2017年01月14日
教職入門リポート・教師になる意味とは?法政大学通信教育部教職課程
教職入門リポート・教師になる意味とは?法政大学通信教育部教職課程
教育をつかさどる教師の仕事は非常に重要である。
教育は時として危険な存在にもなる。
教育は人間の人格を作るもので、その方法が間違えば危険な人間ができてしまう可能性がある。
第二次世界大戦後の日本の教育は、戦前の反省を踏まえたものである。
戦中は教育が国家のために利用された社会である。
戦中の日本国家は、植民地獲得のために戦争を行いつづける軍国主義国家である。
それは、天皇を中心とした中央集権体制のもと、国民が1つとなった国家でもある。
戦中の教育でもっとも重要なのが国家のための教育、国家のための教員である。
教育を行うのは国家の意思を国民に伝えるためで、日本国家にとって、扱いやすく、国家のために忠誠を尽くせる人間を育てるために教育制度が利用され、また、教師の資質として、国家の意思を子供にたたきこむことが教師の資質となった。
そして、戦時中ともなると、教育は、軍人を作る養成機関の役割をはたして、教育が武力と密接に結びつくものとなった。
私が担当する社会科教育でも、国の意思が大きく影響された。
真実の歴史とは言えず、天皇の神格性の意味付けとして歴史を系統的に学習する内容で、天皇を神として、国家に忠誠を尽くせる人間を育成していった。
日本は、植民地主義により、内外に多大な損害を蒙り、終戦を迎えた。
第二次世界大戦の敗北は、日本の国家政策が過ちを犯していたことに気付かせ、日本の国家政策を支えた教育もまた、過ちを犯していたことに気がついたことになる。
戦後は、戦前の過ちを反省し、2度と同じ過ちを繰り返さない理念を踏まえた国家政策を行うことになる。
そして、日本国憲法が作られた。
日本国憲法は、占領国のアメリカ主導のもとに作られた憲法だが、しかし、平和と人権を考えた、戦前の反省点を考慮に踏まえた、徹底した平和憲法である。
そして、日本国憲法に促した形で教育基本法が作られた。
教育基本法の理念は、平和、個性である。
平和教育とは、戦争がなく、物事の紛争は武力じゃなく、言葉を使って民主的に解決することができる人間を育てることにある。
戦争と暴力で物事を解決していた時代の反省と言える。
戦後の主権は天皇から国民へ変わった。
これは国民によって国家が運営される民主国家のことであり、そして、主権者の国民を教育するのが教師の役割である。
次ぎの時代を担う、子供達に平和や民主主義を教育することは、平和で民主的な国家を作ることにも繋がる。
個性豊かな人間を育てることは、戦前のような、言論の自由も奪われ個人の自由もままならない、統一的な思想を持った国民教育への反省からきている。
もちろん、現在の社会でも、さまざまな規制やモラル、価値観などがあり、実際に個性豊かな人間を育てる教育を行うのは難しく、自由な社会だとは思えない。
しかし、個性豊かな人間を育てるのは理念としては良いものである。
個性豊かな人間を認めることは、その人が持つ人間性を認めることであり、人それぞれが持つ人権を尊重することにも繋がっている。
教師の役割は、本来さまざまな価値観や考えを持っている人間の個性を伸ばすことにある。
個人が持つ個性を伸ばすことによって、人間にはそれぞれ侵す事のできない人権があり、人それぞれの尊厳もある事が認識されるであろう。
教師になるということは、現在の日本国家がのぞむ平和を重んじる個性豊かな国民を育てる使命を果たす事である。
現在の教育も国家の意思がすくなからず入っていると考える事ができる。
国家が望む平和という価値観が本当の意味で正しいのか、正しくないのか私には分からないが、しかし、思うに、平和を望む個性豊かな人間を育てる使命はすばらしいことであり、世の中、戦争もなく平和に暮らせたら、それが人間にとって良い事だと思う。
そして、そう願いたいものである。
日本国憲法は非常にすばらしい理念であると思う。この素晴らしい理念をもとに教育が行われるのは大変良いことであるが、平和と言う理想論だけでは世の中通用しないこともある。
平和と武力の関係、例えば平和を維持するための自衛隊の存在など、現実的な問題も考えていかなければならない。
教師になるということの意味は、理想論だけの平和ではなくて、実際の生活に密着した形での現実的な価値観で平和を考えられる個性豊かな人間を育てることにある。
そして、平和な国家を築き、平和な世界を築き、人々が幸せに暮らせる世の中を作ることが教師に課せられた使命だと私は思います。
(新しい社会・地理・公民の教育 大森正 石渡延男 梓出版 参照)
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教育をつかさどる教師の仕事は非常に重要である。
教育は時として危険な存在にもなる。
教育は人間の人格を作るもので、その方法が間違えば危険な人間ができてしまう可能性がある。
第二次世界大戦後の日本の教育は、戦前の反省を踏まえたものである。
戦中は教育が国家のために利用された社会である。
戦中の日本国家は、植民地獲得のために戦争を行いつづける軍国主義国家である。
それは、天皇を中心とした中央集権体制のもと、国民が1つとなった国家でもある。
戦中の教育でもっとも重要なのが国家のための教育、国家のための教員である。
教育を行うのは国家の意思を国民に伝えるためで、日本国家にとって、扱いやすく、国家のために忠誠を尽くせる人間を育てるために教育制度が利用され、また、教師の資質として、国家の意思を子供にたたきこむことが教師の資質となった。
そして、戦時中ともなると、教育は、軍人を作る養成機関の役割をはたして、教育が武力と密接に結びつくものとなった。
私が担当する社会科教育でも、国の意思が大きく影響された。
真実の歴史とは言えず、天皇の神格性の意味付けとして歴史を系統的に学習する内容で、天皇を神として、国家に忠誠を尽くせる人間を育成していった。
日本は、植民地主義により、内外に多大な損害を蒙り、終戦を迎えた。
第二次世界大戦の敗北は、日本の国家政策が過ちを犯していたことに気付かせ、日本の国家政策を支えた教育もまた、過ちを犯していたことに気がついたことになる。
戦後は、戦前の過ちを反省し、2度と同じ過ちを繰り返さない理念を踏まえた国家政策を行うことになる。
そして、日本国憲法が作られた。
日本国憲法は、占領国のアメリカ主導のもとに作られた憲法だが、しかし、平和と人権を考えた、戦前の反省点を考慮に踏まえた、徹底した平和憲法である。
そして、日本国憲法に促した形で教育基本法が作られた。
教育基本法の理念は、平和、個性である。
平和教育とは、戦争がなく、物事の紛争は武力じゃなく、言葉を使って民主的に解決することができる人間を育てることにある。
戦争と暴力で物事を解決していた時代の反省と言える。
戦後の主権は天皇から国民へ変わった。
これは国民によって国家が運営される民主国家のことであり、そして、主権者の国民を教育するのが教師の役割である。
次ぎの時代を担う、子供達に平和や民主主義を教育することは、平和で民主的な国家を作ることにも繋がる。
個性豊かな人間を育てることは、戦前のような、言論の自由も奪われ個人の自由もままならない、統一的な思想を持った国民教育への反省からきている。
もちろん、現在の社会でも、さまざまな規制やモラル、価値観などがあり、実際に個性豊かな人間を育てる教育を行うのは難しく、自由な社会だとは思えない。
しかし、個性豊かな人間を育てるのは理念としては良いものである。
個性豊かな人間を認めることは、その人が持つ人間性を認めることであり、人それぞれが持つ人権を尊重することにも繋がっている。
教師の役割は、本来さまざまな価値観や考えを持っている人間の個性を伸ばすことにある。
個人が持つ個性を伸ばすことによって、人間にはそれぞれ侵す事のできない人権があり、人それぞれの尊厳もある事が認識されるであろう。
教師になるということは、現在の日本国家がのぞむ平和を重んじる個性豊かな国民を育てる使命を果たす事である。
現在の教育も国家の意思がすくなからず入っていると考える事ができる。
国家が望む平和という価値観が本当の意味で正しいのか、正しくないのか私には分からないが、しかし、思うに、平和を望む個性豊かな人間を育てる使命はすばらしいことであり、世の中、戦争もなく平和に暮らせたら、それが人間にとって良い事だと思う。
そして、そう願いたいものである。
日本国憲法は非常にすばらしい理念であると思う。この素晴らしい理念をもとに教育が行われるのは大変良いことであるが、平和と言う理想論だけでは世の中通用しないこともある。
平和と武力の関係、例えば平和を維持するための自衛隊の存在など、現実的な問題も考えていかなければならない。
教師になるということの意味は、理想論だけの平和ではなくて、実際の生活に密着した形での現実的な価値観で平和を考えられる個性豊かな人間を育てることにある。
そして、平和な国家を築き、平和な世界を築き、人々が幸せに暮らせる世の中を作ることが教師に課せられた使命だと私は思います。
(新しい社会・地理・公民の教育 大森正 石渡延男 梓出版 参照)
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