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2016年10月06日

廃藩置県‐(日本史概説リポート)


サイト管理者「真田まさお」著書、卒業論文を元に制作、卒業論文作成は他者が書いた作品が一番の参考資料になります。



古き良き時代の終わりと新時代の幕開け

廃藩置県‐(日本史概説リポート)

廃藩置県概要


 1871年、現在の日本の様な中央集権国家をめざして、江戸時代の幕藩体制を解体して、藩を廃して、全国を政府の直轄地にするために県を配置した。

これにより、武士の時代は終わりを向かえ、中央集権化が現実のものとなり、近代国家日本が歩み出した。

 
 江戸時代の日本は、徳川幕府が日本を治めていたが、国内には数多くの藩があり、中央集権国家ではなかった。


 そんな中、長州藩の下級武士を中心として尊王攘夷論が盛んになる。

しかし、長州藩では四国艦隊下関砲撃事件などにより攘夷論はなくなり逆に開国を主張する勢力が台頭してくるようになる。

そして、尊王攘夷論が後に討幕論へと変化していく。


 そんな中、幕府による第二次長州征討が行われたが長州藩は、連戦連勝し停戦した。

それに加え、薩摩藩と長州藩が同盟し、討幕の主力を形成する事となり、討幕が現実のものとなっていった。


 このような状況で将軍徳川慶喜は、朝廷を統治主体としたうえでの公議政体論構想を掲げ、体制を朝廷に奉還し、朝廷のもとでの諸侯による議会体制のなかで、徳川家の新たな形での実質的な支配権を維持しようと試みた。

これを大政奉還という。

 
 これに対し討幕派は、天皇自身の決断を直接に奉じて実現することで「天皇親政」を担う政治勢力であるという正当性を付与しようとし、王政復古の大号令が発せられることになった。


 そして、倒幕派は新政府としての基本方針を五箇条のご誓文として発布した。

これにより、王政復古以来の天皇親政の方針を誓文として確定させることができた。

同時に開国和親の方針が明らかになった。

新政府は誓文にもとづき、官制改革をおこなった。中央では古代律令体制日本の太政官制が復活し、太政官に権力が集められた。

そして、司法、行政、立法の三権の分離主義が行われた。

地方では、新政府直轄地うち東京、大阪、京都などの重要な地域を府、その他を県とし、藩は従来通り藩主が治めた。

府藩県三治制という。


 だが、新政府と言われたものは、朝廷と公家と薩摩、長州を中心とした諸藩の集合体にすぎず、各藩の意向をどのように統合するかと言うことが依然として課題となり、藩そのものがじゃまになってきた。

こうした状況で全国をすべて直接朝廷の支配下に置くことを実現しようとする動きがでてくる。

このことを一番積極的に試みたのは、新政府の指導者である長州藩の木戸孝允であった。

木戸孝允は前藩主毛利敬親に版籍奉還を説き、毛利敬親に版籍奉還を決意させた。

そして、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が版籍奉還を出願した。

こうしたこともあり、群県成立の課程である版籍奉還が全国レベルで実現していく。だが、版籍奉還は諸藩主が土地と人民を返上したにすぎず、依然として集権化という課題は残されたままであった。


 そして、版籍奉還以後、政府では政治改革が議論され、薩摩藩と長州藩を中心とする勢力と、高知藩、米沢藩、福井藩、彦根藩、熊本藩、徳島藩、を中心とする非薩長勢力の政治路線が存在していた。


 このような情勢の中、廃藩クーデターが断行される。

これは孤立化の危険を感じた長州系の若手が最初に考え、それに木戸孝允、大久保利通、山形有朋、西郷隆盛ら、薩長両藩の実力者が同意し1871年2月に兵一万を親兵として東京に召集し、七月一四日、一気に廃藩置県を強引に断行した。

このクーデターが成功した理由として、実力者達の同意と協力、秘密にした入念な計画、そして、一番の理由は、薩長の巨大な武力を背景とした強引さで、たとえ藩の反乱があっても武力により潰される可能性が高かった。

また、財政難で藩経営に行き詰まり、廃藩を期待している藩が多数あったという事実があった。

廃藩反対の中心だった薩摩藩の島津久光でさえ、うっぷんの花火を打ち上げただけで、たいした混乱もなかった。

その他、長州、米沢、福井藩のように知藩事自ら反乱を防止するため、廃藩置県に不平をもらす士族に対して反乱をしないように説き伏せた藩もあった。

そして、新政府は、知藩事と士族に対して優遇制策をとり不満をそらした。これらの理由で反乱は発生しなかった。

 
 しかし、西日本を中心とした農民達は廃藩置県に対して反乱を起こした。

だが農民達の反乱は部分的で組織化もされず、すぐに鎮圧された。反乱の理由として、急速的な変化に対するとまどいや開化政策による西洋人恐怖、税に対する不安などが原因として考えられる。


 中央政府では、大規模な機構改革で太政官制の強化や神祇官の消滅が行われ、地方では、藩は廃止され新しく県が作られ、旧藩主である知藩事は解任されて東京在住を命じられた。

全国3府302県になり、すぐに3府72県1使に、旧大藩、とくに有力藩は大体において藩がそのまま県として認められた。県の規模は、だいたい、石高30万石〜40万石程度とした。

県名は、ほとんどが旧藩名を使わず、群名を使用することが多かった。

しかし、有力大藩では旧藩名がそのまま県名とされる事が多く、旧藩勢力との妥協がはかられている。

その後、1873年に3府58県1使、76年に3府34県1使になって、89年に現在の形となった。

府県の府知事、県令には、原則として他府県出身者を任命した。


 廃藩置県の断行は、日本が近代国家になるうえで画期的な意義を持っていた。

だが、軍事クーデターという強引なやり方での断行は、これからの政府のあり方に大きく作用する要因となった。

いずれにしても、廃藩置県により、中央集権化した日本が急速に力を付けこの後の世界史にも大きく影響を与え、列強の仲間入りを果たし、近代国家を作っていく。 

参考文献(中央公論社、日本の近代、明治国家の建設、坂本多加雄著)(集英社、明治維新、中村哲著)(廃藩置県 勝田政治 講談社)
など参照。



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