2017年04月07日
仏像の歴史変遷とは‐文学部史学科日本美術史リポート
仏像の歴史変遷とは‐文学部史学科日本美術史リポート
日本は外国の文化の接取のために仏教を取り入れる。
その流れで、仏像も日本に入ってくる。
仏像に人は何を求めるのだろうか。
おそらく、安らぎや清らかさ、神秘性、ご利益感など、さまざまな概念を仏像に求めると思われる。
仏教という宗教はインドで始まりいろんな国に伝わっていく。
国や地域性、捉え方の違いによって仏教は違った形で信仰されることになる。
それは、仏像も同じ事で、伝わった国や地域によって、仏像に求める姿や形が違ってくるのである。
日本でも、仏教伝来当初の仏像は、大陸的な様式の仏像だが、しかし、時代を重ねていく間に、徐々に日本的な独自の仏像が作られるようになる。
飛鳥時代の代表的な仏像として奈良法隆寺の釈迦三尊像がある。
この仏像は、現存する最古の仏像と言われており、きわめてアジア的な日本の仏像とは様式の異なった仏像である。
釈迦三尊像の源流は従来北魏の仏像様式が百済から日本に伝わったと考えられてきたが、しかし、近年は中国南朝から百済、そして、日本へと仏像様式が伝わったとも考えられている。
細かい部分はまだ解明されていないが、大陸の仏像様式が百済経由で日本に伝えられたと考える事ができる。
釈迦三尊像の特徴は、木製の台座の上に座禅を組んで座っている。
そして、両脇にはそれぞれ脇侍菩薩が配置されている。
台座の下側を底辺とし、舟形光背の頂点を結ぶと二等辺三角形の形になり、その中に三体の像が入る形となる。
見る人にとって安定感のある作りと言える。
仏像は全体的に痩せた細身感がある。
これは、日本の仏像の特徴である、ふくよかな肉体感のある仏像とは対照的な仏像と言える。
顔は、面長の印象を与える。
大きな鼻も印象的と言える。
目は杏仁形と言われる深く細長い目をしている。
口は大きな鼻のためか大きく感じる。
唇は仰月形と呼ばれるものである。
イメージとして聡明で高貴な感じのする顔立ちだと思う。
飛鳥時代の仏像の特徴的な様式は以上げたような様式の仏像が多いと言える。
様式として日本的な特徴のある仏像の様式ではないため珍しいと言える。
しかし、その珍しさは私からみれば、神秘的な仏像というイメージをより与えてくれるものである。
その他、飛鳥時代の代表的な仏像として百済観音像と夢殿観音像がある。
それぞれ、若干違った様式の仏像で、飛鳥様式の仏像でも、流派のようなものがあったと推測される。
百済観音像はクスノキの一木造りである。このクスノキの一本造りの技法は当時のとしては主流の造り方と言える。
百済観音像の私が見たイメージは、不気味な恐さがあったが、しかし、その中にやさしさを感じたイメージであった。
夢殿の観音菩薩像の特徴は厳格な左右対象と鋼のようにはりつめた線で構成された像身にある。
イメージとして、力強さを感じ、飛鳥仏像のイメージと少しかけ離れていた。
後、気になったのが、不思議でなんとも言えない笑みが特徴的だと言える。
白鳳時代に入ると仏像にも変化が出てくる。
白鳳時代の仏像は日本人が知る仏像の姿に近くなり、日本的な仏像の原点を見る事ができるであろう。
歴史的にも仏教が外国のものから日本のものに変わってきた時代とも言える。
仏教も浸透を始め、国家政策とも結びつくようになってきた。
また、日本に仏教を伝え、影響を与え続けてきた百済が滅亡したことも大きな事件である。
このように、日本の内外で仏教を取り巻く環境が大きく変化したことも仏像の様式が変わってきたことと関連していると思える。
全体的なイメージとして、顔は面長からやや丸みやふくらみがでてきた。
胴体に関してもややふくらみと丸みを帯びてきたように思われる。
素材は、木や銅以外に、塑や乾漆の像が作られるようになってくる。
なぜ変化が起きた理由として、北魏の影響から唐の影響への変化が考えられる。
しかし、それ以外に私が思うに、国内の変化で、仏教に救済を求める思想が生まれたのではと考える。
そして、仏像に救済を求めるなら、細身な仏像より、ふくよかな仏像に対して安心感がでるのではと考えた。
白鳳時代の代表的な作品として、法隆寺夢違観音像がある。
この像は悪い夢を良い夢に取り替える像として信仰された。
また、鋳造技術が高く、三面の宝冠と台座は別の鋳で、本体は1つの鋳で造られている。
見た感じのイメージは、しっかりした造りと体のラインがよくでていることである。
そして、率直な第1印象は雰囲気的に、日本の古代以前に出土されている土偶のイメージとだぶって見えた。
それは、神秘的でもあり、宇宙的なイメージでもある。
天平時代は遣唐使などによる大陸文化の接取や律令国家体制の確立、平城京への遷都などに見られるように唐の影響を受けた時代である。
国家のシステムだけでなく仏教もまた唐の影響を受けたと推測される。
そして、国分寺の建設にみられるように、仏教に対しての鎮護国家思想が定着した時代である。
仏像も多数作られ、仏教の文化が花開き、仏教美術も最盛期を迎えたと言えるだろう。
代表的なものとして、東大寺の建設とそれに伴う多数の仏像である。
有名な東大寺の大仏はこの時代に作られた。
東大寺の大仏から分かるように巨大な仏像を作る技術が進展した。
また、興福寺の阿修羅像に見られるような写実的な表情の変化もうまく捉える事ができる技術も進歩したと言えるだろう。
(美術の本9 中国/日本の美術 講談社 参照)(原色日本の美術2 法隆寺 久野健
鈴木嘉吉 小学館 参照)
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日本は外国の文化の接取のために仏教を取り入れる。
その流れで、仏像も日本に入ってくる。
仏像に人は何を求めるのだろうか。
おそらく、安らぎや清らかさ、神秘性、ご利益感など、さまざまな概念を仏像に求めると思われる。
仏教という宗教はインドで始まりいろんな国に伝わっていく。
国や地域性、捉え方の違いによって仏教は違った形で信仰されることになる。
それは、仏像も同じ事で、伝わった国や地域によって、仏像に求める姿や形が違ってくるのである。
日本でも、仏教伝来当初の仏像は、大陸的な様式の仏像だが、しかし、時代を重ねていく間に、徐々に日本的な独自の仏像が作られるようになる。
飛鳥時代の代表的な仏像として奈良法隆寺の釈迦三尊像がある。
この仏像は、現存する最古の仏像と言われており、きわめてアジア的な日本の仏像とは様式の異なった仏像である。
釈迦三尊像の源流は従来北魏の仏像様式が百済から日本に伝わったと考えられてきたが、しかし、近年は中国南朝から百済、そして、日本へと仏像様式が伝わったとも考えられている。
細かい部分はまだ解明されていないが、大陸の仏像様式が百済経由で日本に伝えられたと考える事ができる。
釈迦三尊像の特徴は、木製の台座の上に座禅を組んで座っている。
そして、両脇にはそれぞれ脇侍菩薩が配置されている。
台座の下側を底辺とし、舟形光背の頂点を結ぶと二等辺三角形の形になり、その中に三体の像が入る形となる。
見る人にとって安定感のある作りと言える。
仏像は全体的に痩せた細身感がある。
これは、日本の仏像の特徴である、ふくよかな肉体感のある仏像とは対照的な仏像と言える。
顔は、面長の印象を与える。
大きな鼻も印象的と言える。
目は杏仁形と言われる深く細長い目をしている。
口は大きな鼻のためか大きく感じる。
唇は仰月形と呼ばれるものである。
イメージとして聡明で高貴な感じのする顔立ちだと思う。
飛鳥時代の仏像の特徴的な様式は以上げたような様式の仏像が多いと言える。
様式として日本的な特徴のある仏像の様式ではないため珍しいと言える。
しかし、その珍しさは私からみれば、神秘的な仏像というイメージをより与えてくれるものである。
その他、飛鳥時代の代表的な仏像として百済観音像と夢殿観音像がある。
それぞれ、若干違った様式の仏像で、飛鳥様式の仏像でも、流派のようなものがあったと推測される。
百済観音像はクスノキの一木造りである。このクスノキの一本造りの技法は当時のとしては主流の造り方と言える。
百済観音像の私が見たイメージは、不気味な恐さがあったが、しかし、その中にやさしさを感じたイメージであった。
夢殿の観音菩薩像の特徴は厳格な左右対象と鋼のようにはりつめた線で構成された像身にある。
イメージとして、力強さを感じ、飛鳥仏像のイメージと少しかけ離れていた。
後、気になったのが、不思議でなんとも言えない笑みが特徴的だと言える。
白鳳時代に入ると仏像にも変化が出てくる。
白鳳時代の仏像は日本人が知る仏像の姿に近くなり、日本的な仏像の原点を見る事ができるであろう。
歴史的にも仏教が外国のものから日本のものに変わってきた時代とも言える。
仏教も浸透を始め、国家政策とも結びつくようになってきた。
また、日本に仏教を伝え、影響を与え続けてきた百済が滅亡したことも大きな事件である。
このように、日本の内外で仏教を取り巻く環境が大きく変化したことも仏像の様式が変わってきたことと関連していると思える。
全体的なイメージとして、顔は面長からやや丸みやふくらみがでてきた。
胴体に関してもややふくらみと丸みを帯びてきたように思われる。
素材は、木や銅以外に、塑や乾漆の像が作られるようになってくる。
なぜ変化が起きた理由として、北魏の影響から唐の影響への変化が考えられる。
しかし、それ以外に私が思うに、国内の変化で、仏教に救済を求める思想が生まれたのではと考える。
そして、仏像に救済を求めるなら、細身な仏像より、ふくよかな仏像に対して安心感がでるのではと考えた。
白鳳時代の代表的な作品として、法隆寺夢違観音像がある。
この像は悪い夢を良い夢に取り替える像として信仰された。
また、鋳造技術が高く、三面の宝冠と台座は別の鋳で、本体は1つの鋳で造られている。
見た感じのイメージは、しっかりした造りと体のラインがよくでていることである。
そして、率直な第1印象は雰囲気的に、日本の古代以前に出土されている土偶のイメージとだぶって見えた。
それは、神秘的でもあり、宇宙的なイメージでもある。
天平時代は遣唐使などによる大陸文化の接取や律令国家体制の確立、平城京への遷都などに見られるように唐の影響を受けた時代である。
国家のシステムだけでなく仏教もまた唐の影響を受けたと推測される。
そして、国分寺の建設にみられるように、仏教に対しての鎮護国家思想が定着した時代である。
仏像も多数作られ、仏教の文化が花開き、仏教美術も最盛期を迎えたと言えるだろう。
代表的なものとして、東大寺の建設とそれに伴う多数の仏像である。
有名な東大寺の大仏はこの時代に作られた。
東大寺の大仏から分かるように巨大な仏像を作る技術が進展した。
また、興福寺の阿修羅像に見られるような写実的な表情の変化もうまく捉える事ができる技術も進歩したと言えるだろう。
(美術の本9 中国/日本の美術 講談社 参照)(原色日本の美術2 法隆寺 久野健
鈴木嘉吉 小学館 参照)
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