
まるで、世界を満たす闇を、その傲慢を、せせら笑う様に。
僕は、ただ黙ってその光景を見つめていた。
死にかけの桜が放つ、その輝きの強さ。眩さ。
それに圧倒されていた。
いや。
魅せられていたんだ。
ふと、視界を黒い帯が泳いだ。
風に乗って流れるそれに導かれる様に、僕は視線を横に泳がせる。
その先には、その黒髪の主である里香がいた。
その姿を視界の中心に収めた途端、僕は心臓が止まるかと思った。
舞い踊る、桜色の煌。
その中で、彼女はその光景に見入っていた。声をかけるのも躊躇われる程に。
長い髪を、花弁と共に躍らせながら。黒い瞳を、桜の煌に染め上げながら。
まるで、今の光景を、この桜の姿を、自分の内に焼き付け様とするかの様に。
とても、とても真剣な眼差しで。
その姿は、綺麗だった。
目の前の桜に負けない位に。
本当に、本当に綺麗だった。
桜色の風に舞う髪も。注ぐ月明かりに浮かぶ肌も。その世界を映す瞳も。
その全てが、この光景の中に溶けていた。
まるで、ここに在ることが当然のことみたいに。
まるで、里香自身が、この桜の化身であるみたいに。
この光景の中に、溶けて、交ざって、綺麗に、可憐に。
輝いていた。
そうさ。
本当に。
本当に。
輝いて、いたんだ。
僕は自分の迂闊さを呪った。
ああ、何で僕はこの場にカメラを持って来なかったんだろう。文字通り、至高のシャッターチャンスだってのに。
カメラは今、土手上に止めてある自転車のカゴの中だ。慌てて里香を追ってきたせいで、つい置いてきてしまった。
僕の馬鹿。
どうしようか。急いで取りに行こうか。
僕は少しの間悩み、躊躇した後、結局それをあきらめた。
この光景は多分、世界が起こした、ちょっとした気紛れ。
諸々の、危うい均衡と調和の上に生まれたほんの束の間の、淡く美しい幻想。
きっと、少しでも目を離せば、その間に消えてしまう。
いや。
それどころか、もし今ここで僕がカメラを取りに行くために動いたりすれば、それだけで全てを崩して、台無しにしてしまう気さえする。
それはきっと、酷くもったいなくて、罪深い事に違いない。
だったら、せめて。
僕は息を殺すと、里香の気を引かない様に、ちょっとだけ後ろに下がった。
この場の空気を、均衡を乱さない様に、極力の注意を払って立ち位置を調節する。
・・・よし。
狙い通り、少しだけ下がったその場所からは、件の桜とそれを見つめる里香とを、絶妙のバランスで視界に収める事が出来た。今のこの光景を一望する、ベストアングル。
そう。僕も焼き付ける事にしたのだ。
今、里香がしている様に。
記憶に、網膜に、僕の内に、焼き付けよう。
今のこの光景を、彼女の姿を、輝きを。
決して。決して、消えない様に。
見つめよう。
時が、この刹那の夢の存続を許すまで。
世界が、この泡沫の幻想に飽きるまで。
無事に陣取りを終えた僕は、改めて目の前の光景に目をやった。
そこでは里香が、相変わらずその瞳を輝かせて桜に見入っている。桜の方も、まるでそれに気を良くしたかの様に、キラキラと煌く花吹雪の大盤振る舞いだ。
歴代あらゆるジャンルの芸術家達が、そろって裸足で逃げ出しそうな、究極の幻想美。
僕はそれを傍らから、ただ黙って見つめ続けた。
この光景を、一人占めに出来る事。
そんな幸福を、しっかりと噛み締めながら――
ふと空を見ると、そこには半分の月が浮いていた。
まるで、今己の下に流れるこの時が、せめて少しでも長く続くを願う様に。
満ちる闇を淡く、それでも確かに照らして。
それは優しく、とても優しく、輝いていた。
―風が歌う。
煌が舞う。
焔が踊る。
燃える。
燃える。
命が、燃える―
続く